ナローの深淵

あじさい

* * *

 ノヴェル連盟は多様性に富んだ広大な領域を持ち、政治体制が異なるいくつもの国によって構成されている。

 そして、「ジュブ=ナイルの森」という森林地帯が、あみの目のように国々をへだてている。


 かつて、ジュブ=ナイルの森には不思議な魔力があった。

 訪れた者は知性をむしばまれ、向上心を失い、脈絡もなく奇声を上げるようになるといううわさが、まことしやかに囁かれていた。

 そのため、ジュンブン共和国の元老院も、オトギ王国の七賢者も、カイダン首長国の長老も、ロマン民主国の国民議会も、エス=エフ帝国のスーパーコンピューター群も、ジュブ=ナイルの森に国土が侵食されることを警戒していた。

 だが、ジュブ=ナイルの森はやがてその魔力を弱め、人々に恵みをもたらす芳醇な森へと変わっていった。

 空気中の霊的エネルギー「ヨロン」を吸収して浄化されたせいと言われているが、元々人間の敵意を毒素に変える性質があり、人々が森との共存を始めたことで毒素が薄れたのではないか、とも言われている。


 しかし、世界がどうなっても、人の目が届かない場所は存在する。


 ある時から、ジュブ=ナイルの森の片隅で、黒い霧のようなものが目撃されるようになった。

 ナローの深淵、と人は呼ぶ。

 接触した者がどうなるのか、それは人によるとしか言えないが、とにかく無事では済まない……。


 今、1人の青年がナローの深淵を探して、ジュブ=ナイルの森を歩いていた。


 彼はロマン民主国の大学に通う平凡な学生だった。

 だが、ある日、ジュブ=ナイルの森に出かけた学友たち2人がナローの深淵と接触し、別人のようになって帰ってきた。

 1人はニヤニヤと気色の悪い笑みを絶やさないようになり、もう1人は些細なことにもイライラするようになった。


「何があったんだ?」

 1人に聞くと、彼は人を小バカにしたようにクスクスと笑いながら答えた。

「ここではないどこかで、自分以外の誰かになったのさ。ゲームのリセットボタンを押すような、素晴らしい快感だったぜ。あんなものを体験しちまったら、肩肘張って勉強することなんてバカバカしくなる」

「大学を退学するとか言い出さないよな?」

「まさか。そこまでバカになっちゃいない。でも、時々はナローの深淵に触れないことにはどうにもならないだろうな。そういう体になっちまった」


「ナローの深淵に触れたときのこと、聞いてもいいか?」

 もう1人に聞くと、彼女はプリプリとへそを曲げながら答えた。

「どうもこうもないわ。お話にならないとはこのことね。あれについて話そうにも、何から話せばいいのか分からないし、話すこと自体バカバカしく思えてくるの」

「不快なことを思い出させたね、すまない」

「別に怒っちゃいないわ、あなたにも、ナローの深淵にもね。嫌なことを色々思い出しちゃったけど、ナローの深淵がなくても時々は思い出してきたことなのよ。これからも度々たびたび思い出すでしょうね」


 こうなったら自分で確かめに行くしかない、と青年は思った。

 ヤバいものなのは分かる。

 触れずに済むなら触れないままでいるのが、賢い選択に違いない。

 だが、彼は学友たちがすっかり変わってしまった理由をどうしても知りたかった。

 それに、もしナローの深淵に触れたとき、自分がどうなってしまうのだろう、という危険な好奇心もあった。


 噂では、ジュブ=ナイルの森を歩いていれば、いつの間にかナローの深淵に突き当たる。

 そのため、青年は黙々と森の中を進んでいった。

 森の木々は入れ替わりが激しい。

 多くの木は細いまま成長が止まり、大樹の枝の隙間からわずかに差し込む日光で、どうにかながらえる。

 大樹は空気中からヨロンを取り込み、太く大きく育つ。

 あまりにも存在感が強いため、何百年もそこに君臨しているように見えるが、巨木の多くはせいぜい樹齢20年といったところである。

 何にせよ、青年はそんな絶景に目もくれず、森を分け入っていく。


 どれくらい時間が経っただろう。

 青年はふと立ち止まった。

 辺りを見回して、気付いた。

「そうか……!」

 青年が歩いてきた道の左右には、黒い霧のようなものがじっとりと立ちこめていた。

「見つからないと思っていたが、俺自身が、無意識に避けていたのか」


 青年はナローの深淵に飛び込んだ。


 1歩踏み込めば、それで充分だった。

 風が鼻から耳に抜けていくような冷たい感覚の後、三半規管が揺さぶられ、青年は足をくじきそうになった。

 頭の中を誰かに触られているような異物感があり、頭皮からも、肩からも、背中からも、妙な汗が噴き出した。

 頭を押さえようとしたが、手が上手く動かせない。

 やっとの思いで頭を押さえて、深呼吸をすると、ようやく眩暈めまいがマシになった。


「なるほどな。体験してみないことには分からないだろうが、体験してみれば明らかだ」


 困難に出合ったノヴェル連盟の市民の多くがそうするように、青年は自分の考えを言葉にした。


「ナローの深淵は、ジュンブンの元老院も裸足で逃げ出すレベルの、赤裸々な精神というわけだ。ジュブ=ナイルの森はヨロンに浄化されていたわけじゃない。どこかに……そうか、地中アンダーグラウンドか」


 青年は自分が立っている地面を見た。


「地中に毒素を隠していたんだ。たぶん、森がかつて放っていた毒素とヨロンが化学反応を起こすと、まずいことになるんだ。木がれて空気もくさるとか、人や動物がめなくなるとか……。ともかく、空気中のヨロンが多いときは毒素を出さないのが、ジュブ=ナイルの森の自衛行動なんだ。でも、毒素は消えなかった。今、それがナローの深淵となって吹き出している、そうに違いない!」


 青年は再び顔を上げ、黒い霧のさらに奥に、一歩、また一歩と足を進めた。


「ふた昔前の噂によれば、『ジュブ=ナイルの森を訪れた者は知性をむしばまれ、向上心を失い、脈絡もなく奇声を上げるようになる』……。なるほど。難しいことを考えたくないのも、努力せず甘い汁だけ吸いたいのも、万人に共通する根源的な欲求だ。奇声を上げるというのはよく分からないが……」


 青年は、考えるより先にナローの深淵に踏み込んだ。そうすれば答えが分かるような気がしたからだ。

 すると、期待通り、さっきまで及ばなかった考えがひらめいた。


「あの2人がナローの深淵を上手く説明できなかったのは、2人で一緒にいたからか! 赤裸々な精神と恥じらいなく付き合うには、言葉が必要だ。でも、自分以外の人間がいると言葉の自由は阻害される。責任が生まれるからだ。だから、2人は自分自身の言葉を紡ぐことができなかった。反対に、1人きりでここにいる俺は、自由にこの霧の中を歩くことができる!」


 黒い霧の中には、何本もの木々が、風に吹かれもせず、葉音1つなく佇んでいた。

 様々な木々がある中で、青年は興味を持った木に手を伸ばし、手のひらで優しく触った。

 つるつるして温かいみきもあれば、ザラザラして冷たい幹もある。

 生命力にあふれた木もあれば、傷を負った木もあった。

 青年は次第に木々が愛おしくなり、その気持ちが高まると樹皮に頬ずりした。


 何十時間も、何日も、もしかすると何週間も、そうやって過ごした。

 ふと、沈黙が支配する森の中に、ぼんやりと誰かの声がこだました。


「何だ? 俺を呼んでいるのか……?」


 いつもの癖でそう声に出して、はっとした。


 冷静になったせいか、急激な空腹感と倦怠感けんたいかんが青年の身体を上から下まで貫いた。

 青年は朦朧もうろうとして木の根元に身体を降ろしながら、しかし、もっと重大なことに気付いた。


「ここはどこだ? 帰り道は……?」


 分からない――。


 恐怖と後悔の念が、全身を打った。


 ――今はいつだ? あれから何日経った? 俺は今まで何をしていた?


 顔を上げたが、黒い霧の中で、木々は相変わらず何も言わない。

 青年は先ほどまで触っていた木に触れた。

 だが、先ほどまでとは打って変わり、これっぽっちも楽しい気持ちになれない。


「おーい!」


 声がした。

 先ほどと同じ、女性の声だ。


「おーい! どこー?」


「ここだ! 俺はここだ!」


 沼のような疲労感に沈みつつ、青年はわらにもすがる思いで叫んだ。


「助けてくれ!」


「おーっ、そんなところで寝てたの!」


 快活な声と共に、黒い霧がサーッとけ、太陽とヨロンの光を背負いながら、1人の女性が歩いてきた。

 見覚えがある……というか、


「オカン!?」


「そうや、あんたのオカンや」


「さっきまでと口調が違う……。というか、どうしてオカンがここに?」


「オカン、レスキュー・オカンのメンバーやからな」


「レスキュー・オカン!?」


「実の息子が森に行って何日も帰ってこんから、連れ戻しに来たんや。あかんで、あんた、ジュブ=ナイルの森なんてほどほどにしとかな」


 オカンはそう言って、1冊の本を取り出した。

 パラリとそれを開くと、高らかに読み上げた。


――――

「ちょっと、主人公! ミーアのカレーばっかり食べてないで、私のハヤシライスも食べなさい! ほら、あーん」

「ヤキモチなんて見苦しいわよ、クレア」

「ヤ、ヤキモチなんかじゃないわよ! 主人公が私のハヤシライスを食べたそうにしてただけ! 勘違いしないでよね、私があーんしたいわけじゃないんだから!」

 クレアとミーアが言い争うと、甲乙つけがたい大きなおっぱいがバイーン、バイーンと揺れる。俺の目は休む暇もなく、2人の胸を行ったり来たりした。

「まあまあ2人とも、落ち着いて」

「「主人公は黙ってて!!!」」

 怒鳴られた。やれやれ、ケンカなんて不毛なことはやめてほしいんだけどな。

――――


 森は阿鼻叫喚あびきょうかんの地獄絵図だった。

 さっきまであんなに静寂せいじゃくを保っていた木々はミシミシと音を立て、何本かは力尽きて倒れた。

 枝やつたは委縮し、大地までもが幼子おさなごのように震えていた。

 青年自身も頭を抱え、悲鳴を上げていた。


「やめろぉ!! オカンのアテレコだけはぁ!!」


「オカンで良ければ、あーんしたげよか?」


「俺が悪かったから!! 許してぇ!!」


 霧はすっかり晴れ、青年の家路を邪魔するものはもう何もなかった。




<完>


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ナローの深淵 あじさい @shepherdtaro

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