図書館の猫は
冬野ほたる
図書館の猫は
私が住むのは灰色の屋根が多い街。
高台にある駅から見下ろすとよくわかる。
駅からの坂道を下る途中に建つ図書館の自習室には、彼がいる。
名前は知らない。
だから猫と呼んでいる。
薄茶色の気まぐれそうな目が、なんとなく猫を連想させるから。
猫の斜め後ろの机にいつも席を取る。
ルーズリーフと教科書とワークを鞄から取り出す。音を立てないようにして。
筆記用具を鳴らす音も最小限に。
家で勉強をするよりも、自習室のほうが集中できる。余計な誘惑がないから。
カリカリと文字を綴る音と、ときどき
夕方の図書館の静寂のなかに、ただその音だけが聞こえる。
私だけが知っている。猫と共有する時間と空間。そのことはたぶん、私の特別。
いつも私服の猫は大学生なのか。それとも制服のない高校に通っているのか。
それすらも知らない。
だって言葉を交わしたことすらない。
後ろから、背中を眺めているだけ。
だけど、猫の醸し出す雰囲気が好き。
猫が筆記具や本を鞄に仕舞って席を立つ。
机の横を通るときに、何の気もない振りをして、ちらりと猫の顔を見るのが精一杯。
ときたま、こちらを向いた猫と目が合う。
恥ずかしくて、すぐに視線を逸らしてしまう。
薄茶色の瞳に心の中を見透かされているような気がして、指先まで熱くなる。
***
自習室の中にも、じっとりとした湿気と雨の匂いが入り込んでいるようだった。
猫の隣には、ふんわりとした長い髪の女の子が座っていた。
猫はいつも通りに本をめくり、何かを書いている。
隣の彼女は文庫本を読み、時折スマホを取り出しては、猫の耳元に顔を近づけた。
小さな声でくすくすと笑いながら。
そのうちに二人は席を立った。
私の机の隣を通る。
彼女から微かに甘い、果物のような香りがした。
私は顔を上げられなかった。
図書館を出るときには雨は霧雨に変わっていた。
傘をさして坂道を下る。
軽い雨の粒が制服のブレザーに張り付き、しっとりと湿らせていく。
「あーあ」
思わず声に出してしまった。
どっちから声をかけたのかな。
同じ学校なのかな。
仲良さそうだったな。
彼女、可愛かったな……。
……なんで何もしなかったのだろう。
……なんで目を逸らしてしまったのだろう。
胸がつきんと痛かった。
風にあおられた雨が目に入って、景色が滲む。灰色の街がさらに灰色に映った。
***
しばらくは図書館に行かなかった。
二人が来ていたらと思うと、どうしても足が遠のいた。
だけど、家にいるとだらけてしまう。
よく晴れた土曜日の午後。
お母さんが掃除機をかけ始めた。
床をごろごろと転がっていると、掃除機でつつかれた。
「手伝わないなら吸い取るわよ」なんて笑いながら。
むくりと起き上がる。
「……図書館に行ってくる」
なに? 手伝わないの~? なんて、後ろでぶつぶつと言っていたけど。
まったく。お母さんは何も解っていないんだから。
自習室の扉を開けた。
いつもの猫の指定席には誰も座っていなかった。
ほっとしたような、がっかりとしたような、妙な気持ちを覚える。
いつも通りの席に向かおうとして、ふと横を見ると。
薄茶色の瞳と目が合った。
「……っ!」
猫が私を見ていた。
逸らしちゃダメと思う間もなく、私は反射的に目を逸らしてしまう。
早足で席に着く。鞄からワークを取り出すが、それどころじゃない。
なんで、今日に限って居るのだろう。
猫が自習室にいたのは平日の夕方だ。
土曜日の午後は見たことがない。
だから図書館に来た……のに。
どうしていつもの席じゃないの。
どうしていつも目を逸らしちゃうんだろう。
どうしてこんな適当な服を着てきちゃったんだろう。
どうして前髪ちゃんと巻いてこなかったの。
どうして……
どうして……
どうして……今日は一人なの?
一時間ほどワークを広げて、何かを書いている振りをした。
心の中ではそんなことばかりを考えて、後ろからする物音に全神経を集中させていた。
ガ、タン。
椅子が引かれる音がした。
この特徴のある引き方は猫の音だ。
自習室の扉が開けられた。ちらりと振り返ると、猫が出ていく後姿が見えた。
……はあ。
心の中でため息をつく。
手の中のシャープペンシルを、ルーズリーフの上にころりと転がす。
机の上に顔を伏せた。
私って……ダメだな。
……同じことの繰り返し。
……ふんわり髪の可愛い彼女は、勇気を出したから、隣に座れたのかな……。
それとも……勇気を出したのは猫の方だったのかも。
のろのろと身を起こして、ワーク類を鞄にしまう。
今日はもう、帰ろう……。
落ち込んだ気持ちでうつむき、視線は足元を
図書館の出入り口の自動ドアをそのまま通り抜ける。自動ドアの先には、数段の階段とスロープがある。その階段を降りると、駅に続く坂道に繋がっている。
アスファルトに反射した午後の陽が眩しくて、視線を上げる。
階段の手すりに猫が寄りかかっていた。
思わず足が止まってしまった。
とんっと、身体に軽い衝撃を感じる。
「あ、ごめんなさい」
とっさに頭を下げる。
急に立ち止まったせいで、後ろを歩いていた人とぶつかってしまった。
「すみません」
母親くらいの年齢の女性は、軽く会釈をした。
私を追い越して、猫の前を通る。
猫がスマホから顔を上げると、私を見た。
気まぐれな雰囲気を持つ、薄茶色の瞳。
――どうしよう。
――どうしよう。
目は、逸らせなかった。
猫も私を見たままだ。
時間が止まったみたい――
ふいに頭の中に、ふわふわ髪の可愛い彼女が浮かんでくる。
くすくすと、猫の耳元で笑う声が聞こえた気がした。
勇気を出したのは、誰――?
私の足、お願い、動いて!
一歩、足を前に出す。
猫が手すりから背中を離す。
もう一歩、足を出す。
猫が身体を私に向ける。
もう一歩。さらに一歩。
階段をおりる手前で、足が止まる。
薄茶色の目を見たまま。頭の中は真っ白。
でも、でも。思い切って。
「あの」
「あの」
私と猫の声が重なった。
図書館の猫は 冬野ほたる @hotaru-winter
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます