天使の旅立ち

小西オサム

天使の旅立ち

 ―起


 人類の大半が土を踏みしめなくなって、街はいつまでも静けさを保っている。公園の遊具はどれも古びてしまってフェンスに囲まれ、ラジオ体操のため人々が早起きして集まっていた光景などおぼえている者はもういないだろう。たぎるような暑さの気配の立ち込め始めた束の間の穏やかな朝である。

 雄飛は自転車をこいで、そんな街をひた走る。三十路の体に、これ以上の暑さはこたえる。だからこそ、彼はこの早朝に保管庫を目指す必要があった。彼は満穂瓦みつほがわら卵子保管庫のただ一人の管理者である。

 肉体がきしむ。日頃、無人ジムで体を鍛えてはいるものの、年齢に体がついてこなくなっている。卵子保管庫の管理者とは保管庫の門番も兼任しているものの、ほとんどが事務仕事でしかない。しかし、雄飛は健康診断に引っかかるような体たらくにはなりたくなかった。いや、むしろ万が一にも運命の人と付き合えることを、彼は期待してジム通いを続けているのかもしれない。

 しかし彼のジム通いはそろそろ潮時だろう。なぜなら彼はもうすぐ卵子保管庫の管理者を首になるのだから。なにも彼の仕事ぶりが悪かったとかそういうものではない。そもそも満穂瓦卵子保管庫自体がなくなってしまうのだ。

 卵子保管庫は卵子提供者の卵子を大切にとっておく場所である。そして子どもを授かりたいと願う家族のもとへ、届けられる。しかし、もう卵子を求める人はほとんどいない。最近は工場出産といって、工場で赤ちゃんを育てて家族へ届けられるのが主流だ。だから最近は、卵子保管庫はどんどん廃止になっている。

 その波が、満穂瓦卵子保管庫にも来た。それだけだ。しかし、雄飛はいまだに、そうやって割り切ることができないでいる。曲がりなりにも彼は、十年近くここで働き続けるのが日常だったのだ。その日々や身に着けてきた仕事を簡単に捨て去れるほど、彼は器用ではなかった。

 次の仕事は彼も探してはいた。しかし、彼は今ある知識を使いたいならば、主流の工場出産関連で働かざるをえないことをひしひしと感じていた。だが、卵子保管庫で働いてきた愛着のせいか、工場出産というものが彼にはどうにもしっくりとこなかった。そんな自分が、つくづく器用じゃないと彼は苦々しい。けれどもそんな自分の姿を彼はどうにも憎めない。

 今日も雄飛は、次の仕事を走馬灯のように脳裏にちらつかせながら、工場の前で自転車を止めた。そして胸ポケットに隠し持っていた入構カードを取り出し、工場の灰色の門の横の、認証機にかざす。門が注意喚起のベルを鳴らしながらゆっくりと開いていく。彼は、開いた門から自転車を押して中へ入っていく。

 彼は愛車の自転車をもう彼以外には誰一人として置くことがなくなった駐輪場に置き、それでも丁寧に駐輪場の片隅に自転車を寄せた。持ち去る人などいないのに抜けない癖で彼は自転車に鍵をかけてそれを抜き取りポケットに押し込む。彼の仕事が始まる。一日も始まる。残り少ない出社日が一日分だけ減っていく。彼は保管庫の管理室へと歩いていく。

 「定期点検開始。三〇一室温よし、空調よし、人なし……、三〇二……、三〇三……」

 管理室に着いた雄飛は慣れた手つきで指差し確認をしながら、保管庫の様子を丁寧に確認していく。管理室の壁には、満穂瓦地区でかつて育っていった子どもたちが描いた絵が何枚も飾られている。定期点検をやっとのことで終えた彼は、椅子にもたれかかってその壁の幾枚もの絵をぼんやり眺める。

 今、満穂瓦地区にいる子どもは三人だ。一人はもうすぐ成人になる。一人は最近工場出産で生まれた赤ちゃんだ。残りの一人は今は小学生だったか、校外学習で数年前に会ったから彼もおぼえている。かなりやんちゃな子で、管理室の機械に触ろうとしたからあわてて止めたことを彼はおぼえている。美羽という女の子だ。

 突然、警告音が鳴り響く。雄飛は急いで立ち上がって、異常のもとをくまなく探していく。侵入者が来たようだ。小さくやんちゃな侵入者が。雄飛はまたかという言葉を管理室に残して、正門を目指す。彼は先ほど、美羽が梯子を門に立てかけて正門をよじ登っているのを監視カメラごしに見ていた。

 「今度はどうした。美羽ちゃん」

 正門前に着いた雄飛はあきれ顔で門の上に乗っかった美羽を見上げる。美羽は彼の姿と声に気づき、髪をかき上げて彼に手を振る。

 「おじさん。やっぱり下りられないよ。助けて」

 「今日もすぐ帰すからな。お母さんの声を聴いたらすぐ帰るんだぞ」

 「うん。はやく!」

 雄飛は手を広げた。美羽は門の上から飛んで、そのまま彼の胸まで飛び込んでくる。彼女の体を受け止めたその瞬間、まだまだ彼女が幼い体であるから、こうやって受け止めることができるが、きっと十年後にはそんなこともできなくなると、彼は悲しい予感がした。

 「大丈夫か。美羽ちゃん」

 「うん。おじさん。私、大丈夫」

 雄飛は美羽をそっと地面に下ろす。なんとか受け止めることができたという安堵が出てきたせいか、途端に外の暑さが体ににじみ出す。汗がぶわっと噴き出てくる。暑いなぁとこぼしたくなるほどの午前の青空で、蝉は鳴きやまず、美羽の話し声がかき消されていく。先を元気に歩く美羽の後ろを、暑さから逃げるように雄飛も追って歩く。

 「やっぱり涼しい。なかは涼しいね。おじさん」

 美羽は鞄を揺らしながら、自動ドアの奥の保管庫内に入っていく。もう何回も来ているからだろう、慣れた足取りで彼女は雄飛を急かす。

 「お母さんに会ったらすぐ帰すからな。美羽ちゃん」

 「分かってるって。大丈夫」

 「分かっているならいいんだ。じゃあ、会いにいこうか」

 雄飛は、美羽の背中をぽんと優しく叩いて彼女の先を行く。うんと元気に笑って期待をはためかせながら彼女は雄飛の横を歩く。その顔を見ていると、この保管庫がなくなることをどうやって伝えようかと彼は悩まずにはいられない。別れがすぐそばに来ていることを知った美羽が悲しむのは目にみえていた。


 ―承


 雄飛は記録庫の認証機に入構カードをかざした。認証完了という人工音声が流れて扉がゆっくりと開いていく。美羽は認証完了と上機嫌で呟きながら雄飛よりも先に記録庫のなかへ入っていく。

 「走らないんだぞ」

 「分かってるって。大丈夫」

 美羽は、はやくはやくと雄飛を急かす。中の見える透明な箱が何層も積み上がっている記録庫を、人工灯が照らしている。美羽を追って歩く雄飛の後ろで扉がゆっくりと閉まっていく音がする。二人は角を曲がり、角を曲がり、奥へと歩いていく。

 「ここでしょ」

 少し誇らしげな顔で、美羽が立ち止まった。

 「そうだな。お母さんの声、再生するか?」

 「……うん」

 「いや、その前に。一つ伝えていいか」

 「どうしたの?」

 美羽が雄飛を見上げる。彼女の瞳に、雄飛は後ろめたさをおぼえた。美羽は心のままに受け入れたくないものに抗っていくだろう。しかし雄飛は、これから何が起ころうと結局は受け入れてしまうだろう。そして彼は後になって頑張れたかもなぁと後悔する。彼はそんな人生に慣れてしまった。抗おうなどと思えない。彼が用意する言い訳は、しょうがない、だろう。

 「この保管庫はなくなるんだ。だから、これからは美羽ちゃんのお母さんの声を聴くことはできなくなる」

 雄飛の言葉を美羽はさえぎらない。彼女の瞳は、雄飛が言い終えて申し訳なさそうに口を閉ざしてからも彼を見上げたままだ。美羽は、何か思い悩むようにうつむいて、それから顔を上げて彼女の母の声の収められた箱を見上げる。

 「……これが最後なの?」

 「仕方ないが、そうなんだ」

 雄飛に問いかけている言葉だけれども、美羽はもう雄飛の顔を見ていない。彼女の瞳が少しずつ潤んでいくのが彼にも分かった。しかし美羽は泣くことも、嫌だと叫ぶこともなく、ただただうつむいている。その姿は、何よりも雄飛の後ろめたさをかき立てた。

 ――どうして彼女の人生はこれからなのに、俺がいつも言うのは終わるからしょうがないばかりなのだろう。

 いつの日か、子どもが思うように生きられなくなってしまった。誰も壊れた遊具を直さない。誰も友達も同級生もいない学校を何も言わない。そして雄飛は合言葉のようにしょうがないと繰り返していた。そんな自分自身が間違っていると彼は思い、しかしそんな彼の人生とは違う人生の姿など彼にはまったく想像できなかった。

 「美羽ちゃん、お母さんの声、再生するか?」

 美羽は涙のたまった瞳のまま、震えをこらえながら小さくうなずく。雄飛はその姿に何か言葉を渡したくなった。しかし彼は何一つかけられる言葉が見つからない。一緒にいるだけで力になるなんて言葉や、話を聞くだけで心が軽くなるなどという言葉を、今の彼はどうしても信じられない。しかし言葉を探せば探すほどに、彼は無力を感じてしまう。いたたまれない心を誤魔化すように彼は箱の横の認証機に入構カードをかざし、浮かび上がる画面の再生ボタンを押す。

 「私みたいに変なところで失敗ばかりしているのかな。それでもずっと元気で」

 少し後悔の影がさした若い女性の声が記録庫に響く。それが美羽のもう一人の母の声だ。美羽が生を授かるために提供された卵子の持ち主の声だ。雄飛は美羽を見る。美羽はどんどん潤んでいく瞳を隠すこともせず、雄飛を見上げ、もう一回と言った。雄飛は何一つ気の利いた言葉をかけられないじれったさをかき立てられながら、それでももう一度再生ボタンを押す。

 「私みたいに変なところで失敗ばかりしているのかな。それでもずっと元気で」

 同じ声が同じように流れる。しかし、先ほどよりも強烈な重みを雄飛は感じた。

 満穂瓦保管庫がなくなる。それは美羽だけでなく、満穂瓦保管庫の卵子で生を授かったすべての子どもの母の声たちがなくなることも意味する。保管庫最後の日は、魂送り祭が開かれ、声も卵子もそれを包み込む装置とともに分解されながら、すべて海へと消えていくからだ。

 今まで保管庫に置かれていた声が新たな記録庫に移されたことがあったという話を雄飛は聞いたことがない。声は、卵子の提供者の個人情報だ。提供者の死後であっても提供者の情報は尊重されるため、声はすべて海へ消えるよう取り決められている。しかしせめて美羽のもう一人の声だけでも残したいと雄飛は考えてしまう。

 「おじさん。私、ここがなくなること知っていたんだ。お母さんが教えてくれたから」

 美羽はもう一人の母の声の余韻を噛みしめるように、母の声の入った箱をまだ見上げている。雄飛はそんな美羽の姿に罪悪感を感じながら、そうかと頷く。

 「でも、私、まだここでこのお母さんの声を聞きたい。ずっと元気でって声を聞いてたい」

 「そうだな。……ごめんな」

 雄飛は頭で考えるよりもはやく、謝罪の言葉が口に出ている。こんな子どもの願い一つさえ叶えられないままでいる自分が、彼は嫌で嫌でしかたない。

 「ううん。本当はだめなのに、私をいつもここに入れてくれるから、おじさんは悪くない。でも……私」

 いつもはいたずらで街の噂の人になっている美羽が、今日はこんなにもしょげているのが、雄飛にはどうにも耐えられない。手でぬぐいながら涙を懸命にこらえている彼女の姿を見て、彼は一つ決意した。せめて美羽の母の声だけでもどこかに残せるように上とかけあおうと彼は決めた。

 「美羽ちゃん。おじさんは、ちょっと頑張ってみるよ。美羽ちゃんのお母さんの声を残せるように、偉い人たちと話してみる」

 「……そしたらまたこのお母さんの声、聴ける?」

 「分からない。そんなこと誰もやらなかった。でも俺はちょっとやってみるよ」

 大ぼら吹きになる恐怖は雄飛にもあった。そして嘘つきと美羽に見放され見下される恐怖も感じていた。それでもちょっとだけでも何かをしてみたいと彼はそう思えた。頑張ってみるよと彼は言って、不安そうな目をする美羽に笑いかけてみせる。



 ―転


 あれから一週間と三日が経った。あのとき美羽が何度も何度ももう一人の母の声を聞いて、涙まじりの笑顔で帰っていったのを、今でも雄飛はおぼえている。あれ以来、美羽は保管庫にはやって来ない。雄飛といえば美羽の背中を見送ったあの日以来、ひたすらに統合管理部に声の移転申請をしている。今日は彼は有給休暇をとって統合管理センターに三回目の直談判に来ている。

 「だからですねぇ。国が動かなきゃそれは無理なんですって」

 白井という担当者と会うのも三回目だ。白井は分けてかためた前髪で見えるおでこをさすり、迷惑そうな目で目の前に座る雄飛を見る。雄飛は都市までの長時間移動での疲れも振り切って、そこを何とかお願いしますと頭を下げた。机すれすれまで頭を近づけるほどの頼みだ。

 「その美羽さんという女の子の願いっていうのは分かるんです。でも我々は法律で動く生き物なんですよ。それに今はほら、情よりもみんなの権利を守りましょうってルールで動いているでしょ。だから無理なものは無理なんですって」

 「誰もが愛を感じる社会へというのが、会社の指針でしたよね。声は愛じゃないんですか。この声が、美羽ちゃんのもう一人の母親を知る唯一の頼みの綱なんですよ。お願いします」

 「だから無理なんですって。あなたがうちの社員だから言いますけどね。もううちは斜陽産業なんですよ。そしてもう大半の人の生みの親は工場なんです。だから卵子の提供者の声の移転を求めたって変えられないんですって。あなたがどれだけ訴えたって、もうウチも国民の心も動かせないんです」

 そんなこと雄飛にも分かっていた。かつては主流だった卵子保管庫ももはや風前の灯火ともしびだ。だから最近満穂瓦地区で生まれた赤ちゃんは、工場出産だったように、今子育てしている家族の多くは工場出産の方に馴染みがある。いまさら世間に訴えたとて共感が生まれるとは彼にも思えない。しかしそんなことで彼は引き下がりたくなかった。

 「……国民の心を動かせばいいんですね。分かりました」

 「どうする気ですか?ちょっと」

 雄飛は、少し希望が見えた気がした。方法は彼にはまったく分からなかったが、国民の心を動かせることができたならば法律が変わり、約一ヵ月後の魂送り祭までに美羽のお母さんの声を移転できるかもしれない。彼はこの統合管理センターでは何も変えることはできないだろうと見切りをつけて、一礼と感謝だけ述べて、すぐに部屋を出る。

 新幹線に乗る道すがら、雄飛は国民を動かす術を何回も考え続けた。しかし何度考えても名案は浮かびそうになかった。焦燥を感じながら、彼は帰宅の途についた。帰り道、今日は居酒屋にでも寄るかと彼は憂さ晴らしに出かけることにする。

 「いらっしゃーい」

 「おっ。雄坊じゃねぇか。こっち来なぁ」

 「お久しぶりです」

 久しぶりの居酒屋だが、店内には馴染んだ顔ぶれが六人ほど揃っている。時々来る程度の店だが、客のおじいさんたちがこっちこっちと席を空ける。雄飛はさっきまでの都会とは違う賑やかさを感じてほっとした。

 「どうした?何かあったか?」

 安爺が保管庫がなくなることとかかわっているのかと聞いてくる。雄飛は席に座り、女将の美恵さんにビールと魚の刺身を注文する。いやぁちょっと悩んでましてと話を切り出せば、周りにいたおじいさん方は自然と雄飛の方を見始める。

 雄飛は、美羽のもう一人の母親である女性の声を移転したいという話を切り出す。

 「そりゃあすごい話だなぁ。今まで誰もそれをしなかったのかい?」

 「まぁ、そうなんですよね。多分俺が初めてかと」

 「そりゃすごいな」

 「おいぃ。それを商店会の話題に持ち込むってのはどうだい?そこで署名活動とかできるんじゃねぇか」

 署名活動、その策は雄飛も考えていなかった。確かにその方法は現状を打開する手立てになるように彼にも思えた。

 「……署名活動、それもアリですね」

 「そうよ。この満穂瓦地区には満穂瓦保管庫で生まれた子どもも、今は大人になったりくたばったりしている者も多いけど、いるんだ。声と一緒に卵子を保管庫に預けた者だって身内をたどれば、この地区の人なら絶対に見つかる。できるはずだ」 

 「やってみます。資料を作って商店会に持ち込んでみます。そう、と決まれば祝い酒ですね」

 雄飛は手立てが見つかって心が軽くなった。白井の悪対応の憂さ晴らしもあって、彼は酒を何べんもあおった。閉店時間になって、おじいさん連中の話を聞いたりして楽しんだ彼は、上機嫌の千鳥足で自宅のアパートに帰り、すぐに眠った。

 翌日から、雄飛は仕事終わりに自宅で資料を作り始めた。そんなことをしても何も変わらないと何度も脳裏によぎりながらも、彼は作ることをやめなかった。現状の法律の説明から、保管庫の歴史まで、休日に遠くの図書館まで足を運び、見やすく分かりやすくと頭を悩ませながら資料作成に没頭した。

 雄飛がここまでするのは、最初は後ろめたさからだったろう。しかし、今はそれだけではない。人類という種の老いと終わりを小さいころに押し付けられ、それを美羽のような子どもに押し付けてきた自分が、まだ進めると勇気づけることができるような何かを美羽に見せたかった。

 資料は完成した。それをもう後戻りはできないと腹をくくって町内会長の安爺に見せると、安爺は町内中にくばろうかと雄飛に言った。そして雄飛と有志の爺さんと婆さんたちで町内の家々のポストに資料を入れてまわった。あとは商店会で発表し、頼み込むだけだ。

 「満穂瓦保管庫の管理人をしている雄飛です。今日は保管庫の移転について議論をしていただきたく、参加します。それでは説明をします」

 商店会の日はその四日後にやって来た。魂送り祭まで残り二週間。まだ時間はあるはずだと雄飛は自分を奮い立たせ、商店会に集まった老人たちの顔ぶれを見る。そして説明をした雄飛に、すみませんがと骨董品屋の店長をしている石原という名のお爺さんが手を上げる。

 「そのことについて。一人が言いたいことがあると」

 入ってきてくださいと石原が言うと、部屋のドアが開いて、男が一人入ってくる。それは卵子保管庫の統合管理センターの白井だった。雄飛さんと白井は雄飛を呼ぶ。

 「実はこの石原さんから連絡があってそちらに連絡なく訪れました。この石原さんは、石原さんのお母様のお姉さまが卵子の提供者であるとおっしゃって、その声も魂送りされなくなっては問題だとおっしゃりました。美羽さんの母の声だけ特例で移転することはできません。だからすべて移転となりますが、それではやはり問題なのです」

 「しかし」

 ここまで来た手前、雄飛も引き下がるわけにはいかない。道理は彼も知っている。だからこそ彼も引き下がれないのだ。まったく譲らない雄飛に、ここは引き下がってくださいと白井が丁寧に頭を下げる。その白井の声に、商店会の多くの面々がうなずき始めている。形勢は明らかに雄飛の不利だった。

 「……ここが潮時かもなぁ」

 安爺の声が、静まりかえった部屋に響く。雄哉はうなだれる心を隠すしかなかった。


―結


 魂送り祭の日がやって来た。最後の施錠作業に、雄飛はとりかかる。もう封入装置を詰め替える機械だけが、どの部屋にも残っているだけで、次に部屋が開くときはこの装置の撤収が行われるだろう。そのときにはもう雄飛はここにいない。

 結局ここで何を成し遂げ、何を手に入れたのだろうかと雄飛は鍵を閉めながら考え始める。不滅の愛も世界を変える何かも何一つ手に入れることができないまま雄飛の満穂瓦卵子保管庫での物語は終わる。何より彼は、美羽のために何一つしてやれなかったことが口惜しい。今ここで何かできたならと考えながら、部屋の鍵を一つ、また一つ、一つと施錠していく。

 外はもう日が暮れていることだろう。魂送り祭は夜に行われる。日中に行うと暑さの厳しさで人が死にかねないからだ。それでも今、冷房装置の止まった保管庫内は蒸しあがったように暑さがこもっている。雄飛のまだ何かと巡り廻る思考は最後の一部屋の鍵を閉めて寸断された。その何もない部屋はかつて美羽の母の声の保存されていた部屋だった。それを思い出した彼は、突然あぁもう終わったと痛烈に感じた。

 鍵を閉め終えた雄飛は、後ろめたさからか、はたまた煮えたぎる保管庫から追い出されているからか、足早に入構カードを握りしめて外に出る。

 「終わりましたか」

 統合管理センターの職員の女性が、帽子のつばを上げて、保管庫を出た雄飛に聞く。私服姿の雄飛は空元気でにこりと笑って、その職員の手に入構カードを手渡す。

 「あぁ。あぁ何もかも終わったよ」

 職員は、カードを確認し、では最後の一仕事ですねと雄飛に言う。雄飛は職員の車に乗り込み、海を目指す。後部座席に乗った彼は、外が見えるようにしてくれと職員に頼み、車が発車してからもしばらくは体を傾けて保管庫のかすかな灯りを見続けた。

 「この満穂瓦卵子保管庫は我々の宝でした。私が市長となったとき……」

 駐車場に車が止まったときには、魂送り祭はもう始まっている。ちょうど市長が拡声器で集まった人々に話しかけている最中だったようで、会場の海岸には高齢男性の声が響いている。住民の数がそれほどいないため、ささやかな祭りの気配だ。その片隅の運営者区画まで雄飛と職員は歩き、港の船場に行けば、そこには見慣れた子どもたちの姿がある。

 「おじさん」

 そこには美羽の姿もある。美羽は相変わらず芯の強そうなあどけない声色だ。久しぶりと雄飛はこの地区の子どもたち三人に言う。一人は赤ちゃんで母親に抱えられながらだが返事はできないが、残りの二人は久しぶりと返事を返してくれた。じゃあ行くかと船主が言う。船主や職員たちと子どもたち、そして雄飛は漁船に乗り込んだ。

 「合図が鳴って、魂小舟たまこぶねが全部陸から離れたら出発して見送る。それであっているんだよな」

 船主の張り上げるような声に、職員の一人が頷く。しばらくして先ほどから海岸に響いていた市長の男の声がやんだ。海岸は一瞬静まり返って、司会らしき女性が、それでは魂送りを始めますと合図を出す。海岸に灯される灯りがすべて消え、辺りが暗くなり、船場からも陸地伝いに無数の魂小舟の明かりが浮かんでいるのが見える。

 「三、二、一、ぜろ

 合図とともに、明かりが幾つも波面へと近づいてそれがゆらゆらと震えながら海岸から遠ざかっていく。その光景に、もう成人が近い大輝も、まだ小学生の美羽からも驚きの声があがる。職員たちも雄飛からも皆あぁという声が漏れた。しかしそれ以上に船場から離れた海岸から、わぁという声が広がっていった。

 「白井さん。美羽ちゃんと大輝君に声を」

 雄飛はあの統合管理センターの白井の名を呼ぶ。白井は、分かっていますと言って、抱えた箱から装置を二つ取り出す。そして白井は灯りをともして、魂小舟の一つを美羽に、もう一つを大輝に手渡した。これは雄飛が、せめてこの満穂瓦地区の子どもたちは自分の手で、もう一人の母の声を魂送りさせてほしいと白井たちに持ちかけたからだった。

 「おじさん。あの、お母さんの声を聞いていい?」

 「あぁ」

 美羽が魂小舟の再生ボタンを探してあったと声をあげる。大輝君は聞くのかと雄飛が聞くと、大輝は名残惜しくなるからやめますと笑った。そして暗さに力強さを灯したような美羽の母の声が流れ始める。

 「私みたいに変なところで失敗ばかりしているのかな。それでもずっと元気で」

 もう誰も言葉を話さない。遠くの護岸でも声が消えていき、静けさが覆っていくようだ。雄飛は今は見えない水平線の方へと進んでいく無数の明かりの粒をただただ眺めている。

 「いくぞ」

 船主がまた声を張り上げ、船が小さな港を出る。美羽がおじさんと言って雄飛を呼んだ。

 「私ね。私が最初に保管庫に秘密で入ったあと、おじさんがやめさせられそうになったって知ってたんだ。お母さんにすごく怒られたから。だから終わるのが、やっぱり寂しい」

 「あぁ。あのときは町のみんなが言ってくれたからやめさせられずに済んだなぁ。そうか。寂しいよなあ」

 去っていく無数の天使を追いかけるように漁船は進んでいき、天使たちに追いつくことなく動きを止める。船主がこれ以上近づいたら壊してしまうと声をあげ、船の明かりが消えた。大輝と美羽はおっかなびっくり揺れる船の上を歩いて海に近づいていく。それを職員と雄飛たちが持参した懐中電灯で照らしたり、肩をかしたりして手助けする。そしてかがんだ二人の手から、二つの魂小舟が先を行く天使たちを目指して進みだす。

 人類は永遠を願っていたはずだった。その永遠が少しでも長く続くようにと雄飛は静かに願わずにはいられない。黒く暗い静かな海へ無数の輝く天使の小舟が進んでいく。それを黙ったまま見送る二人の子どもの背中を、雄飛は懐中電灯でいつまでも照らし続けた。

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天使の旅立ち 小西オサム @osamu55

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