届く香り

夜桜満月

届く香り

 地面にどかっと座り込み、いつもしている胡坐あぐらをかく。座った場所は砂利じゃりめられているところを避け、緑の芝生しばふがあるところにした。持っていた紙袋も横に置いた。中の物は倒れることなく、いれられたままの状態をたもっている。尻から伝わってくる地面の冷たさは、まだ季節がうつろいきっていないことを示しているように思えた。少し前までは見かけることがなかった虫たちが、のろのろと動き回っている。起きたところというところだろうか。そんなことでは簡単にわれてしまうな、などとどうでもいいことを考えてしまう。

「……さて」

 紙袋をあさり、瓶を一つ取り出す。

 突き抜けるような空の青を現したかのようなびんの色。そこにつけられているラベルには、桜色のグラデーションがつけられている。空へと向ければ、今の青空と同じ色の瓶と桜色のラベルで、まるで花見でもしているようにもみえてしまう。

 その瓶をそっと地面に下ろす。雑草と砂利が混ざる地面に置くと、瓶底と石が少しだけけずりあう音がひびく。そのまま地面に置いたまま、瓶のキャップをゆっくりと回す。わずかな抵抗とともにキャップの一部が切れ、軽く回るようになる。それを確認し、軽くだけめる。

「まぁ落ち着け。今、用意する……」

 誰にむかってでもない言葉を小さく言いながら、紙袋に手を伸ばし、中にあるものを取り出す。

 それは二つの器。両方とも同じ色とデザインで傷一つない。銀色よりもさらに明るい色で、手の中にすっぽりとおさまってしまうような大きさ。底と一番上が一番細くなっているが、器に口をつければ、鼻に届く程度の広さはあった。器の真ん中に近づくにつれ徐々に太くなっている。

「この前だした時思ったけど、こいつ、少し重いんだよな。……こだわりっていうのかね……こういうのも」

 ぼやくようにいいながら、その二つを瓶と同じように地面に置く。

 瓶の方が空をあらわしているのであれば、こちらの器ははっきりと人工物といったおもむきがあった。だが、それは決して悪いことではない。むしろ、こっちまで瓶と同じような色になっていたら、趣きってやつがなくなってしまう。

 瓶の方を持って、キャップを外し、片手で二つの器に中身をそそぎ込む。瓶からは透明な液体がほんのわずかにだけ、水よりも重みを手に伝えながら器へと流れていく。片方がたされれば、もう片方へ。その両方を注ぎ終わった時、静かにキャップを締めなおす。

「…………乾杯」

 片方の器を持って、もう片方の器に軽くあてる。チンと鳴った音は思いのほか、響いていた。せいぜい虫ぐらいしかいないこの場所で気にするほどのことでもないが。

 持ちあげた器を口元へと運び、顔を空へと向けて一気に飲み干す。香りが鼻を通り抜け、甘味が口の中に広がり、のどを通りすぎていく。胃に到達したその液体の香りが、食道をのぼり、そのまま頭の中へと入り込む。少しだけ自分の中の何かがゆるんだのがわかる。

「ふうぅぅっ」

 液体とともに飲み込んだ空気を一気に吐き出す。その空気は少しだけ甘い香りがした。液体と同じ香り。その吐き出した空気すらも、頭の中を弛ませていた。

 ただ、その口当たりは良かった。果物のようなさわやかさと甘味のバランスが良く、心地よくも感じていた。

「家にあったやつと同じやつを買って持ってきたけど、案外、飲みやすいもんなんだな。まぁ、飲んでる時なんて見たことなかったし、これだって飾ってあるだけみたいだし」

 瓶を持ちながら、感想を語る。

「ああ、この器、多分これ用かなと思って持ってきた。居間のガラス棚に置いてあったやつ。もちろんきれいに洗ったさ。そんなにほこりはかぶってなかったけど、やたらこびりついちゃってたから落とすのに一苦労したよ。だけど、そのおかげか、キレイになった。昔見た時こんなだったか覚えてないけど。いや……ずっとかわっていなかったかも……」

 瓶から器へと持ち替えて見つめる。内側はさっきの液体でれているが、傷のようなものはなく、キレイな銀色をしている。まったく使わずに飾ってあっただけの割にはびてもいない。

「そういえば、この器って銀色だけど、錆びたりしないのか?」

 どうでもいい独り言がでてくるが、それに対しての返答はどこからもなかった。

 器をみながら、思わず笑いが漏れてくる。

「フフッ、そんなこと知ってるわけないか……。知ってたら埃かぶったままなんかにしてないだろうし……。下手すりゃ買ってきた箱に入れっぱなしにしてるかもな」

 一人で話して、一人で納得してしまっている。はたから見たらあやしい人物にしかみえない。ただ、この場所であれば、その行動も多少は大目に見てもらえるような、そんな気もしなくはなかった。

 突然あくびが出て、眠気が襲いかかってくる。抗いがたいほどの眠気。胡坐をかいたまま眠りこけそうになるのを何とか押さえ込む。こればかりは慣れることがない。いつもそうだから……。

「大丈夫……。今日は気持ち悪く、なんてない……。普段飲まないからやっぱダメだな、と。頭がぼんやりする。たったこれだけしか飲んでないのに」

 いいながら、みがき上げて銀色に光る器を掲げる。太陽の光を反射してまぶしく輝いているその銀色の器は、小さいながらもしっかりとした存在感を示している。逆さまにすると、器の中にわずかに残っていたしずくが落ちてくる。それはほほにあたって流れていく。

「そういえば、前はこんな程度じゃすまなかったっけ。確か、友達と飲んでた時だったかな」

 ふいに、記憶の底からふわりと浮かび上がってくるようだった。手元に視線をおろし、そこにあった芝生を何とはなしに撫でる。少しだけ湿った、だが力強く生えている芝生に触れている。その感覚が眠気を抜き去っていく。

「あんときは、梅酒かなんかだったかな。飲んでみろっていわれて、一杯だけ飲んだんだっけな。最初は飲めてたんだ。三分の一くらいだったか、その辺りまで飲んでたら、なんか体の中が変だなってなったのを覚えてるよ」

 頬についた滴を手の平でぬぐう。手の平についたはずのそれは、すぐに乾いてしまう。ほんのわずかに香りだけを残して、その痕跡を消してしまう。

 ぬぐった手を見ながら、少しだけ視線をあげた。そこにはさっき注いだもう一つの銀の器が目に入った。その横に青い瓶。手を伸ばしかけて引っ込める。手の中にある器をぼんやりとみつめる。

「変だと思ってから、飲むのを止めたよ。あったかいお茶をもらって、残っていた料理には手をつけずにお茶だけ飲んでた。まぁ、友達も無理に飲むなって言ってくれてたし、そこは気が楽だったよ」

 そこで、少し思い出すように口を閉ざした。無理に飲むなっていわれていたことは覚えていた。だが、不思議なことに妙な好奇心がもたげてきたのをおぼろげに思い出す。

「きっと時間が経ったからだったんだと思う。お茶も飲んで少し楽になってたんだ。もう少しだけ飲んだんだ、梅酒を。それでも、せいぜい湯飲みの中の半分くらいまでだな。さっきまで、三分の一だったから一口ってところだと思う。だけど、それがダメだったな。本当、ダメだった。何かが、腹の中からあがってくる感覚がしたんだ。思わず、トイレに駆け込んだよ」

 今とは違うと感じながらも、口元に手をやってしまう。別に吐き気があるわけではないが、少しだけあの時の感覚を思い出して、胃からあがってくる空気を吐き出す。その匂いは間違いなく、あの時と似たものだった。

「便器にむかったけど、何にも出てこない。落ち着いたかな、と思って何度かゆっくりと呼吸をして、トイレから出ていったよ。それからいい時間だったしお開きにしたんだ。それから、友達を繁華街のバス停まで連れて行って別れた。そこから、川沿いを一人で歩いていたんだ。もう少しで家に着くっていうところで、また気持ち悪くなって今度は動けなくなった」

 いったん目を閉じる。昔のことを話しているだけなのに、その時と同じような感覚がわき上がってくる。抑えられないほどではないが、もうしばらくは目を閉じたまま静かにしていたいという程度には辛かった。

 風が吹き抜けていく。

 何かがガサガサと音を立てて震えている。少しだけ目を開く。瓶と器を入れていた紙袋が風に震えているように見えた。それほど強い風ではなく、中に他のものが入っていたおかげで飛ばされることはなかった。念のため転がっていた石を一つ、紙袋の中に入れておく。とりあえず、紙袋はこれで大丈夫だろう。

「どこまで話したっけ? ああ、動けなくなったってところまで話したんだった。川沿いだったから、とりあえず芝生に座り込んだんだけど……。それでも何かがあがってくる感じは残っていてさ。少しクラクラもしてたし。何回か立ちあがろうとしたけど、そのたびにその両方が襲ってくる感じ。まぁ、いつまでもそこにいるわけにもいかなかったから、無理矢理立ちあがって、歩き出したんだ」

 瓶の中身を飲んだせいか、さっきまでと違って少し暑く感じていた。慣れないものは飲むものじゃないと思いながら、時折吹く風で体を冷やそうと、胸元のシャツを何度か動かして空気を取り込んでいく。冷えた空気が入り込んできたことで、火照ほてった体が少し冷やされる。おかげで頭の方も冷えてきた。

「少し歩いたかどうかのところで動けなくなった。そうしたら、すぐに吐き気があがってきたよ。その時はっきりとわかった。ああ、吐くんだろうなって。案の定、胃がひっくり返るような感覚がして、次の瞬間には口から食べ物か液体かわからないものが出てきた。口元を押さえていても、止めることはできなくて指の間からあふれてきて、顔中汚れてたな。臭くて鼻もきかなくなるし、メガネの右側まで飛んだものだから、前が見えなくなって何が何だかわからなくなってたよ」

 紙袋の方に手を伸ばす。中から引っ張り出したのは、水の入った大きなペットボトル。瓶の中身とは異なるものが入っているそれを飲むべきなのか一瞬考える。そう考えるということすらも、頭が働いていないんじゃないかと思えてしまう。

 ためらっていた感覚を振り払って、ペットボトルの口を開けてあおるように水を飲む。水分が入ると頭の中が少しずつすっきりとしたものになっていくのを感じる。

「あの時のことは今も覚えているよ。ゲロが右目に入ってとにかく痛かった。しかも、ゲロがメガネに飛んだせいで、かけて歩くこともできなかった。拭くものも持っていなかったし、仕方なくゲロまみれで痛いのを我慢して見えない視界でフラフラしながら帰ったんだ」

 同じことを話している気がする。頭が働いていないんじゃないか、そう思った時だった。あの時の痛みがなぜかわきあがり、痛みから逃れようと思わず右目をこする。思いの外、強くこすっていたらしく、わずかに視界がぼやけていた。

 その右目の世界で、誰かが立っているように見える。そのおぼろげな視界で見えているのが、果たして男性なのか、女性なのかわからない。ただ、その姿にはどこか見覚えがあった。

 もう一度、右目をこする。それから幾度かのまばたきをしたが、そこには誰もいなかった。さっきまで見えていたものが見えているだけ。目の前の銀色の器もそのままだった。

「……まさか、ね。まぁいいさ、それも。

 さて、さっきの続きだけど。あれから家について、すぐに風呂に放り込んでくれたんだっけ。まあ、当たり前といえばそうだよな。ゲロまみれの状態で家の中をウロウロなんてしてほしくないだろうし。結局、風呂から上がって、次の日はひたすら寝ていたんだっけな。記憶もないくらいだよ……」

 口にして、ペットボトルの水をもう一度飲む。何かが流れ出ていって、それを補うために飲んでいる。そんな感じだった。息が続かなくなって、飲むのを止める。ペットボトルを見ると、四分の一だけ減っていた。

「……そういえば、寝ていた、で思い出したけど、あの時もそうだったな。えっと、そうそう、成人式だ。成人式も昼くらいまで寝てて、起きてテレビを見たら、成人式だったのに出なくてよかったのか? って聞いてきたよな」

 ふと、考える。その時、どんな表情でみられていたのか覚えてはいない。きっと、めんどくさそうな顔をしていたせいだろうけれど、二十歳はたち門出かどでを祝いたかったのかもしれない。あるいは、あきらめていたのか。成人式の前にどんな会話がなされていたのか、記憶がなかった。

「あの時は……そうだ。会いたくないやつがいるっていったんだ。実際、こっちの地域の成人式は中学校区域で開催されていたはずだから、その時のやつらに会いたいなんて思ってなかったしな。いい思い出なんて何にもなかった……」

 今にして思えば、大したことではなかったのかもしれない。しかし、その当時であれば、中学校を卒業して、五年程度。今ほど時間が空いているわけではなかったので、その時の思考はきっと幼かったに違いない。向き合うにはあまりにも弱かったのだろう。それから時が流れた今であれば、顔を出すくらいのことはしていたかもしれない。

「いい思い出なんてなかったんだ。あの時はさ……」

 閉まっていたはずの記憶の蓋が、さっき飲んだ瓶の中身の力でゆるまっていたらしい。ふたの隙間からほんの少しだけ、負の記憶が流れ出てくる。こんな時はイヤなことから出てくるものだ。忘れもしない。黒色だったはずの学ランの背中が、真っ白なチョークで塗りつぶされ、そのまま帰った。あの時のあなたの顔を見ることができなかった。

 思い出すのも苦しくなる。だが、それ以上のものがあふれだしてくる前に空を見上げた。

 一つの雲も見当たらない。何かもわからないが、一羽の鳥が、大きく翼を広げて空を飛んでいる。

「あの時、どんな顔をして、チョークを落としていたのか……」

 学ランを見つけてすぐにどこからか濡れタオルを持ってきて、静かに背中の部分を拭いていたのを覚えている。脱いで渡していたから顔をみようと思えばみれたけれど、どうしてもみることができなかった。どんな顔をしているのか、みることができなかった。それは自分自身がどんな目に合っているのかを認めるようなもので、みてしまえばそれは認めたようなものだったから。

「……何もいうことはできなかったよ。何も話したくもなかったし。別に悲劇の主人公面する気もなかったし、ただ静かにしていたいと思っていたから……」

 イヤな記憶から逃げようとしてか、器のほうに手を伸ばす。多分、口にすればおぼれていくことができて、イヤなことから逃げることができる。だけど、その後に襲ってくるだろう嘔吐おうと感を想像してしまい、伸ばした手を引っ込める。

 飲む人間っていうのは、こうやってイヤなことから逃げていくんだろうなと思ってしまう。別に悪いことではないが、こんなにしんどい思いをしてまで飲みたいものでもないとも思うのだが。

 あるいは、今飲めばあの時の顔をみることができるのだろうか。みることが正しいとは思わないが、どんな形であれ……。

「あーやめだ! 辛気しんき臭い話なんてしたくない。会いに来てるだけなんだから、重たい話なんてしなくていいんだよ! まったく……」

 いいながら、瓶から器にその中身をうつしていく。透明な液体が果実味のある香りを放っている。器にある程度注いだところで瓶の蓋を締める。少し手元があやしかったが、何とか締めることができた。

 ほんの少し、それこそ舐める程度だけ口に入れる。最初飲んだ時よりも少なく口に入れたこともあって、正直よくわからない。

 ただ、その舐める程度ですら、かなりくるようでやっぱり頭がクラクラとしてくる。とことん弱い体質のようだ。こぼさないように地面に器を置く。

 視線をもう一つの器の方へと向ける。今度は器しか見えず、何の影も見えない。さすがに量が少なすぎたかもしれないが、受け付けない体としてはちょっとつらいものがある。あるいは今だけは無理をした方がいいのだろうか。

 器に手を伸ばす。利き手ではないほうの手を。

 器を持った時に、何かがキラリと光った。

「水にするか……」

 つぶやいて器からペットボトルに持ち替え、その中身を飲む。飲み進める量が瓶とペットボトルで異なっていた。持ってきていた水がなくなってしまうかもしれないことはわかっていたが、こちらのほうが当たり前のようにすんなり飲める。

 そのペットボトルをみながらふと思う。

「そういえば、昔は水なんて飲まなかったな。ほとんどジュース。なんなら炭酸だった気がする。高校の入学の時もそうだった。あの時期は飲んだペットボトルを部屋に並べたままにしてたっけ。呆れながら片付けてくれてたっけ」

 ふと、なぜあの時期ホッとした顔をしていたのか。その前はとにかく悩むような表情をしていたような。

「ヤバかったんだっけ。成績。大学の時もそうだったけど、なんも勉強してなかったからな。とにかく成績悪かったな。高校もいけるかどうかってところに、やたらと高望みしてたことだけしてたな。部屋にこもってゲームかマンガばっかりだったな。

 何にもいわれないから、まさにこれ幸いといった感じだったな……。

 学校の面談のあとによく言ってたっけ。ねじり鉢巻はちまき一本で足りんから三本くらい巻いたらどうや? って。言われたときは何となくだけど、机にむかってたかもしれないな。続かなかったけど。あんなんでも受かったから、きっとホッとしたんだろうな。心配かけた……」

 思い出したら、なぜか笑えてきてしまった。あの時真剣な表情で言われたいたはずなのだけれど、頭の中ではそんなに鉢巻頭に巻けるか、と思ってた。巻いた方が見えないから何にもできん。そんなことを思って、腹の中で笑ってたな。

 と、少し強い風がふく。紙袋がガサガサと音を立てて揺れる。暑いはずの体が冷えてきたのか、風がつめたくなったのか、反射的に襟元えりもとを少しだけ閉める。

 ふと、浮かんだことがあった。

「怒らせたか?」

 そう思うには十分なタイミングだった。あるいは呆れたといわんばかりのため息が案外強い風になったのかもしれない。どちらにせよ、そうであったのなら、ここに来たかいがあったということなのか。見ることができない相手と会うのは、どうにかして感じ取ることが必要なのかもしれない、とつくづく考えてしまう。

「怒ってくれただけありがたいってことか。それってつまり、そこにいる、ってことだろ? さすがに出てきてなんか言えよ、とまでいうつもりはないけどさ。いるんならうれしい限りだ。

 そういえばあの時もそうだった。目を覚ました時にいてくれた。手術室から出てきて、まだ麻酔が効いていた時もずっとそばにいてくれた。意識を取り戻した時もすぐに顔をのぞきこんでくれたっけ。記憶はあいまいだけど、こっちがいったのは確か、トイレにいきたい、だったか。それを聞いてみんなで笑ってくれてたっけ」

 思い出したことをなんとなく口に出していた。

 手術箇所は頭部。手術中にふれてはいけない神経のどこかにふれるかもしれない。そうなったときにどんなことになるのかわからない、と後で聞いた。気楽に手術を受けていた身としては、そんなことになっていようとは夢にも思わなかった。今ならわかる。その当時、そこまで本人の同意というものは考えられていなかった時代だ。ある程度の説明と保護責任者とやらが理解さえすればいい時代。

 結局、手術をした甲斐かいはあったものの、想定外の病状がみつかった。そして、医者にこればっかりは付き合っていくしかないといわれた。おかげであの病院特有の匂いにも慣れてしまったほどだ。それでもある程度の時期までは治療をして、それ以降は落ち着いている。

「あの手術のおかげで今があるんだから全部が全部悪いわけでもないな。まぁ、実際いくらかかったのかっていうのはちょっと気になるけど……」

 昔教えてもらえなかったことを今になって答えるわけないだろうということはわかっている。わかっているけれども口に出さずにはいられなかった。それにきくことなどできるはずがないこともわかっている。

 ぼんやりと二つの器を眺めていた。すると、向こう側の器の液体がわずかに揺れる。風もないのに揺れたそれは、何を示しているのだろうか。いや、もしかしたら、気づかないうちに風が小さくふいたのかもしれない。ただ、今はそう思えなかった。

「今にして思えば、あの時期はとにかく迷惑かけたな。しょっちゅう一緒に病院に行って、ほぼ一日がかりの診察を受けて、行きも帰りもバスと電車に揺られてたっけ。通いすぎてどの時間にどのバスに乗ったらスムーズにいけるかってのも、覚えてたよな。

 あの時間も大切な時間だった。

 知ってるか? 今じゃあの病院もキレイに建て替えられて、通ってた時の古い病院じゃなくなってるんだ。構造も変わってるから、今行ったらきっと迷っちまう。かかっていた科に行くまでに疲れるくらいになってるよ」

 思い出の病院はもう見る影もないほどに様変わりしていた。一度覗のぞいてみたときには、いつも一緒に行って、いつも本を買ってもらった売店も位置が変わってしまった。

 こうやって少しずつ、いろいろなものが変わっていくのだろうな。

「変わっているってので思い出したんだけど、小学生の時に近所の川沿いに植えられた桜。大きくなってたよな。最後にみんなで散歩をしたときに思ったけどさ。

 確か植えられた時に言ってたっけ。

『今は小さいけど、二十年くらい経ったら大きくなってるよ。あんたが大きくなった頃には見上げるくらいに』

 本当、言ったとおりになってたな。小さい時はわからなかったのに、あんなに大きくなってるなんて思わなかったよ。それだけ、時間がすぎたってことなのかもしれないな……」

 ランドセルを背負って、川沿いの芝生を二人で歩いた。そこには桜が咲いていて、それを見ながら一緒に学校に向かって歩いていた。学校へと向かう途中にも公園があって、そこにも桜があった。そして、川を挟んで反対岸にも桜が植えられていた。一緒に歩いていたあの時も満開の桜が咲いていたことを昨日のように覚えている。

 今でもあざやかに思い出す。まだ少し冷たい風が吹き抜けると、芝生の香りとともに寒さを感じた。だけど、つないだ手は温かく、寒さなど感じなかった。その優しい温かさが心の中までも温めてくれた。幼い時、毎日一緒に歩いてくれた。自分の時間をすべて与えてくれた。

 空を見上げると雲は一つもないはずなのに、なぜか空がにじんで見えた。それでも見上げ続けていると、いつの間にかそれもなくなりさっきまで見えていた澄んだ空へと姿を戻す。熱いものが顔をすべり落ちたような気がした。

「…………これから先、もう一緒に思い出を作ることもできないんだな……」

 自分の耳に自分の声が届く。言葉にするつもりもなかった。考えるつもりもなかった言葉が鼓膜こまくを揺さぶる。再び、あふれだしそうになるものを見上げたまま、必死になって抑える。

 今この場で話していたこと以外の記憶が現れては消えていく。その一つ一つが自分にとって大切で、戻ることのできない、取り戻すこともできない、ただただやさしい記憶だった。そのすべてが温かく、そのすべてが懐かしい。

 空はどこまでも青かった。持ってきた瓶のように。これで桜も咲いていれば、瓶とまったく同じだったのにな。

 緩やかな風が通り過ぎていく。それは顔をやさしく撫で、流れ出るものをまるでぬぐうように乾かしていく。

 その風が通りすぎた後だった。何かの香りがした。

 線香の香り。

 あたりを見回しても誰もいない。線香はどこにもたてられておらず、この場にいるのは自分一人。慣れない瓶の中身を飲んだせいで、感覚がおかしくなったのかもしれない。こぼれそうになるものを拭う。

 ふと、どこからか砂利を踏みしめる音とあかるい話し声が聞こえてくる。

 どこからだろうかと周囲を見渡す。少し離れたところから三人の人が歩いてくるのが見えた。大人が一人と子供が二人。

 短く切りそろえられた程度の髪の長さ。黄色の髪の下に茶色の髪が隠れている。グラデーションのようにもなっている。ふわりとした明るめの緑のカーディガンに白めのブラウス。それから濃い青のジーンズスカートを身につけていた。手には黒のバッグ。

 子供の一人は小さい体で大きな花束を大事そうに抱えている。顔は花束で隠れている。何とか隙間から前が見えているのだろう。青のチェック柄になっているスカートを履き、明るいピンクの服を着ている。おそらくパーカーなのか肩口にわずかにフードが見える。

 もう一人は青いバケツの持ち手を何とか地面につけまいと持ち上げている。真剣にバケツを持ちあげるその子は下ばかり見ているので、明るいグレーのつば付きの帽子だけが目立っていた。暗めの青のジャケットに黒の綿パンを履いている。

 ふらふらと歩いている二人の子供を大人が見守りながらゆっくりとこちらへと歩いてきている。

「一人で来ることないでしょう? 挨拶は必要なんだから。あなたにとっては母親と会っているだけだろうけど、私にとってもお義母さんなのよ。そこんとこ、わかってんの?」

 近づいてきた大人が小さくため息をつきながら静かに話しかけてくる。いつもの聞きなれた女性の声。少し距離はあったものの、その言葉一つひとつがはっきり聞き取れた。それに言葉そのものも慎重に選んでいる様にも思える。

 膝を立て、そこに手をついてゆっくりと立ちあがる。ずっと座っていたせいか、はたまた飲みなれないものを飲んだせいか、頭が少しふらりとした。

「ちょっと大丈夫?」

 女性が横まで来て、声をかけてくる。そのまま彼女の視線が地面へとむかい、再びあげられる。

「……飲めないのに飲んだんだ。変わったことするからフラフラするのよ」

 聞こえるかどうかの声で、まったく、といいながら小さくため息をつく。 

「おかあさんのいうこときかないから、おこられたんでしょ?」

「おとうさん、ないてるの?」

 花を持つ子とバケツを地面に置いた子がそれぞれ見あげながら言ってくる。花を持っていたのが女の子で、バケツを持っていたのが男の子。女の子はちょっとだけ呆れた顔をしていて、男の子は自分も泣きそうな顔になっていた。

「ははっそうだな。お父さん、お母さんのいうこと聞かなかったから怒られたよ」

 子どもたちに視線を合わせ、二人の頭を撫でながら話しかける。うまく笑顔を作れているのかはわからないけれど、動きの悪い頬が上がるように意識はしていた。

「べ、別に怒ってなんかないわよ……ちょっと注意しただけ……」

 女性の声が聞こえてきたが、それは空へと流れるようにして消えていく。それでも届いていたその言葉は、胸の奥を温かくしてくれた。

「みんなありがとう。それに二人とも、わざわざお花とお水持ってきてくれたのか? 重かっただろう。ありがとう」

 視線を器の向こうへとうつす。そこに置かれていたのは石のプレート。それから一本の植えられたばかりの若い木。磨き上げられているプレートには一人の名前が刻まれていた。アルファベットで母の名前。ちょうど器とプレートの間に女の子が持ってきた花を置き、男の子が持ってきたバケツの水でプレートに水をかける。緩やかな風がふき、花の香りがほのかに届く。

 ありがたいことに新しい区画の最初の一人らしく、プレートは今のところたった一枚。さみしいかもしれないけれど、いずれは他にも現れるだろう。

「おとうさん。そのコップどうするの?」

 男の子が器を指さしながらこちらをみながら言ってくる。キラキラとした瞳がむけられる。中身が気になって仕方ないのかもしれない。

「それはお参りが終わったら、その石にかける」

「えーっ? もったいないよ。のまないならボクのむよ!」

 男の子がいうよりも早く手を伸ばす。それを女の子が伸ばした男の子の手を叩いて止める。

「やめなさいよ、そんなこと。おそなえしてるものなんだから!」

「あーっ、ぶったぁ」

 騒ぎ始める二人の子どもたち。すでにつかみ合いに発展していて放っておいたら、静かなはずの場所が大変なことになりそうだ。しかし、なぜだかその様子を見ていると顔がほころんでくる。

「……はいはい。こんなところでケンカしないの。……あなたも笑ってないで止めなさいよ」

 器用に二人の手をとって動きを止め、すぐに体を二人の間にいれる。その甲斐あって二人のつかみ合いはおさまる。

「悪い悪い。さて、と、そしたらみんな、あの木に向かって手を合わせて」

 若い木を指さす。女性に手をとられていた二人も女性から手を放し自分の手を合わせた。それを見て自分も同じようにして手を合わせ、頭を少しだけ下げる。こみ上げてきそうなものがあったがそれはそのまま受け止める。

「おとうさん、どうして、てあわせないといけないの?」

「そんなの――」

 男の子の言葉に女の子が反応する。そこに重なるように女性が口を開いた。

「はいはい、やめてね。……ここには、おばあちゃんがいるからよ。お父さんにとってのお母さんが……」

「よくわかんないけど、そうなんだね」

 そういって男の子が木のほうへと近づいて何かを話している。

「あっ、コラッ!」

 女性より先に女の子が男の子を追いかける。

「何やってんの? 遅くなるからそろそろ帰るわよ」

 女性が二人に声をかける。はーいと言って、戻ってくる二人。

 瓶と自分の器を紙袋に片付け、もう一つの器を手に取る。それを見ていた男の子がこちらを見ている。

「二人ともおいで」

 呼ぶと素直にやってくる女の子と男の子。

「二人でおばあちゃんにこれあげてきて。あそこにある石にかけてくればいいから」

 プレートを指し示しながらいう。二人はそのまま大事そうに器を持っていき、しゃがんで静かにプレートに器の中身をかける。水で洗われていたので見た目は変わらないが、それでも瓶の中身の香りがあたりに広がる。

 二人はそろって木へと頭を下げ戻ってくる。

「はい」

 器を返してくれたので、それも紙袋へと入れる。重り代わりの石を出して。

「おとうさん」

 男の子が見あげながら声をかけてくる。

「どうした?」

 しゃがんで男の子の目線に合わせる。女の子も横に並んでくる。二人の目が何かに驚いたような目をしている

「あのね。おばあちゃんの木、なんかいってた。いいにおいもしたし」

「わたしもきこえた。なんかにおいもしてたかも。いいにおいだったよ。それによくわかんないけど、なんかあったかくなった」

 二人が体を動かしながら、あったかくなった、といい続ける。

 思わずプレートと木を見つめる。そこに誰がいるわけではないのだけれど……。

「もしかしたら、お義母さんが二人のことを抱きしめてくれたのかもしれないわね……」

 女性もまた同じようにしゃがんでプレートの方に目をやりながら話しかけてくる。

 男の子と女の子の頭に手を置く。

「良かったな」

 そろって、うん、と笑顔を見せてくる二人。女性とともにゆっくりと立ち上がる。

「それじゃあ、いくよ」

 プレートへと一声かける。

 再び、線香の香りが鼻孔びこうをくすぐる。

「あっ、さっきのいい匂い」

 男の子がいってきょろきょろと周囲を見回している。

 木の方をみると、そこには誰かのシルエットが見えた。そのシルエットは小さく手を振りながら、口元を動かしていた。

 元気でね。またみんなでおいで……と。

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