その11
竹夫は右手の川面を見ながら歩いた。K市の市街を貫流するM川だ。沿岸の工場から流れ出す廃水で魚がいなくなるほど汚染されていたが、近頃は昼間見てもだいぶ澄んできていた。「川も心も美しく」という標語が行手の橋の手すりに掛かっている。その運動の成果かも知れない。それでもわずかに石垣の土手を臭気が昇ってくる。
道の川側にはガードレールがつき、外燈が並び、川面に光の点線が走っていた。向う岸には土手まで一杯に民家が尻を張り出している。どれも古びた木造家屋だ。二、三の窓に明りがついているだけだ。行き交う人もまばらで、時おり男女の二人連れとすれ違った。道の左側はホテルや旅館が集っている場所で、連れこみ宿も多い。「――ばかりしやがって」竹夫は二人連れとす れ違うたびに毒づいた。行く手正面に電話局の鉄塔が黒く立っている。塔の頂上と中頃に灯火が赤く点滅している。川面に点滅が映る。節をつけてウーと唸りながら竹夫は歩いた。唾を吐く。標語の掛かっている橋の中央に水銀灯が一本立っている。その明りで橋が闇の中に浮き上がって見える。その光に吸い寄せられるように竹夫は歩いていった。橋の渡り口にある雑貨屋は木戸を閉めて、公衆電話の鉄看板だけが木戸の前に突き出されるようにぶら下がっている。そこから右に折れて、竹夫は橋を渡りだした。踏むアスファルトは水銀灯に照らされ、霜が降りたように見える。水銀灯の真下まで来て、竹夫は手すりに肘をついた。鉄の手すりは服を通して冷たさを伝えてくる。川面を見下ろす。水銀灯を背に負い、手すりに寄って覗きこんでいる人物が映っている。竹夫は自分の姿から眼をそらした。川面は暗い。光に照らされている所だけが灰色だ。上流に韓国クラブの青と黄のネオンが静かに浮いている。川面を吹き抜ける風がある。竹夫は瞬きして自分を包む夜を凝視した。しかしどの輪郭も闇にぼやけている。身震いした。急に胸苦しくなった。竹夫は手すりを両手で摑んで、背を屈めた。吐いた。「おう、おう」と竹夫は唸った。吐出物が水銀灯に照らされながら川面に落ちていった。その川面を涙に滲む眼で竹夫は見続けた。
夜の橋 坂本梧朗 @KATSUGOROUR2711
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