危機一髪保険

@ns_ky_20151225

危機一髪保険

 駅のトイレに駆け込んで用をすませた。ぎりぎりだった。その瞬間、ポケットでスマホが振動した。口座に保険金が振り込まれた通知だ。トイレを出て確かめると千円だった。理由は電車内での意図しない強烈な便意によるとあった。これも危機一髪とみなされたんだろう。それはそうだ。朝便意がなかったのに、いつもの快速に乗って次の駅まで十五分というところで襲った便意を耐え抜いたんだ。苦しかった。危機一髪との判定は当然だ。

 でもうれしくない。今ではもう嫌なだけだ。しかし、やめる気にもなれない。こうして現金が入ってくる。ちりも積もれば、で月収並みになるから切れない。

 洩らしかけていたことなどなに食わぬ顔で会社の階段を上る。健康のためエレベーターは使わない。するとまた通知の振動があった。なんとエレベーターまわりの床清掃のワックスが完全に拭き取られておらず、転倒の危険があったという。これは三千円だった。

 ため息をつく。なんでこんな保険に入ったんだろう。自席でパソコンを立ち上げながら思い出す。担当者の訓練された笑顔。


「……ではこちらの『災害予測保険「みちびき」』についてご説明いたします……」

 従来の保険は事が起こってからの支払いだった。事故でも病気でも災害でもだ。しかし、膨大なデータを集め、処理できるだけの能力が民間でも利用できるようになると、危険を回避したことに対する支払いがあってもいいんじゃないかと発想された。

「……まず、こちらの装置を装着いただきます。また、監視カメラなどでとらえられたお客様の情報すべてのご提供に同意いただきます。それを一年間続けることでお客様の行動などのデータを収集します。それから保険が開始されます」

 あらゆる危険、もしくは被保険者が危険とみなすものに対して支払いが行われる。便を漏らしかけた、ワックスで滑りかけた、そういったことすべてだ。なにが危険か、わざとじゃないかという判定は収集したデータに基づいて行われる。たとえば身体や行動のデータはとられているので、意図的に便をがまんするとか、滑りやすそうなところにわざと行くなどして危機を招こうという行為では保険金は支払われない。また、不正防止のため事前に注意してくれることはない。トイレに行きましたか、とか、そこの床は滑りやすいですよ、とは言ってくれない。

「……掛け金はもちろん、手数料などすべてのお支払いはございません……」

 かれら保険会社が得るのは情報だ。なんといっても一人の人間のすべてのデータが二十四時間三百六十五日採取できる。この価値は計り知れない。また、第三者への販売時には個人を特定できる情報は処理されるとの事だった。そこは信用していいだろう。この会社自体超大手だし、公正な監視機関もある。


 そして情報収集待期期間の一年が過ぎ、保険が始まった。始まってすぐ支払いがあった。その時は単純にうれしかった。


 しかし、数か月が過ぎ、口座の数字が増えていくのを眺めながら、心の中に黒い、嫌な感じが拡がっていくのを感じた。

 この世はなんと危険に満ち溢れているんだろう。今まで気づかなかっただけで、いつ大変な目に会うか、大けがするか、それとも死ぬか分からないじゃないか。

 スマホの振動が危機一髪だったことを告げる。そう、だったこと、だ。出社するまでにすでに二回。いつものことだ。

 保険ということで危機の可視化が行われたが、それが望ましかったかと言えばもう分からない。かといって以前にも戻れない。嫌だろうがなんだろうが金は金だ。


 そして、この頃は振動を錯覚するようになった。

 ああ、今のは本当か、錯覚かどっちだろう?


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