未だ見ぬ地へ

ゆかり

そこに山があるから

「やめておけ」

 長老は静かに彼の肩に手を置いた。

「あの山を目指して旅立った者は多い。だが誰一人戻っては来ておらん」

 しかし、若者の目は輝いている。

 光を失いかけた長老の目からはひとかけらの希望も見いだせない。情熱などというものは遠い昔に失ったのだろう。賢者と呼ばれているが、ただ臆病なだけではないのかと若者は思う。

「私には此処に留まる理由がないのです。ここで何も成さずただ年をとって死んでいくことに何の意味があるのでしょう? 例え命を落とす事になっても私はあの山の向こうに行ってみたい。この命をそのために使えるなら本望です」

 長老は深いため息をつき、力なく首を左右に振った。

「もとよりワシに止める権利など無い。誰もが己の信じた道を進むべきなのだ。ただ、君のまわりには君を大切に思う者も居た事だけは覚えておいてくれ。ワシの命も残り僅かだ。例え君が戻って来ることがあっても、もう会う事は叶わんだろう。永の別れだ。せめて君の夢が叶う事を祈らせてくれ」

 この大地は未知の危険に溢れている。賢者と呼ばれる長老の治めるこの地も例外ではない。が、長老の知識と知恵によって温かく平和な毎日が保たれていた。

 しかし若者にはそれが物足りないのだ。心の中とは摩訶不思議な世界だ。矛盾に満ちている。時に自分自身でさえ制御不能、理解不能に陥る。己の衝動に突き動かされ、若者は自ら苦難の道を選択する。


 故郷を離れて、かの若者は一人そびえ立つ山を目指した。この大地の果ては一体どうなっているのか。想像すら出来ぬがその山の頂に立てば全てが見渡せる気がしていた。

 この世界では天変地異は明るい時間に多く起きる。いや、起き続ける。それを避けるために彼らは明るい間は大地のクレーターに身を潜め暗くなるのを待つのだ。大木の陰のクレーターが最も安全だと長老は言っていた。しかし、若者の目指す山に大木は皆無。そこから戻って来た者が居ないという事は情報もまた皆無である。危険への嗅覚と運だけが頼りだった。


 深いクレーターのある場所を抜け暫く進むと大地の感触が変化してきた。

(油?)

 少し足元が滑る。これまでの乾いた地とは明らかに違う。かといって湿原でもない。大地に油分が多いのだ。若者は注意深く進む。何度かの明るい時間と暗い時間を費やし、進む、進む。

 

 どれほどの時間を超えてきたのか若者は既に若者ではなくなっている。そうしてようやく目指す山の麓まで辿り着いた。麓で見上げるその山は思った以上に高い。はたして年老いた自分に登る事が出来るのだろうか? いやいや、ここで弱気になってどうする。命の果てるまで進むのだ。

 そう決意を新たにしたとき、大地が震え耳をつんざく大音響と共に突風がふいた。しかし彼にはその音も風も認識できない。ただ、天地がぐおんと轟き全てが一瞬消えて再び現れたような感覚を覚えた。それほどの大いなる天災であった。

 彼はその突風の通り道を大きく逸れていたのだが、それでも災いから逃れる事は出来なかった。宇宙の彼方に吹き飛ばされながら(故郷の皆は無事であったろうか?) そんな思いが脳裏を去来する。

 そうして彼の生涯はゆっくり幕を下ろして行くのだ。



「と、まあ、こんな感じだと思うのよね」

「それが顔ダニの生涯?」

「うん。寿命は2週間位らしいから、まつ毛の辺りを出発して、鼻を超える事はまあ、ちょっと難しいでしょうね」

「最後のは何よ?」

「くしゃみ」

「うわあ。可哀想」

「人間だって、もしかしたら似たような境遇なのかもよ。可哀想。ふふふ」

 どんな化粧品を使ってる? という話から何故か顔ダニの話になった。


「これ、危機一髪のお題の短編小説にするわ」

「危機一髪って、普通、助かるんじゃないの?」

「あら、普通なんてモノに頼っちゃ駄目だと思うわ。普通って案外エビデンスがないと思わない? 他人を操るときに使う言葉よ」

「ええっ? なんか煙にまかれてる気がするなあ。そのカタカナ語。それも他人を操るときに多用するって聞いたことがあるわよ」

「じゃあ、こうしよう。私の鼻に顔ダニが登るのを危機一髪、くしゃみで回避したって事でどう?」

「仕方がない。許す!」

 楽しいひと時だ。


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