崖っぷち声優がリアルな危機に遭遇したら。
櫻月そら
崖っぷち声優が、リアルな危機に遭遇したら。
「ありがとうございました! 失礼します」
しかし、扉を閉めて廊下に出ると口角が下がった。瞳からは光が消え、死んだ魚のような目になっている。
「はぁぁ……」
無意識に深い溜め息がこぼれる。
咲は声優をしている。
いや、一応、声優もしている、といったほうが正しいのかもしれない。
メインの仕事は、スーパーのレジ打ちだ。
アニメーション専門学校の声優科を卒業して、小さな事務所に所属することはできたが、オーディションに受からない。そもそも、オーディションに呼ばれること自体が少ない。
人気声優はオファーが来て、役が即決まるのだと思っていたが、すべてがそうではないことを知った。
1クールに何作も出演している売れっ子声優ですら、オーディションを受けているらしい。
そんなの勝てるわけがない、と嘆く前に、戦場にも立てていないのが現状だ。
『咲は歌もダンスも上手いし、演技の実力もあるよ。声も耳に残りやすいから、あとは緊張に勝てればねぇ……。何かきっかけがあると良いんだけど』
所属している事務所の女性社長は、そう評価してくれる。
しかし、緊張も含めてコンディションを整えることも実力のひとつだ。咲には、それが欠けている。
そして、咲が空回りする理由がもうひとつある。
両親と約束したタイムリミットだ。
約束の内容は、専門学校を卒業した
夢を諦めて実家に戻った際には、昔から交流がある旅館の息子と結婚する、という条件も付いている。
相手は幼なじみで気心が知れており、将来もおそらく安泰。顔も名前も知らないオジサンに嫁ぐよりは良い条件だとは思う。
しかし、咲はまだ声優の夢を諦めきれない。
専門学校へ入学する時も、やっとの思いで両親の了承を得て、今に至る。
声優になりたい、と両親に打ち明けた時、やらしい作品に声で出演するのだろう、と反対された。
どんな偏見だ、と咲は呆気にとられた。
何の作品を観てそう思ったのか、少し気になったが、あえて聞かないことにした。世の中、知らないほうが良いこともある。
しかし、両親が好きな洋画の吹き替えをしている声優も、アニメキャラクターなど、たくさんの役を演じていると説明すると二人は渋々納得した。
(あの映画も、がっつり濡れ場があるんだけどなぁ……)
世代によって、洋画とアニメのお色気シーンは別物なのかもしれない。
老舗旅館を経営している両親は、特に考え方が古い傾向にある。
そして、約束の期限までは、あと一年となってしまった――。
声優の仕事だけで生計を立てられる人は、ほんの一握り。そんなことは百も承知だ。それでも最後まで粘りたい。
しかし、咲が今までに演じた役は、女子生徒Aやショップ店員、通行人などのモブばかり。
ここから本当にのし上がることができるのだろうかと、ふとした瞬間に不安になる。
今日のオーディションも手応えがなかった。
おそらく、落ちるだろう。
「はぁぁ……」
甘いものでも飲んで気分転換しようと、自動販売機がある一階に向かう。
歩きながらも、無意識に何度も溜め息がこぼれてしまう。
それに反応するように階段下から、若い男性の声が聞こえた。
「……え?」
声の主は驚いたような顔で、咲を見上げている。
(そんなに驚くほど、私、悲壮感が漂ってる?)
面識はないが、おそらく業界の人だろう。
「こんにち……はっ!?」
「危ないっ!!」
とりあえず、挨拶をしておかなければと、男性から目を離さずに階段を降りていると、途中で段差を踏み外してしまった。
「……ひ、ぁっ!」
(ヤバイっ! こういう時は、下にいる人のほうが危ない!)
落下していく一瞬で、そう危惧したが、男性はしっかりと咲を受けとめた。
細身に見えるが、わりと筋肉質のようだ。咲の頬に当たっている胸板も厚い。
「……は、はあ、ぁ……っ」
巻き込んでしまったことを謝まって、助けてもらったお礼を言わなくては。
思考は回るが、落ちた衝撃と恐怖で息が整わず、上手く言葉が発せない。
「あ、あっ……っ。す、み、ませっ……んっ」
「大丈夫ですか? どこかケガしてませんか?」
ケガはないと伝えるために、咲は首を振った。
「そうですか。良かった……。それでも、一応は医務室に行きましょうね。――あと、落ち着いてからで良いので、僕の話を聞いてもらえますか?」
そう言った彼は、まだ息が整わない咲の背中を優しく撫でた。
(私にも春が? いや、慰謝料請求か!?)
声は出せないのに、頭の中は騒がしい。
「――ありがとうございます。落ち着きました……。すみません、おケガはないですか?」
「大丈夫ですよ。たまたま下にいて良かった。頭から落ちてきたので焦りました」
「ありがとうございます。助かりました。ご迷惑をおかけして、本当にすみません」
「いえいえ」
「それで、あの、お話というのは……?」
医務室に行くよりも、話のほうが気になった。
「あ、すみません」
そう言った彼はジャケットの内ポケットから名刺入れを出すと、丁寧に両手で名刺を差し出した。
「私はゲームプロデューサーの
「大人の男性向け……」
「いわゆる、R18のギャルゲーですね。シナリオは完成しているんですが、メインキャラの女性声優さんが、なかなか決まらなくて……。困っていたところに、あなたの溜め息を聞いて、この声だ! と直感で思ったんです。あと……、大変不謹慎なんですが、転落された後の息遣いがとても理想に近くて――。あ! 下心はまったくありませんよ! でも……、急にこんなこと言われたら、気持ち悪いですよね」
「い、いえ……」
うなだれて、本当に申し訳なさそうにしている柄本に対して、悪い感情は湧かなかった。
彼はただ、ワーカホリック気味の仕事熱心な人なのだろう、と。
「あの、声優さんですよね? どちらの事務所に所属を? ぜひ、オーディションに参加していただきたいのですが……」
柄本は自分の言動に落ち込んでいたが、すぐに仕事モードの真剣な顔に切り替わった。
それに対して、咲も真摯に答える。
「……ありがとうございます。お声がけくださり光栄です。一度、事務所に相談してみます」
「良かった! ありがとうございます。こちらからも、正式にオーディションについてのご連絡をさせていただきますね」
「はい。よろしくお願いいたします」
咲の返事に、柄本はふわりと嬉しそうに微笑んだ。
(なんか……、可愛い人だな。現場では雰囲気が変わるタイプなのかな?)
とりあえず、階段から転落死するという命の危機は回避できた。
しかも、約束の期限内にメインキャラ役に採用されるかもしれない。プロデューサーの人柄も良い。これは間違いなくチャンスだ。
しかし、両親や友人知人に喘ぎ声を聞かれる可能性があるという、新たな問題に直面してしまった。
(もし、この仕事が決まったら、メインキャラとしてのデビュー作はR18かぁ。……ん?)
ここで、もうひとつ恐ろしい可能性が浮かんだ。
声優を目指すことを反対された時に、「やらしい作品」と父が発言したことを咲は思い出した――。
(え? お父さん……?)
了
崖っぷち声優がリアルな危機に遭遇したら。 櫻月そら @sakura_sora
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