第六話「九曜巴」

「九曜巴」其の一

 昔々、どこからともなく武芸者がやって来た。


 そして道端に座る老人に「この地を目指すには、如何に」と地図を指して尋ねた。するとその老人は、何だそんなことという調子で「鍛錬、そして鍛錬」と答えたという。


 こんな風に、武芸者とは不自由で不便な生業だ。目的地への道を知っているはずなのに、いつのまにか見えなくなる。そして、その地へたどり着いたものが幾人あるのか、たどり着けたのかは誰も知らない。


 「辿り着けたのかは、誰も知らない… 」


 そんな風にヲリョウは。自分の父や祖父から聞いた言葉を思い出す。そして、遂にその場所に到達せんとする武芸者に出会えたことを実感していた。


 「あのが、その一人になるかもしれないってんだからね…」


 伊呂波の店先で一服していたが、紫煙とともに現れるのは彼女の想い出だった。


 イオリ・ツキオカ、出会った頃は元の世界の記憶もなく、おまけに武芸者とは程遠いようなところがあった。元の世界、扶桑之國へ帰還するため無謀にも対爾核の五傑へ挑戦、四人に勝利するに至った。


 ひと月余り、本当だろうか。彼女と出会って伊呂波で過ごした時間は、もっと長く感じられた。間借人一号のマサナと師弟となって特訓する姿も、店の手伝いをさせていた日常風景も懐かしい。旧友である町医者のタキに「いきいきしている」と言われたことも、それが嬉しいとからかわれたことも、なんとなく今は判る。


 引き止めることだって、このまま変わらない明日を迎えることもできる。だが、今するべきことはそうではない。イオリにもう一度翼を、迷いなく送り出してやることがその答えだ。


 「しかし、マァ… 最後だってのにねぇ」

 

 伊呂波の最後の夜に、何やらイオリはこそこそとやっていたのだ。


 どうやら自分やマサナを気遣って、置手紙と共に「気付かれぬうち」にという積りだったのだろう。だがそこは、いかにも彼女らしいというべきか、置手紙の書き損じが屑籠に山と積まれているのを夜中に見つけたのだ。どれも誤字脱字があったが、それだけではなかった。


 いずれも途中で文字が涙で滲んでしまっていたのだ。文言などどうでもいい。それだけで、彼女の胸の内は伝わってきた。常に元気いっぱい、寧ろ溢れるほどのイオリでも、そういうところがあるのだなと考えていると本人がそーっと表の戸を開いて姿を現した。


 「おはよう、早いじゃないか」

 「あっ…」


 ヲリョウが挨拶をしてやると、彼女はをしていた。まるで自分の計画は完璧だったのにという様子だった。


  「あっ、じゃないよ。挨拶も無しとは、随分と冷たいじゃないか」

  「バレちゃいましたか…」

 

 イオリは気恥ずかしそうに「えへへ」と頭を搔いている。やはり、最後までいつも通りの彼女であると却って安心した。


  「ところで、その格好で行くのかい?」


 イオリが身に着けている紺色の道着と袴は、最初にマサナが都合してやったものだった。立ち合いで斬られた彼方此方を縫い合わせており、随分と不格好だったが今はそれが勲章のように見える。


 「ホントなら、新しいのを仕立ててやったのに」

 「いいんです。最後の仕合ですから、これで挑もうって思いました」


 そういうイオリの手許には、もはや相棒ともいうべき木刀があった。なるほど、そういうことか。そうやって師匠が、マサナがいつも傍らにいてやったのかと判った。だから、最後も師匠と共にあらんと。


 「イオリ… これで最後なんだね…」

 「はい… これで」


 彼女の一言に、思わずイオリも言葉が詰まってしまう。


 そうだ。これが最後になる。扶桑之國に帰ることが叶えば、伊呂波ここに戻ってくることも、当然ながらヲリョウや師匠のマサナに再会することは二度とないのだ。


 「ヲリョウさん、短い間でしたが本当に… 本当にお世話になりました」

 「立ち合いに向かう武芸者が、一体何て顔してんだい」

 

 イオリが深々と頭を下げ謝辞を述べたが、頬を伝う涙をヲリョウは見逃さなかった。

 

 「イオリ、泣くんじゃない。今のアンタがすべきことはそれじゃない」

 「ヲリョウさん…」

 「今するべき事は、前に進むことだけだよ」


 するとヲリョウは紫色の刀袋をずいとイオリに差し出した。中身は彼女の家伝の一振である肥前忠吉だった。


 「私からの最後のお使いだ。こいつも連れて行ってくれないかい?」

 「でも… これを持って行ってしまっては…」

 「伊呂波の主、このヲリョウが頼んだ仕事を断ろうってのかい!?」

 「え、ええと、そういうことじゃなくって…」

 「こいつを見てるとね、親父と爺さんが燻ってたのがなんとなくわかった」

 

 本当にその道を捨てたのなら、諦めたのならば、この大業物は幾らかの金に形を変えているはずだ。何もかもが変わっても、変えたくないものがこの一振に込められている。

 

 「だからアンタの挑戦に、もう一度託してみようと思ったのよ」

 「ヲリョウさん… わかりました」


 イオリはしかと肥前忠吉を手にした。鎺に緩みなく、目釘も僅かに湿っており抜けはない。おそらく研ぎに出した後、マサナが直前の手入れをしていたのだろうと判った。そこで、彼の姿がないことにはてと思う。


 「そういえば、師匠はまだ寝てますか…?」

 「ああ、私より先に起きて、アンタをって出ていったよ」

 「えっ、私の見送り?」


 対爾核の構造は判らないが、列車での見送りじゃあるまいし一体どこで見送るというのだろうか。しかし、一度はあそこで戦っているマサナだ。何か穴場を知っているのかもしれないと二人は思った。


 「元々妙な奴だけど、最後の日もこれだから困るよ…」

 「見かけたら、いってきますと言っておきます」

 「そうしてやってくれ。もう会えないだろうから…」

 「でも…私も武芸者っていえるなら、またここに来れるのかな…」

 「何? それじゃぁ、今までの諸々は払ってもらおうかね。ちゃんと帳簿はつけてる」

 「えっ!?ヲ、ヲリョウさん、それはちょっと困ります!」


 二人は少し笑った後、お互いの気持ちが落ち着いたのか、ちゃんとここで言っておこうと思った。いうべきことは、たった一つだ。


 「それじぁ… 行ってらっしゃい」

 「はい、行ってきます!!」


 表で繋がれている翼竜がイオリの旅立ちを察したようで、すれ違った時に顔をこすりつけてきた。

 短い付き合いだったが、命を託した紛れもない同じ翼を持つ戦友だ。彼女はそんな翼竜の頭を撫でてやった。


 すると心のなかに声が聞こえてきたではないか。


 「翼をもつ者よ、空のつながる限りはどこかでまた…」

 

 この言葉に「この子もわかっていたのか」とイオリは嬉しくもあったが、寂しくもあった。空が繋がっているのならば異なる世界が交わる時、きっとまた会える。


 「行こう、今はまっすぐに…!」


 堂々と日が昇る中、イオリは堂々と市街の中心へ向かう。


 そこには変わらず対爾核があった。「なんじを映し、向き合え」と戒める奇妙な建造物、ここに出入りするのはこれで最後になる。対爾核の前に立つとイオリを認識したのか、鏡面のような壁に文字が浮かび上がり入口は開かれた。


 「今するべき事は、前に進むことだけだよ」


 ここまでずっと、ヲリョウの言葉を反芻していた。前に進むのだ。飛び立つ時、最大加速で離陸する時と同じなのだ。もうその瞬間は間近に迫っている。翼をもつものが、飛ぶことを忘れることはない。


 そう、あとは勇気だけだ。

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