「蝶車」其の四


 目の前に立っているのはイオリ・ツキオカ、自分自身ではないか。得物の木刀から背格好は勿論のこと、数えたことはないけれどまつ毛の数だって同じに見える。


 「最後に頼るべき存在と向き合うのはどんな気分?」

 「うーん。もうちょっと、垢ぬけてると思ったんだけどなぁ…」

 「ホントに面白い娘ね。さて、研鑽を重ねてきた自分自身に貴女は勝てるかしら」


 どこからか聞こえるニコの声と共に、もう一人のイオリが仕掛けて来た。鍔迫り合いの形となったが、互いの力は同じ。押しても引いてもビクともせず、完全に膠着状態となった。


 「ちょっと、退いてよ!」


 間合いを取るためにイオリは前蹴りを繰り出したが、それは相手も同じだった。互いが背後に吹っ飛ばされた。咄嗟の馬鹿力も全く同じと、その威力で以って判る。しかし、自分と全く同じ存在が体温や呼吸すら伴って迫ってくるというのは、鏡を見る以上に不気味なものがある。


 人間は自分を見るのが不愉快、どんなに憎くっても自分自身を殺すことも、自分自身をやめることもできない。恐怖以上に向き合うべきことが困難な存在であり、行き先を知りながら決してたどり着けない迷宮というべきだろう。


 イオリはその迷宮の中を彷徨っている。相手の攻撃を見切ることができる。だが、それは相手も同じ。どこまでいっても、相手から離れられない。カツカツと木刀同士のぶつかる音と、荒くなっていく呼吸の数だけが増えていく。そして、切り結んでからの投げに転じるタイミングが一致したせいで、またお互いに吹っ飛ばされた。くらくらする頭で、イオリはどうしたものかと考える。


 「自分自身と戦うって、どういうこと…?」

 「それは、一番負けてはいけない存在と向き合うことよ」

 

 声の主は、ニコではなかった。


 もっと馴染みのある懐かしい声だった。あの時、一瞬だけ見えた軍用地下鉄道で同席していたもう一人が、武道場で自分に語りかけているのが見える。イオリに語りかける声の主は、真っ白の道着と袴から近衛師団の士官だと判る。一本に結った黒髪が、その白に映えている。


 足取りは蝶のように軽いが、彼女が振るう木刀は真剣の重量がある。そして、傍目にもわかるように粘りがある。ただ単に型をなぞっているのではない、れっきとした仕合を前提とした動作であった。そんな彼女を眺めながら、紺色の道着と袴姿のイオリが何か考えるような顔で立っていた。

 

 「これは、私が創った映像じゃない… 彼女が自分の記憶を取り戻している!」


 沈黙していたニコだが、これには驚いた。


 今、イオリに見えている映像はニコに逆流して来ているのだ。そして彼女の闘志は穏やかな光に変わり、その波形は彼女の術を振り解きつつあった。


 「向き合うって、どうやって?」

 「そのために毎日のように稽古するの。明日は今日と同じにならない」

 「ううーん… 何か判るような判らないような」

 「まだ見たことのない自分は、未来にしかいないの。だから、昨日の自分に負けないように… ね?」 


 微笑みかける彼女にイオリは「そうだね」と、自らも木刀を取って立ち上がった。


 いざ立ち合って見ると、彼女との実力差は明らかだった。それでもイオリは決して諦める様子を見せない。その様子を、彼女は嬉しそうに見ている。嘲笑ではない、その闘志の燃える姿を慈母の眼差しで見ていた。


 夢中となっているイオリが上段に構えた隙を狙い、彼女は木刀の縁頭に突きを繰り出して弾き飛ばしたのだ。この恐るべき技の精度にイオリは「あちゃー」という表情で降参した。


 「やっぱり強いなあ。勝てるかと思ったけど、これだもん」

 「貴女こそ、絶対にあきらめないで向かっていくところは、相変わらずね」

 「えへへ、これのお陰で飛行機乗りには向いてたみたい」


 照れ笑いするイオリに彼女はほほ笑んだ。なるほど、そういうことか。今日呼び出したことも、こうやって久しぶりに向き合ったことも、そういうことかと理解できた。


 「ね? 例の新型機の性能試験、きっと大丈夫。イオリには、その覚悟も勇気もちゃんとあるから」

 「ありがとう。その勇気は、今もらったってところかな」

 「待ってるから。必ず帰って来なさいよ?」

 

 二人しかいない武道場に夕陽が差してくる。やがて、二人が語らう姿も夕日に染まり再び現実に引き戻される。最愛の友に、また気付かされた。

 

 「そうだ… 待ってるんだよ… 待っててくれてるんだよ…!」


 今目の前にいるもう一人の自分。昨日の自分に勝てないなんて、笑われてしまう。必ず元の世界、扶桑之國へ帰る。そして、彼女に「ただいま」と言うんだ。


 イオリがそう考えながら動きを止めると、もう一人の自分が上段で踏み込んでくる。これと同時にイオリも踏み込む。彼女の手に木刀はなく、繰り出された上段からの一撃を躱すと右手で体勢を崩してやり、そのまま投げに入った。

 

 未熟は未熟の工夫を重ねて技に至る。研鑽と工夫を重ねる限り前進する。全身の成果を、今まさに発揮した。昨日の自分と決別するために。


 「ありがとう。これまでの私」


 イオリの言葉が届いたかはしらないが、もう一人の自分の表情は穏やかだった。受け身の音は聞こえず、そのまま姿が消えていった。どうやら、ニコの術から完全に開放されたようだ。


 「心の在処は一つ、そう。今なら全部思い出せる」


 幸運にも、ニコの能力によってイオリは記憶を取り戻していた。還るべき場所と約束を思い出した、今の彼女は自らの心を燈明にすることが出来る。もう、迷うことはない。イオリの視界には、ニコのアトリエが見える。ニコは天を仰ぎながら溜息をひとつついた。

 

 「どうやら今度こそ本当に万事休す。いや、私の負けね」

 

 大分苦戦こそしたものの、イオリは自分の術を打ち破った。ニコがまったく途方もない武芸者だ。

 

 「最後に一つ聞いてもいいかしら?」

 「な、何ですか…?」

 「あの美しい白袴の剣士が、貴女の師匠かしら?」

 「師匠というより、小さい頃からの友人です」

 「どうやら、相思相愛のようね」

 「えっ!? そ、そういう間柄じゃないです!」

 「ずっと互いに向き合って、お互いに同じ方向、同じ道を見ているのだから、そうじゃない?」

 「そ、そういうことなんでしょうか?」

 「そういうことよ」


 急に顔を赤くするイオリの姿が妙に可愛い。やはり、こんな武芸者とは未だかつて出会ったことがない。命のやり取りをした相手だというのに、憎悪の破片も残さなければ暖かいものが心に流れ込んでくる。そう、また会うときは友人になれるようなそんな気持ちがするのだ。

 

 「もっと貴女を見ていたいけれど、どうやらこれまでみたい」


 ニコがそういうと彼女の姿が消え、イオリの目の前には数え切れないような色とりどりの蝶が舞い、万華鏡のようになってその模様を変えていく。


 「すごい、綺麗…」


 蝶の万華鏡が消えたとき、イオリはいつものように対爾核の外にいた。


 そこで突然、最後の一羽の蝶がひらと懐に飛び込んだので驚くと、差していた短刀に蝶車の紋が刻印されていた。時を同じくして、もう一羽がエリカ・ロートシュテルンの下へ姿を現していた。その様子から彼女は全てを悟り、自分もまた覚悟をしなければならないと思うのだった。


 そしてその一羽は、五傑の筆頭の下へも姿を現していた。


 「そうか、お前もイオリに敗けたか…」


 筆頭がそう呟いてその蝶を自らが描いた墨絵に置くと、すっと絵の中に溶け込んでいった。すると、枯木だけの殺風景な絵に一羽の蝶が舞っているのだった。

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