「蝶車」其の三

 見えないが、確かにそこにいる。視覚を除いた感覚が、存在をはっきりと認知している。見える恐怖よりも、見えない恐怖のほうが恐ろしい。


 「この感覚、似てる。あの時と…」


 この恐怖が呼び水となったのか、イオリが失っていた記憶が甦ってくる。視界が段々と変わっていく。


 目の前には、操縦席と計器類が段々と見えてくるではないか。間違いない、暴風雨に襲われ星すらも見えない夜間飛行、更には雷によって無線も絶たれ地上との交信が途絶えたあの時の事だ。操縦桿も効かず計器も役立たずになった時の恐怖。絶対の孤独に陥った時の恐怖、全ての感覚を恐怖に奪われたときのあの記憶がありありと甦る。それどころか、手を伸ばせば届くような距離に感じるのだ。


 「天国が空の上にあると人は言う。だが飛行機乗りの天国はにある」


 頭の中に浮かんだ言葉は、学科や演習場で幾度となく教官から聞いた言葉だ。単なる口癖ではない。彼の右目の傷、不自由になった左足がその天国に一度近づいたことを証明していた。


 「あの時の記憶まで、こんなに鮮明に…」

 「人は恐怖を言葉で隠すことはできても、忘れることはできない」


 イオリが見ている映像の中に、ニコの声が流れ込んでくる。おそらくはこちらの様子を観察している。彼女の異能は全てを見通す眼は、過去と現在の自分をどんな風に見ているのだろうか。


 「一方的に見つめられる… あの人のキャンバスに閉じ込められたみたい…」


 確かに師匠のマサナが言ったように、相手の獲物は見えないが、必ず勝機があるはずだ。イオリの感覚を支配する恐怖、繰り返されるフラッシュバックの中に、僅かだが違和感がある。


 「大抵の武芸者は自分の恐怖トラウマで降参するけど、貴女はどうする?」

 「それはまたの機会にとっておきます」

 「なら、今回はどうするのかしら?」

 「今は、こうします!」

 

 イオリは真正面に踏み込み、拝み打ちの一刀を繰り出した。すると、眼の前に広がっていた映像にノイズが入ったようになり、元の視界が回復したではないか。

 

 そこには、あらあらという様子のニコが立っていた。間合いの外にいるのは致し方なかったが、突破口は開けた。


 「どうやって私の位置が?」

 「貴女の絵の具の匂いです。姿!」

 「すごい嗅覚ね。それに、恐怖に真正面から向かってくるなんて、初めて見たわ」

 「飛行機乗りの、一番の敵を知っていますか?」

 「あらあら興味深いわね。教えてくれる?」

 「暗闇や暴風雨でもなく、恐怖心に負けて。翼を持った者は、どんなことがあっても前に進むんです!」


 彼女の言葉は、強がりではない。ニコの眼には段々と強くなるイオリの闘志が発光するように見えている。どうやらこの娘、己の恐怖に向き合うだけの勇気を持っているようだ。人工の翼であれ、それを持った者は飛ぶことを忘れない。さながら、この世界の空を支配する翼竜の如きだとニコは思った。


 「ありがとう、飛行機乗りさん。さて、私は術を破られて万事休す…ってところかしら」

 「命を奪うつもりはありません。降伏してください」

 「私もそれはにするわ」


 再び姿を消そうとするニコをイオリが止めようとすると、先ほどとは異なる気配を感じた。


 今度ははっきりと視認できる。


 ゆらりと全身を見せたまさしく怪異、彼女の師匠であるマサナよりも頭一つほど大きい。武骨な外骨格銀色に輝いており、緑色の発光を関節部や面頬の隙間から覗かせる。攻撃手段は、おそらくあの紅玉(ルビー)のように鮮やかなかぎ爪だろう。それも、ときたものだから参ってしまう。


 「気に入ったかしら? 今度は貴女の恐怖をしたのよ」

 「恐怖の立体化…?」


 恐怖の立体化、信じがたいが動く彫刻作品ともいうべきだろうか。


 じっと観察するイオリへ銀色の怪物は、隙ありと言わんばかりに例のかぎ爪で襲いかかった。


 幸いにも動作が大きいので回避できたが、どうやら目的は攻撃ではなさそうだった。イオリの足元、石造りの床に五本の爪痕が深々と刻まれている。成程、相手は自分がと物証を突き付けてきた。身体の丈夫さは自分の取り柄だとイオリは自負しているが、あの痛々しい五線譜を眺めてそう言えるほど自信は全くない。


 「どうやら、ほっぺた抓る必要はないみたい…」


 ここまでくればすることは一つ。相手が物理攻撃を用いるということは、こちらからの物理的な攻撃も有効と言うことだ。どういう原理は分らないが、恐怖の立体化なら生き物ということはなさそうだ。


 「それなら、とにかくガツンと一発ぶちかます!」


 この決意と共に、イオリの闘志が益々強くなっていく。無論、これもニコの眼にも映っているのだが、闘志が昂るごとに増していく光は闇を燃料に燃えさかる火のようだった。


 「まるで、火の玉… ね」

 

 そんな彼女が、木剣を振るって怪物と戦っている。先に五傑のフルールやヴィヨルンを破ったのは伊達ではなかった。相手の攻撃をすり抜けるような一太刀、そして回避と投げを同時に繰り出す円の軌道は妙技と言っていい。銀色の怪物は恐怖を立体化させたと自分で言っておきながら、その恐怖を克服せんとする姿を見せつけられている。


 「でも、本当に美しい」


 ニコには見える。イオリの闘志に呼応するように、あの美しい身体が活き活きと躍動している。自分を除いた五傑の面々のような、身体の動作が完成の域に至ろうとしている。


 「これで決める…!」


 四本腕の連撃、確かに気圧されはするものの、あの十文字片鎌槍や音速の居合に比べれば随分と原始的過ぎた。ましてや、怪物が繰り出す腕を伸縮しての貫手の速度はあの音速の居合にすれば、どうっていうことはない。


 イオリが用いる円の軌道、転(まろばし)と表裏は確実に間合いを詰めていく、上下から繰り出す四本腕の攻撃を躱す上半身と下半身の捌きが重なり卍を描くようになったとき、ここに回転の相乗効果が発生する。そのまま、イオリは跳躍して怪物の頭上から一刀を繰り出した。


 「前のより、威力は増したはず…!」


 跳躍からの一刀は背筋と胸筋の力を余すことなく木刀に伝える。そこに、回転が加わることで威力は更に増していた。


 「剣の一振り毎に強くなる剣士… ヴィヨルンの見立ての通りね」


 ニコの読み通り、これは四本腕の防御とてこの威力は防げず怪物の頭蓋を粉砕した。さらに、威力はそのまま首から胸へ伝わり、あの甲冑のような銀の外骨格をぶち割っている。

 そこから緑色の体液を発散させながら銀色の怪物は倒れた。もっとも、イオリはもうこの幻影にたじろぐ気配はなかった。いつどこからでも反撃できるよう、まっすぐした眼差しのまま、木刀を正眼に構えている。


 「たぶん、本当の攻撃はこれから」


 ニコが用いる術を既存のそれに当てはめるとしたら、師匠のマサナが常々言うところの詭道、兵法の精神の究極系だ。ここまで、余りに自分の予想通りに進んでいる。いや、進みすぎている。恐怖を乗り越えたという勇気は時に慢心となる。自分自身と向き合わねばならない。そして、決して見誤ってはならない。そんな風に考えていると、怪物の亡骸から何かが立ち上がったではないか。


 またもや怪異の類かと思ったが、その姿は余りに見覚えがあった。

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