第二話「月輪に星に久留子」

「月輪に星に久留子」其の一

 「どうしたんだい、その顔?」


 朝稽古を終えて意気揚々と戻って来たイオリの顔を見て、ヲリョウはギョッとした。切り傷やアザは無かったが、その代わりに朱色の丸が顔の真ん中にくっきりとついているではないか。


 「それに物干しざお担いでって…一体何の稽古? まさか洗濯?」

 「違いますよ、槍です!これは最後の一突きが躱せませんでした」

 

 ついさっきまで、イオリと師匠のマサナは近所の川辺で槍を想定した稽古をしていたのだ。慣れるために本身を使おうかとも考えたが、うっかり負傷しても困るので同程度の長さがある物干しざおでタンポ槍をこさえた。先端に朱墨をつけてあり、穂先の軌道がどう変化するか、どこを知らないうちに狙われるか気付けるという工夫であった。


 「この槍ってのは、。それだけ利のある武具ってことだ」

 「こうしてみると銃剣よりも、間合いが遠いですね…」

 「ほほーう、銃剣と仕合をしたことがあるのか」

 「ぼんやりですけど、突きよりも銃床での反撃が怖いって…教練(トレーニング)で…」

 「なるほど、それならやってみるか」

 「はい!よろしくお願いします!」


 槍のような長柄武器は物理的な間合いの有利さに加えて、穂先で牽制しつつ本人が逃げ水のようになって退くことができる。このため、捉えるのが難しいという術利的な間合いがある。マサナが二、三度その実例をやってみせると案の定だった。イオリが未熟ということもあるが、見事に引っかかって吸い込まれるように間合いに入る。


 これが本身の大笹穂であったならば、突きが襲い掛かっただろう。


 「師匠、降参です…手も足も出ません…」

 「そうでもない。自分の胴着をよく見てみな」


 言われてみれば、笹薮のように伸びて来た穂先であったのにイオリの胴着には朱墨は一滴もついていない。流石は飛行機乗り、その動体視力は確かなようだ。


 「引き込まれたが、一つも当てられていない。ちゃんと見切っている証拠だ。もっと確かに見切るのならば、穂先の舵取りをする右手の動作に傾注しろ」

 「垂直尾翼と水平尾翼の動き…方向舵(ラダー)の操作…」

 「ん、何だいそりゃ?」

 「あっ、すみません!何か急に、飛んでいた頃を思い出しました」

 「そういえば、飛行機械を操作できると言っていたな。空中…全周囲を間合いとする勘所も生きているようだな」


 マサナは懐から竹筒を取り出し、物干しざおに通した。イオリがはてなと見ているので、そのまま槍を構えて最初と同じように突きを繰り出して見せた。


 「さっきと、全然違います。速さも、穂先の乱れ方も…」 

 「管槍という様式だ。現物はもっと穂先が暴れるが、対応は同じだ」

 「もし、これ以上のことがあるとすれば…?」

 「そうだな。短槍なら、こういうことがありえる」

 「どういう…ええっ!?」

 「最初の最初に言ったが、兵は詭道。意表を突かれたときはもう遅い」

 「なるほど、こんな風になるってことですね…」

 

 イオリが尋ねたのと同時に、マサナが不意打ちでタンポ槍を投擲したのだった。彼女は投擲という奇襲の実例を、川面に映る自分の顔に鮮やかな朱墨の丸がついていることで確認したのだった。


 「刀剣で槍を相手にするのは絶対の不利。だが、相手が利を活かすのではなく、頼るようになれば動きが固まる。必勝の瞬間は必ずやってくる… 最後まで諦めるな」

 

 イオリの話を聞いていると、案外あの不精な男も真面目なのだなとヲリョウは感心した。

 

 「間借人一号が、まさかそんな達人だったなんて…仇名つけるなら技の一号だね」

 「それに、なんだか何百年も生きてるような、そんな風に語るんですよね…」

 「うーん、確かにマサナはそんなところがあるね。そういう性格なんだよ」

 「ところでヲリョウさん、一つ聞いてもいいですか?」

 「何だい? 生憎私は、武術や兵法なんて何も知らないよ」

 「いえ、違うんです。あの… ヲリョウさんって幾つですか?」

 「な、何たってそんなこと急に」

 「やっぱり師匠、ヲリョウさんとそんなに離れてないと思って…」

 「三十…ええと、いや、なんというか、二十を少し出たくらい… そう、お前とよ。うん、そんなに離れてない」

 「えっ? ?」

 

 師匠以上に釈然としない年齢を突き付けられ、イオリはさらに首を傾げ指折り数え始めたので気を反らさなければならない。


 「ほらほら、もうそんな少々のことはいいから風呂でも使いな」

 「あっ、はい。ありがとうございます」


 ヲリョウにせかされて、イオリは風呂場で稽古の汗を流してスッキリしたのだが、どうにもこうにも「そんなに離れていない」という一言はスッキリしないのであった。髪を乾かすと、今度はヲリョウの稽古ともいうべきかお使いが何件かある。彼女に代わって、取引のある商家やら個人を尋ねなければならない。


 「お使いの他に、もう一つ…!」


 イオリは見よう見まねではあるが、師匠のマサナの如く雑踏でも人にぶつからない、あの歩るき方を試してみようと考えていたのだった。未熟は未熟の工夫を重ねるが、それはやがて技となる時が来るのだ。

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