第2話

 結局、その日から俺の生活は一変した。


 綺麗に片付いた部屋で、毎日美味しい手作りのごはんを食べて、アイロンのかかったシャツを着て仕事に行く。


 会社に行けば昼休みは小春が作った弁当を食べて、仕事帰りに小春と待ち合わせして一緒に買い物をして帰る。


 今までなら、適当にコンビニで買った食事をダラダラと食べて、溜まった洗濯物にげんなりしてたのに、帰る頃には洗濯物は綺麗に洗濯されて片付けられていた。




 そして家に小春がいる居心地の良さを実感するようになった頃。

 小春が近づいて来て、急に俺の匂いを嗅ぎ始めた。


「なんか……朝陽、女の人の匂いする」


 そう言いながら、上目遣いで首を傾げた。


(だから、その顔、その仕草。俺に刺さるんだって。そろそろ可愛さを自覚して欲しい)


「え? ああ、帰りの電車が満員だったから、たぶんそのせい」


 その頃にはもう、俺は小春の事を好きになっていて、けれど手を出してしまえばこの心地いい生活がなくなってしまう気がして。手を出せないでいた。



 だから、この時も俺は目を逸らしてそう答えた。



 すると小春は急に俺に抱きついてきて。


「そっか……なんか悔しいから、私の匂いつけとく」


 ボソッとそう言いながら俺の胸に顔を埋めた小春は、その日に限って風呂上りのいい匂いがして。俺の理性が崩壊しそうな気がした。



(まずい、俺……もう我慢できないかもしれない)



 そう思ったけど、手を出して小春に嫌われてしまうのが怖かった。小春は可愛いから、きっと今まで彼氏がいた事くらいあるだろう。対して俺は、女性経験なんて一度もなくて、小春を満足させられる自信なんてなかった。


 だから咄嗟に。


「ちょ、やめて」


 そう言って、小春を突き放してしまった。



 すると小春は急に悲しそうな顔をして――


「ごめん。……私、仕事先見つかったんだ。給料溜まったら出て行くから、もう少しだけここにいさせて」


 そう言う小春は、笑顔なのに悲しそうに涙を浮かべていて。


「え……? 小春、出て行くつもりなの?」


 思わずそう聞いた。



「うん。短い間だったけど、居候させてくれてありがとね。でも、いつまでもいたら迷惑だと思うし、さ。私がいたら……いつまでも朝陽に彼女出来ないだろうし」


 そう言う小春の顔は、精一杯笑ったような顔をしているのに、目からは涙が零れていて。


「――いやだ。いつまでも……ここに、居て欲しい」


 俺は思わず小春の身体を抱き締めていた。


 すると小春も俺に抱きついて来て。


「どーしよっかなー。いつまでも私の片思いだと、苦しいんだけどなー? 誰かさんはいつまで経っても手を出してくれないし」


 冗談ぽくそんな事を言い出したから。


「手を出していいなんて、聞いてない。俺は小春に嫌われたくなくて必死に我慢してたのに」


 そう言って強く抱き締めた。



「……朝陽って、ほんとに彼女いたことなかったんだ」


「うっさい。男のプライドを壊すようなこと言うな」


「じゃあ、私が初めての彼女になってあげよっか」


「……その言い方は、可愛くない」



 俺の言葉に小春は膨れっ面をした。


「えーだって……」



 そして何か言いかけた小春の言葉を遮るように、俺は小春の目を見て言った。



「小春、好きだ。俺の、彼女になって欲しい。そしてこのままずっと、ここにいて欲しい」


 すると小春は、ふるふるっと震えながら、今度は両手で顔を覆って嬉し涙を流した。


「うん。……私も、朝陽が好き。本当はずっとこのままここに居たい」


 顔を手で隠したままそう言う小春が可愛くて。


「小春、顔見せて」


 そっと顔を覆っている手をどけた。



 涙で潤んだ瞳のまま俺を見つめる小春はやっぱり可愛くて。キスしたいなと思った。すると。


「ねえ、そろそろ手、出してもいいよ?」


 そんな事を言ってきたから。


「お前、それ言ったら雰囲気台無し……」


 俺はそう言って小春の唇にキスをした。


 小春は照れて俯きながら。


「だって、“手を出していいなんて、聞いてない” とか言うから。言うまで何もしてくれないのかと思ったんだもーん」


 そう言ったから。


「なんだよ、それー。俺を意気地なしみたいに……」


 俺もそう言いながら、小春のおでこに自分のおでこを合わせると、どちらからともなく笑い合った。



 そして小春はまた冗談ぽく。


「じゃあ、男らしいとこ見せて?」


 少し挑発してきたから。


「言ったな?」


 俺はそう言うと、さっきより強めにキスをした。





 それから俺達は、恋人として一緒に住むようになった。


 そうして幸せな月日が流れたある日――小春が言った。


「ねぇ、朝陽。……赤ちゃん、出来ちゃったみたい」


 その時の小春は不安そうな顔をしていて、何も不安がる事はないのにと思って。


「……小春、結婚しよっか」


「うん」


 少し安心したような顔になった小春をさらに安心させたくて、精一杯の愛を込めて抱き締めた。




 やがて娘が生まれて、小春は母になった。


 『ひなた』と名付けた我が子を抱きながら、小春はそっと俺に言った。


「ねえ、朝陽。朝陽があの時私を助けてくれなかったら、この子はこうして生まれて来てなかったんだね」


「……そうだな。心から、あの時の自分の行動に感謝するよ。小春を助けてよかった。生きててくれてありがとう、小春。そして、ひなたを生んでくれてありがとう」


 すると小春は聖母のような顔で言った。


「朝陽が助けてくれたあの日から、私の人生は幸せになったよ。あの時助けてくれてありがとう。そして、一緒にいてくれてありがとう。これからも3人で、幸せに暮らそうね」



 そうして始まった3人暮らしは、“ひなた” のような穏やかな毎日では決してなかったけれど、時に大泣きしたり、ハラハラしたり、時には天使のような寝顔を浮かべる我が子に癒されたり、慣れない育児に奮闘しながら、また新しい幸せを感じる日々になった。



 いずれ娘のひなたも大きくなったら、好きな人が出来て母になるのだろうか。

そうして命は引き継がれていくのだろうか。



 とある小春日和、俺は両親と妹の朝菜あさなが眠る墓へと、小春とひなたと3人で墓参りに行った。


 そして静かに手を合わせた。


『父さん、母さん、産んでくれてありがとう。そして朝菜、朝菜の分まで精一杯生きるから。穏やかな気持ちでいつまでも見守っていて欲しい』



 墓石はまるで俺達が来た事を喜んでくれているように、陽の光を浴びて明るく穏やかに輝いた。



 隣で一緒に手を合わせる小春の顔付きは、あの頃の強気な顔ではなくなっていた。


 あの時の小春の表情は、施設にいた時、『小春ちゃん』と親し気に呼びながら虐めてきていた人達から、自分を守るために身に着けた表情だったらしいのだが。


 今ではすっかり母になった強さと優しさを秘めた顔。



 そして。



「小春、帰ろっか」


「うん!」


 俺に小春と呼ばれて、素直に瞳をキラキラと輝かせるのだった――。





(完)


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この作品は、「短編賞創作フェス」第2回目のお題、『危機一髪』を元にその日の内に製作した即興作品です。

至らない点や、いつもの作風との違いもあるかと思いますが、自分の中ではとても勉強になったと思っています。

 

ぜひ、他の作品も読んでいただけたら嬉しく思います。


↓「短編賞創作フェス」第3回目のお題、『秘密』即興作品↓

◆外では真面目な学級委員長の家出先が、実は担任の俺の家だなんて誰にも言えない。なあ、俺の前でだけバカ可愛いのはなぜですか。

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空豆 空(そらまめ くう)

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ある日女の子を助けたら、責任取って一緒に住むことになった。幸せ過ぎて手を出すのを我慢していたら、手を出して良いよと言われた話。 空豆 空(そらまめくう) @soramamekuu0711

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