出た。

如月姫蝶

出た。

 その当直室には、出る。


 私は今夜、勤務先の病院で、翌朝までの当直医を務めている。救急病院などと比較すれば、激務だなどというのは烏滸がましいが、それでも、まともに睡眠がとれるはずもない。

 つい先程まで、この手で、とある入院患者の心臓マッサージを行なっていた。

 今時、心臓マッサージなんて、自動でやってくれる機械に一任してしまうのが常だが、今夜の患者は、あまりにも小柄だったため、その機械にフィットしなかったのだ。

 全力で押し込むうちに、患者の肋骨が折れて、肺に突き刺さる感触が、私の掌を突き抜けて脳を揺さぶった。

 心臓マッサージは、そのくらいやらねば、拍動が再開しないことも多い。

 しかし、そこまでやっても、今夜の患者は亡くなってしまった。

 もっとも、遺族——になったばかりの家族たちは、早くも、患者の死そのものよりもその遺産をロックオンしていたため、私や病院にケチをつけるようなことはあるまい。

 

 私は、僅かな空き時間に、当直室のベッドに仰向けとなり、患者の体温や骨折の瞬間が刻まれた掌を虚空にかざした。

 医師としてのキャリアなら多少は積んだけれど、それでも、溟い海さながらに感情が波立つことがある。

 終わりゆく命もあるけれど、新しい命も生まれくる……はずだ。私は、そんなふうに祈りながら、感情の上書きを望んだ。


 それから十五分ほど後、私は、当直室のデスクに医学雑誌を叩きつけた後、仁王立ちで腕組みした。

 私の頭脳は、ちょっとした隠謀論に纏わる考察を開始していた。


 事の発端は、つい今しがた、当直室に一本の電話が入ったことである。

 その電話は、病棟の一つをあずかる看護師長からのものだった。用件は、頓服薬に関することで、当直医の指示を必要とするが、電話で済むような内容だった。そういった点に問題はない。

 問題は、師長が、なぜ医師に支給されている院内スマホを鳴らすことをせず、当直室の固定電話に架けてきたのかという点である。

 おかげで、私は、身の毛もよだつような恐怖を味わうことになってしまったのだ!

 

 師長は、年配の男性だ。この病院での勤続年数は、当然ながら私よりもはるかに長い——


 刹那的に陰謀論に傾倒しつつあった私だが、すぐに一つの仮説を導き出した。

 ああ、そうか。この世にスマホなんてものが普及するよりもずっと以前から、固定電話やその電話番号は存在してきた。勤続年数の長いベテランであれば、院内スマホではなく、当直室の固定電話の番号のみを暗記しており、優先的に使おうとすることだってあるかもしれないじゃないか!


 私は、自前のその推理を採用することにした。師長が、私を暗殺するため、事前に固定電話に細工を施して、頃合いを見計らって架けてきたのでは——などという勘繰りは、いくらなんでも被害妄想じみている。

 私がその一本の電話のせいで、身の毛がよだち、背筋が凍り、心臓も止まるかというほどの恐怖を味わったことは事実なんだけれども!


 元々、この当直室には、のだ。


 私は、当直室に付属したユニットバスから出てきたところで、固定電話が鳴っているのに気付き、即座に受話器を取った。

 師長から、頓服薬の投与に関する指示を求められたので、口頭で応じた。そう、口でだ……

 その時、私の唇が、謎のふにふにとした感触を覚えた。

 それは、蜘蛛の巣だか猫っ毛だか、兎に角やたらと細い何かにくすぐられたような感覚だった。

 私の髪は短く、唇まで届かないし、髪質も、猫っ毛には程遠いのだが……


「では、よろしくお願いします」——その一言で師長との会話を切り上げ、受話器を置く前に、私は、その正体を見た。

 実は、受話器の下部、送話器の部分のカバーが、外れかけてずれていた。

 そして生じた隙間から、二本の猫っ毛が、すらりと伸びていたのだ。

 猫っ毛たちの根元には、中途半端に濃い麦茶みたいな色をした、てらてらと光沢のある何かが覗いて、蠢いていたのである! 


 私は、飼い主の尻の下敷きになった猫のような悲鳴をあげた。

 もしも、咄嗟に指でフックスイッチを押さえることをしなければ、その悲鳴を師長に聞かれてしまったかもしれない。

 まさに危機一髪だった。

 それはさておき、私の悲鳴は、戦士の雄叫びでもあった。


 私が卓上に投げ捨てた受話器から、ゴキブリが一匹……どころか四匹までもお出ましになったではないか。

「おのれ、ちょこまかと!」

 私は、咄嗟に手近な医学雑誌をふるって、悉く叩き潰し、殲滅した。

 大嫌いな上司の論文が掲載された雑誌だったが、役立てることができて良かった。


 殲滅戦に勝利した私は、改めて雑誌をデスクに叩きつけて、腕組みして仁王立ちとなった。

 心臓がバクバクと不愉快に騒ぎ立て、背筋は冷たいままである。


 私は、ゴキブリが大嫌いだ。出会い頭に殲滅するよう心掛けているが、そのたび、体内で大量のアドレナリンが放出される。殲滅を成し遂げることで恐怖が和らいでも、動悸や不眠がズルズルと長引くのだ。


 残念なことに、この当直室には、しばしば出るのだ、ゴキブリめが。私も、当直医として泊まり込むたびに、結構な討伐数を誇るよりほかない。

 それにしても……今まで生きてきた中で、固定電話の送話器なるもののおかげで、誰かと間接キスしてしまったことならあったろうけれど、ゴキブリに唇を許したなんて初めて……のはずだ。

 まさか、受話器の中に潜伏しているだなんて、その発想はなかったわ!

 私は、アドレナリンに酔ってしまったのか、師長が私を陥れるべく、予め受話器に彼奴らを仕込んでいたのではないかとさえ考えた。

 だが、そんなのは被害妄想だと、強い意志でもって振り払おうとした時……


 ノックの音が聞こえた。何者かが、当直室のドアを、外から叩いたのだ。

「先生、ちょっとよろしいですか?」

 野太い男声……師長の声ではないか!

 院内スマホではなく固定電話に架け、それでも飽き足らず、直接訪ねてきたというのか?


 私は、医学雑誌よりも重く硬い本を片手に、そっとドアを開けた。

「ああ、先生、ご無事でしたか」

 師長は、強面に笑い皺を刻んだ。

「さっき、電話の最後に、物凄い悲鳴が聞こえたから、念のため様子を見に来たんですよ」


 物凄い悲鳴って……聞こえちゃってたのか……危機一髪、フックスイッチを押して間に合ったと思っていたのに……


「ああ、あれね。実は、電話からゴキブリが出てきたもんだから、びっくりしちゃって……でも、ゴキブリは退治したし、もう大丈夫です」

 私は、作り笑いを浮かべた。

「師長さんがスマホに架けてくださったら、ゴキブリとエンカウントせずにすんだんでしょうけど」

 ついつい恨み言を付け加えてしまった。

「架けましたよ?」

 彼は、スッと目を細めつつ、さらりと応じたのである。

「先に院内スマホに架けたけど、先生がお出にならなかったから、固定電話に架け直したんですが……」

 そして、微妙な数秒の沈黙が流れた。


 しまった——

 私は、またもやアドレナリンが大量に放出されるのを自覚した。思えば、私は、ユニットバスを使っていた。そして、ユニットバスに入る少し前から、スマホを白衣ごと体から遠ざけていたのだ! 今でこそ、いつ呼び出しがあっても構わない格好に戻っているけれど……


「昔の話になりますが……この当直室の前の廊下には、夜中に出る。白い服を着た女の幽霊が、髪を振り乱して泣くんだ……なんて怪談があったんですよ」

 師長は、声を低めて語り始めた。

「でも、それは実のところ、泣き叫んではいたけれど、生きてる看護師だったんです。当時の副院長の不倫相手でした」


 おのれ勤続年数のやたら長い師長め! そうだよ。当時の副院長とは、私の父だ。院長の座を狙っていたけれど、当直室に看護師を連れ込むような素行の悪さが災いして、副院長止まりだったのだ。


 私は、師長と父のことを心の内で罵りながら、重く硬い本を、そっと手放した。うっかり手元が狂ってしまわぬうちに……

 そして、両手を腰に当てて力強く宣言したのである。

「私は、不倫なんかしていません!」

「先生……ユニットバスのほうで、水が出しっぱなしになってませんか?」

 師長は、またさらりと指摘した。年配ながら耳敏い。

「ああ、あれはね……バスタブにお湯をはっているのよ。ゴキブリのせいで、時間が許せば一風呂浴びたい気分になっちゃって。師長さんにお引き取りいただいたら、ちゃんと止めに行きますから、ね?」

 私は、師長を追い返そうとした。実のところ、ユニットバスから聞こえてくるのは、シャワーの音なのだが……

 

 その時、ユニットバスの扉が、内側から開かれた。

「ねえねえ、僕の育毛剤、取ってくれない?」


「紹介します。夫です」

 私は、ロボットじみた動作で言うことになった。


 実は、私たち夫婦は妊活中で、今日という排卵日を無駄にしたくはなかった。しかしながら、今夜の当直を交替できる医師が見つからなかったため、密かに夫を呼び寄せるしかなかったのだ——

 そんな込み入った事情まで、うっかり白状しそうになったが、ぐっと堪えた。


 私は、今度こそ、危機一髪のところで、口を噤んだのだった。

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出た。 如月姫蝶 @k-kiss

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