【創作落語】布売り(きれうり)
あそうぎ零(阿僧祇 零)
布売り(きれうり)
※ 本作は、「
一席、お付き合いを願っておきます。
私たちのように、ごくフツーの人間でも、一生に一度や二度くらいは、危機一髪という目に遭ったことがあるのではないでしょうか。
自然災害とか交通事故、火事なんてぇのは本当の危機でしょうけど、本日は、そういうものには引っ込んでいてもらいます。そんな危機の親分みたいなやつでなくて、もっとずーと小粒な危機であっても、本人にしてみれば大ごとで、どうやってそれを切り抜けるか、必死になって考えるわけでございます。
たとえば、朝の通勤電車の中、急にお腹が痛くなって、催してきちゃった。次の駅で降りようと思っても、快速電車なんで、なかなか次の駅に着かない。我慢に我慢を重ねて、いつも降りる駅じゃございませんけど、切羽詰まって次の駅で降りますねぇ。大急ぎで駅のトイレに駆け込むと、何とそこには、順番待ちの列が出来ている。同じような人が、他にもいるんですねぇ。こうなりますと、絶望感が一段と深まります。顔には脂汗が滲み、やがて目の前が真っ白になってまいります。
でも、仕方がないから、列の最後尾に並びます。並んでいる人は皆、目は虚ろ、中には身をくねらせている人もおります。みんな、こらえるのに精いっぱいで、誰も「お先にどうぞ」なんて言いません。もっとも、トイレから出てくる人は皆、何かこう、晴れ晴れとした顔をしていますね。それで、列の脇を通る時、列に並んでいる人を見ます。なんだか、懐かしそうにですね。
私も以前サラリーマンをやってましたんで、そんな危機一髪は、何度か経験しました。
八「どうもこうもありませんや。てぇへんなことになっちまったんですよ。あっしの命も、今日限りかもしれねぇんでさ」
隠「命が今日限りだって? へー、そりゃ大変だなぁ。しかし、そそっかしいお前のことだ。
八「茶化さないで下さいよ。あっしはまだ、
隠「いったい、どういう事なんだ? 話してみなさいよ。ことと次第によっちゃぁ、知恵を貸してやらないでもないぞ」
八「ありがてぇ。さっき、
隠「
八「へぇ。六尺棒に
ここでちょっとご説明しますと、江戸時代、
布売りは、長い棒の前後に、いろいろな
「キレヤ——ァ、キレダケ——」
と言ったかは、定かじゃありません。
八「それでね、ある茶店の前を通りかかるってぇと、店の中から若い女の声で、『はっつぁん、はっつぁん』って、あっしを呼ぶじゃありませんか」
隠「ほう。まあ、
八「いや。ここで、しくじっちまったんでさ」
隠「ほー。さては、女というのは実は狐で、お前は化かされたんだな?」
八「あんな人混みん中で、狐が出るわけありませんや。あっしは思わず、女の声のする方に振り向いたんでさ。するとね、なぜか六尺棒も一緒に回っちまったんで」
隠「当たり前だ。お前、六尺棒を担いでいたんだろ? それでどうした?」
八「悪い事は、続くもんですねー。その女は、あっしを呼んだんじゃなかったんでさ。『はっつぁん』違いで、別の野郎を呼んでたんでさ」
隠「何だ、そんな事か」
八「それでね、その後がちーっとばかり、良くないんだなぁ」
隠「どうしたんだ? もったいぶらず、早く話せ」
八「六尺棒の先っちょが、悪さをしましてね。茶店の店先で茶を飲んでいたお侍の頭を、叩きやがったんですよ。六尺棒の奴が」
隠「棒じゃないよ。お前がやったことになるんだ。で、侍はどうした?」
八「これが、身の丈はそれほど大きくないのに、
『おい、そこの町人! 武士の頭を小突くとは何事か! たたっ斬ってやるから、そこへ直れ!』
あっしはすぐに土下座して、何度も謝りましたよ。
でも侍はますます顔を赤くして、『お前のそっ首、斬り落としてくれる! そこに膝をついて、首を前に出せぃ』って、聞かないんですよ」
隠「へー。すると、何かい。お前が今付けている首ってぇのは、
八「冗談は大概にして下さいよ。その侍は、二人連れだったんでさぁ。もう一人は背が高くて、
隠「ほー。『早くこの不届き者を血祭りにあげて、吉原に繰り込もう』とか何とか言ったんだろ?」
八「違うんだな。『おい、吉田。
隠「まー、そうだろう。武士には、
八「でもね、胡瓜がまた、いいこと言ったんですよ」
隠「お前、神棚に胡瓜をお供えして拝んだらどうだ」
八「胡瓜は言ったんです。『ここは人通りが多すぎる。こ奴を斬ったとなると、騒ぎになるのは
隠「ほー。だが、ここで鬼瓦が斬るのを諦めたら、お前が泡食ってここに来るわけないな」
八「よく分かりますね。ん? さっきご隠居は、『血祭り』とか言いましたよね。もしかして、あの時ご隠居は茶屋の奥にいて、あっしが侍に絡まれるのを見物してたんじゃないですかぃ?」
隠「ああ、実はな……。そんなこと、あるわけなかろう」
八「鬼瓦の奴、往生際の悪い野郎でしてね。大願成就の
隠「ははー。いわゆる折衷案というやつだな」
八「いや。奴らが食ってたのはみたらし
そう言って、あっしの六尺棒を分捕って、行っちまったんでさ」
隠「へー。お前、どこまで悪運が強いのかねぇ。
八「止めて下さいよ。あっしは、生きた心地がしねぇんですから。あっしはいってぇ、どうしたらいいんですかぃ? 侍が言ったとおり、暮れ六つになったら伝法院に行った方がいいんですかね?」
隠「いや、行かんでもいいさ。お前、嫁も貰わないうちに、あの世に行くのは嫌だろ?」
八「でもねぇ、いつ鬼瓦に出会うかと、びくびくして暮らすのも嫌ですよ。それに、あの六尺棒は、大事な商売道具なんだ」
隠「六尺棒なんぞ、また買えばいいさね」
八「いや。あの棒は、すごく具合がいいんです。
隠「ほー。そこまで言うなら、お前、六尺棒の身代わりになればいいさ。棒はあたしが引き取って、お前の墓におっ立ててやるよ」
八「ダメですよ。あっしがいなくなったら、六尺棒が泣いちまいますから」
隠「しょうがないな。ならば、あたしがお前と一緒に行ってやろうか?」
八「え! 本当ですかぃ! こりゃぁ、ありがてぇ。一緒に斬られりゃぁ、あの世でも寂しくねぇですからね」
隠「馬鹿を言うな。あたしは斬られないよ。し残したこともたくさんあるし、だいいち、
八「だったら、お婆さんも、ご一緒にいかがでしょう? なんでしたら、あっしが負ぶって差し上げますよ」
隠「なんで婆さんが行かなきゃならんのかね。あたしが行ってね、いかにお前がそそっかしい野郎か、よーく話をして、許してもらうのさ。それでも許してもらえず、斬られそうになったら、あたしゃ逃げるよ。この歳でも、足には自信があるんだ」
八「いや。あっしが
隠「ん? 何だそれ……。それを言うなら、
こうして隠居と八五郎は暮れ六つに、例の茶店の前に立っておりました。
そこへ、背は低いが顔が大きいのと、背は高いが顔が細くてひょろ長いのと、二人連れの侍がやってまいりました。
これを見た隠居と八五郎は、その場に土下座しました。そして、隠居が話します。
隠「私は、この八五郎と同じ町内に住む、
吉田「おー。てっきり来ぬかと思うたが、来たな。潔い点は、褒めてつかわすぞ。だがな、そんなに這いつくばっていては、首が斬れぬではないか。両名とも、立ち上がれ」
隠「は、はい。八、ぼさっとしていないで、お前も謝れ」
八「ま、誠に、も、申し訳ない事で……、ござんした」
吉「うむ。この六尺棒は、お前に返すぞ」
八「へぇ。あり、ありがたい事で……、ござんす」
吉「実はな、あれからちょっとした果し合いがあったのだ。見事相手を討ち果たしたが、危ないところじゃった。なにしろ、俺の刀は、手入れを怠っていた報いで、まるで切れぬのだ」
隠「それは、おめでとうございます。えー、それで、お侍様。八はどうなりますんで?」
吉「その棒に免じて、許す」
隠「本当でございますか!」
吉「刀の代わりに、その棒で戦ったのだ。
《おわり》
【創作落語】布売り(きれうり) あそうぎ零(阿僧祇 零) @asougi_0
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