危機一髪

来冬 邦子

総武線各駅停車の罠

 週五日パートに出ていた頃でした。


 10時から16時までの勤務を終えて、総武線各駅停車で家路につきました。

 乗った車両は席がすべて埋まり、吊革につかまる人で混んでいました。わたしは乗車口のドア付近で吊革を確保して立っていたのですが、わたしの足元には、ドアに背をもたせかけ床にニッカズボンの尻をつけて坐りこんでいる若い衆がいました。頭にはタオルを巻いています。ときどき三白眼の眉間に皺を寄せて、辺りを睨んで威嚇しています。


 バカだね、この子は、とわたしは思いました。配偶者控除ギリギリで働いて家計を支えているパート主婦に恐いものなんかありません。次の駅は、あんたの寄りかかってる、その扉が開くっていうのに。教えてあげようかな。でもヤンキーみたいだし(ヤンキーってなんだか知らないけど)お節介なオバサンだと笑われてお終いかも。そしたら恥ずかしいな。


 列車のスピードが緩やかに落ちました。「次は――。――方面のお客様はお乗り換えです」車内アナウンスが聞こえます。車内が降りようとするお客でざわつきだしました。目の前の若い衆はというと、背後のドアに背を預けたままスマホをいじっています。列車のスピードが、も一つガクンと落ちて乗客たちが揺れました。若者はというと立ち上げる気配がまったくありません。


(あ~もう! マジでバカ者なんだから!)


 わたしは我慢できなくなって、若い衆と目を合わせて言いました。


「次の駅は、そのドアが開きますよ!」


「へ?」


(へ、じゃないだろうよ、バカ者)


 一瞬目を丸くしたバカ者が、慌てて泳ぎ出すマーメイドのような格好で立ち上がるのと同時に列車はホームに着き、危機一髪、乗車口のドアが開きました。

 降りる人の波に飲まれて若者も流れ出してゆきます。なんだ。降りる駅だったのか。

 (また、やっちゃった。オバサンの余計な御世話)


 わたしが反省していると、ホームに鳴り響くベルに負けじと叫ぶ声が聞こえます。


「アリアトアシタ!」


 あの若い衆がホームから手を振っています。階段を降りようとする人の波に逆らって立ちはだかり、頭のタオルをつかんでブンブン振っています。


「アリアトアシタ!」


 ……ありがとうございました、かな?

 とても恥ずかしかったのですが、わたしも小さく手を振り返しました。

 ドアが閉まって、ガクンと列車が動き出しました。


 気をつけてね。あなたが元気でいてくれるだけで母ちゃんは頑張れるんだから。

 

                     <了>

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