襲いくる
丸山 令
信号は、赤
急いでくれ……。
はやく……早く!
私は、イライラとハンドルを指で叩く。
店を出た直後から、そんな予感はしていた。
あの時気づいて対処していたら、こんな危機的状況に陥ることもなかったのに……。
襲いくる焦燥感。
唇を噛み締めるものの、何の気休めにもならない。
じわりと額に汗が浮かぶ。
まだかぁっ。
よりにもよって、ここら辺に一箇所しかない、歩車分離式の交差点。
横断歩道を渡る人々には何の恨みもないが、今だけは恨めしい。
はやく。速く!
パッと信号が青に変わる。
しかしながら、今日に限って目の前には、渡りきれなかった老婦人。
気を、落ち着けろぉぉっ!
あと少し、あとちょっとぉ。
この交差点を抜ければ、農道に入る。
信号が少なければ、速やかに目的の場所へ辿り着けるはず。
何とか渡り切ったご婦人が、こちらに向かってお辞儀している。
それに、ギリギリ作り笑いで会釈を返し、心とは裏腹に、私はふんわりとアクセルを踏んだ。
大丈夫。
まだ、取り繕える程度の余裕はある。
この農道は、制限速度六十キロだし、順当に行けば、あと十五分ほどで……。
アクセルが小気味の良い音を立てる、
よし、次の信号は青。
都市部へ向かう対向車線は混雑しているが、こちら側の通りは流れている。
これなら何とか……。
僅かばかり気が緩んだ矢先、新たなる問題が発生した。
こちらも混み始めた?
前を走行している車が、一台、また一台と減速していく。
事故でもあっただろうか。それはマズイ。
川に沿って走る農道ゆえに、橋まで行かねば迂回ルートもとれない。
引き返すべきか……。
否。
橋までは、約二キロほど。
対向車線は混雑しているし、幸いこちらは、ゆっくりではあるが、流れている。
ここは、騙し騙し進んでみよう。
しかし……こう言った時に、足で操作しなければならない車は、難儀だ。
……いや、案外そうでもないか。
なす術もなく、密室に閉じ込められているよりは、幾分マシだろう。
運転していれば、多少なりとも気はまぎれる。
焦る気持ちとは裏腹に、車はゆっくり進んでいく。
それにしても、この停滞した状態は何だ。
先ほどから、時速三十キロ以下でのろのろと……!
イライラと舌打ちをした時、緩やかにのぼり上がる道の先に、原因を見つけた。
「トラクター……だと……」
失着。
折しも農繁期である。
普段の私ならば、この程度のことは予測できたはず。
多少遠回りでも、山沿いの別ルートを抜ける方法もあったというのに、愚かなぁっ!
憤って、奥歯を噛み締める。
対向車線が詰まっているため、追い越すこともできない。
結局、分岐点、橋までそのまま引きずられるハメとなる。
それにしても、まずいことになった。
こちらの道は農道ではないから、信号がある。その上……。
危惧していたことは、その直後に起きた。
「く、こ、このぉっ。普段は、一時間に一、二本しか通らないくせにぃっ!」
目の前で降りていく遮断機に、絶望的な気分になった。
血の気は引いていくし、力を入れ続けていた足は震えている。
そう言えば、ここの遮断機、電車が駅に止まっている間中、下がりっぱなしだっけ。
これまでに無かった絶望が私を襲う。
限界まで追い詰められた気持ちが、ぷつりと途切れた。
これは……万事休すぅ……。
その時、一筋の光明が差した。
駅利用者へ向けた看板が、目に飛び込んできたのである。
私は、瞬時にバックミラーを見た。
振り返って確認もする。
幸いにも後続車はいない。
ギアをバックに入れて、急ぎ数メートル下がり、ブレーキと同時にドライブへ。
よし。歩行者はいない。
すぐさまハンドルを左にきり、数秒後に右。
駅の駐車場の看板に描かれたゆるキャラは、まるで女神のように微笑みかけている。
『一時間以上の停車はお断りします』
任せておけ。
ミッション成功まで、そう時間はかからないとも。
私は矢印が示していた、駅併設のレストルームへ飛び込んだ。
◆
「いやぁ。も、ほんと、危機一髪だったわぁ」
私は、ハンカチで手を拭いながら、無事愛車に帰還した。
教訓。
胃弱な人は、冷たいものの大量摂取は控えた方が良い。
またトロ、サシの入った牛肉、外食の油なども、注意が必要。
その翌週から、突然くる腹痛下痢に備えて、私はダッシュボードに、薬を常備するようになった。
襲いくる 丸山 令 @Raym
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