レッサーパンダ

倉沢トモエ

レッサーパンダ

「あれは、俺がまだ」


 店長の話がこの言葉から切り出されたとき、俺たちは全員眉にツバをつける。


「紅顔の美少年だったころの話だ」


 そんな時代があったとして、いつだよ、と、俺たちは突っ込みたい気持ちを抑えて、


「はあ」


 と、返事だけする。

 手は、グラスやシルバーを拭いたり磨いたり、開店準備で忙しい。今日は大晦日。夕方六時からカウントダウン目当ての客を入れ、早朝まで開けるのだから。

 古い居酒屋をリノベーションした、ワインバー。洋食も出すので親子連れも来られる。

 厚みのあるカウンターに年季が入っていて、これは居酒屋の時からのものだって話だ。


「モテたんだよ」

「はあ」

「隣の席の女子と、出かけたんだよ。左目の下に泣きぼくろがあるんだよ」

「どこへスか」

「動物園だよ」

「いくつの時スか」

「小学二年生だな」


 かわいいじゃねえか。


「小二で、将来の約束スか?」

「そこまで言ってない」


 話を飛躍させる悪癖がある山下は、これでも家には奥さんと二歳のお嬢ちゃんがいる。


「なんだ」


 配達が来たので、そのまま裏口へ行ってしまった。


「レッサーパンダのシール、入場券売り場でくれたんだよ、チケット売りのおばちゃんが」

「はあ」


 気づいたけど、返事してるの俺だけじゃねえか。大野も井坂もみんなどこ行った。


「俺はドキドキして、動物園をどう回ったのかよく覚えていない」

「はあ」

「帰りに、おふくろが家でジュース飲んでいきなさい、って言ってたから、家に誘った」

「はあ」

「うちは居酒屋でな。開店前で掃除も済んできれいだったから、店のテーブルでオレンジジュースを飲んだ」


 そしたら、彼女が言うんだな。


『シール、どこに貼ろうかなあ』


「俺、よく冷蔵庫に直貼りして怒られましたけどね」


 いきなり戻ってきた山下が伝票をファイルに綴じながら割り込んできた。


「俺も俺も」


 俺もそうだった。家のどこかに貼りたい誘惑に勝てない子供だった。

 すると店長、


「俺もその時、そういう誘惑が頭をよぎったんだよ。

 それで彼女に言ったのさ。

『俺、ここに貼る』」


 おふくろさんの目を盗んで、店のカウンターの、お客からは見えないすみっこに貼って逃げてきたそうだ。

 なんでだよ。


「彼女には受けたねえ。『ダメじゃない』とか言って笑ってさ」


 そうなると、調子に乗るのが男児だよな。


「おふくろが二階の掃除を済ませて戻ってきて、『ジュースまだ飲む?』とか言うのに、俺と彼女、シールがまだばれない、まだばれない、って、それがおかしくてくすくす笑ってさあ、楽しかったなあ」


   ◆


「いらっしゃいませ」


 夜六時開店。今年もありがとうございました。


「あ、お疲れ様です」


 店長の奥さんが応援に来てくれた。


「今年もみなさん、ありがとうねえ」


 そういえば奥さん、泣きぼくろあるな。


「ほら」


 山下が俺をつついて、カウンターの隅を指す。

 大人はかがまないと見えない、テーブル板裏のすぐ下、継ぎ目あたりの死角だ。


「あ」


 古びたレッサーパンダのシールが二枚貼ってある。

 逆立ちしてるやつと、丸まってるやつ。


「店長の実家って、この店?」


 山下はうなずく。


「知らなかったなあ」

「こんばんは」


 大野の高校生の弟と、井坂の彼女さんが来た。

 そのあと、すぐに帰ります、と言って山下の奥さんが眠っているリコちゃんを抱いて挨拶に来た。


「俺だけか。身内もない独り身は」

「まあまあ、」

「どうもねー」


 商店街の会長さんも様子を見に来て、店もにぎやかになってきた。

 さて、このまま忙しく年を越しますか。

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レッサーパンダ 倉沢トモエ @kisaragi_01

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