いつかの笑顔

鷹野ツミ

いつかの笑顔

 目が覚めてしまった。

 嗅ぎなれない消毒の匂いと薄暗い天井を見て、ここが病院だと分かる。

 俺はどうやら死ねなかったらしい。結構高い所から落ちたはずなんだけどな。死んで逃げるなんてことが許されなかったのだろう。

 体を動かそうとするとあちこち痛いような気がした。


「あ、起きた」

 横から聞き覚えのある声がして、背筋が冷たくなった。飛び起きれば、間違いなく知っている顔がそこにあった。

「怪我、大したことなくてよかったね。心配したよ」

 向けられた顔があいつにそっくりで、俺は死にたくて堪らなくなる。

「……あの、なぎくんがなんで、ここに」

「んーと、君が連絡もくれないなんて変だなーって家に行ったんだよ。そしたらお父さんが出てきてさ、息子がベランダから飛び降りてしまった、って言われたんだ」

 パイプ椅子の上、組んだ脚を組みかえつつ凪くんは言葉を続けた。

「あとね土下座されちゃった。もう息子に近付かないで下さい、って。お金なら払いますって」

 父さんが土下座?俺のために?馬鹿だなあ。俺が稼いだ金全部凪くんに渡していること気付いてたのか。だから実家での生活費にも文句を言わなかったのか。俺はいい歳して親に守られているのか。

 俺の頭を撫でる凪くんの手は優しくて、そんな優しさが怖くて目を合わせられない。

「僕たち、お金で繋がってる関係じゃないのにね」

 凪くんはそう言って立ち上がり、コートを羽織った。長い黒髪をなびかせて病室を出る姿を目で追う。髪が伸びたせいで後ろ姿もあいつにそっくりだった。


 窓の外はまだ明るい。良い天気だ。冬晴れだ。飛び降りてからあまり時間が経っていないことが分かる。


 再びベッドに寝転がり、薄暗い天井を見つめる。

 目を瞑れば、いつかの体育館のステージが浮かんだ。

 歌う後ろ姿、揺れる長い黒髪、振り向きざまの笑顔、その顔はライブ中の興奮でピッチがズレた時の照れ隠しだと知っている。ドラムの俺だけが知っている景色だ。爽やかな青い夏、あいつのことが好きだなと思った瞬間だった。

 季節はあっという間にすぎて冷たく白い冬が訪れた。二人でスタジオ行かない?なんて誘いはデートに誘われた気分だった。二人きりだって思うと春のような妄想が膨らんだ。

 オレさあ、花音ちゃんとやっちゃったんだよね──

 男が二人きりの空間になれば猥談になるのは必然で、でもあいつからそんな言葉が出るとは思わず俺は凍りついた。見せられた動画は、あいつの使ったこともなさそうなアコギに花音が跨って擦り付けている姿で、そんなものにはなんの感情も湧かず、途中で音声だけになった真っ暗な画面から聞こえるあいつの息遣いとか甘えた笑い声とか湿っぽい音にはドラムスティックを投げつけるほど取り乱した。俺の青い想いが砕け散るどころかあいつにとっての俺はただのバンドメンバーで、他人とのプレイの話を聞かせられるようなどうでもいい人間だったのだ。

 殴り掛かったのも必然だった。そこら辺に転がしてあったマイクで頭を殴り、顔を殴った。キーンと鳴くマイクがうるさかった。痛そうに顔を歪ませるあいつの長い黒髪を引っ張り、顔を上にあげさせた。歪んでも綺麗な顔なんだなと思いながら鼻や口の端から滲み出た血を舐め取り、口内に舌を押し込めた。やめろと言う声は震えていて、それが堪らなくて、抵抗する体を押さえ付けようと馬乗りになった。あいつの乱れた髪がばさりと広がった。冷たい視線が痛くてまた殴った。ああ、俺にはもう笑顔を向けてはくれないんだな。首に手をかけたら苦しそうな顔をしたが綺麗だった。あいつは動かなくなった。そのまま拒絶された行為に及んでもあいつは動かなかった。なあ、急に黙るなって、殴ってごめん。痛かったか?なあ、ごめん。ごめんって、聞いてるのか?

 ──なにしてるの?声がしてハッとした。凪くんがドア付近で呆然と立ち尽くしていて、スタジオの退出時間を知らせるランプが静かに点滅していた。


 目を開ければ薄暗い天井が見えた。

「あ、起きた。随分うなされてたね」

 その声に飛び起きればパイプ椅子に凪くんが座っていた。血の気が引いた。

「弟のお墓参り行ってきたよ。君と一緒に行きたかったのになあ。今日が命日だって覚えてるよね?」

「あ、お、覚えてる、あの、あの、ほんとに、ごめん、ごめんなさい、病院出たら、ちゃんと、金渡すから」

 俺の声は震えていて滑稽でしかない。

「えーなにーどうしたの?もう謝らなくていいって言ったじゃん。なんか僕が脅してるみたいだね。お金はありがたく貰うよ。償いの形だもんね」

 凪くんは優しく続ける。

「来年は一緒にお墓参り行こうね。あ、たまには君のドラム叩く姿も見たいな。僕が歌ってあげる。もちろん弟より下手だけどね」

 凪くんは嬉しそうに愉しそうに笑った。来年という言葉に目眩がする。もう会いたくない。考えたくない。それなのに無視できないのは、俺に罪悪感があるからで、もうどうしようもないことなのだ。

 あの日、スタジオの店員だった凪くんが俺の罪を全部庇ってくれて、その時は助かったと安堵したのを覚えている。そんな凪くんのこともあいつのことも忘れようとした俺が悪かった。普通に暮らそうとした俺が悪かった。凪くんが来る度にいつか俺の罪をばらされるんじゃないかと毎年毎年あいつの命日が来るのが怖くて怖くて怖くて嫌で嫌で嫌で、気付いたら俺は飛び降りることを選んでいた。


「死にたい……」

 堪えていた言葉が口から零れた。

「そんなこと言わないで。僕がそばにいるよ」

 凪くんの笑顔は、いつかの体育館のステージで見たあいつの笑顔そのもので、俺は不覚にも好きだなと思ってしまった。

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