アンチノミー:再び動きだす人生をあなたと

からした火南

アンチノミー:再び動きだす人生をあなたと

 大丈夫、きっと良くなる

 私の人生は、再びここから始まるんだ。

 翻弄されてばかりの三年間に、ようやく終止符を打ったのだから。


 いまだ痛みの治まらない左頬に触れてみる。熱くなった肌をそっと指先でなぞる。やっぱり腫れている。冷やさなきゃ、そう思ったけど、冷凍庫にはもう氷は残っていないはずだ。それに何よりも、疲れ切った体が億劫がって動こうとしなかった。


 もう一ミリだって動きたくない、崩れるようにして床に寝そべった。電気くらい点けようかと、窓から差し込む頼りない月明かりを見つめて思った。でもやっぱり、体が動くことを拒絶した。

 うつ伏せになって、冷え切ったフローリングの床に左頬を当ててみる。ひんやりとして気持ちが良かったけど、腫れた頬に痛みをおぼえて天井を向いた。不意に喉の奥へと、鼻血が流れ落ちる。むせそうになり体を起こすと、口の中に鉄錆の匂いが広がった。

 座っていると鼻血が口元を汚すから、再び床で仰向けになった。じわりと喉に流れ込んでくる鼻血を飲み込み続けた。薄明かりに照らされた着衣が、赤黒く血に汚れている。口元や手だって血塗れだ。せめて手と顔の血だけでも洗い流そうかと思ったけど、やっぱり億劫に感じて溜息を吐いてやり過ごした。


 目を閉じて、さっきの別れを思い返す。

 ようやくだ。ようやく、決別の言葉を贈ることができた。

「あなたは最低の人だったよ」

 実際に最低なのだ。本当のことなんだから、罪悪感をもつ必要なんてない。勇気を振り絞って教えてあげたのだから、感謝してもらいたいくらいだ。

「捨てゼリフなら、もっと気の利いたこと言ってよ」

 平静をよそおう彼の声は怒りに震えていた。私なんかに最低呼ばわりされたのだ、よっぽど拳を振り上げたかったんじゃないかと思う。最後くらいは格好をつけたかったのだろうか。今日まで散々、殴る蹴るを繰り返してきたのだ。最後だけ取り繕ったところで意味ないのに。

「でも、最高に好きだった……」

 すぐに手を上げる最低の男だったけど、とっても優しい人だった。私だけを見てくれた。彼のことが大好きだった。いや、今だって好きだ。お別れしてなお、そう思っている。いや、お別れしたからこそ、もしかするとそう思っているのかもしれない。


 彼とは、人数合わせに駆り出されたコンパで知り合った。見た目の良さと、やわらかな物腰に一目で好きになった。コンパなんていつだって気乗りしないけど、このときばかりは誘ってくれた同僚に感謝した。

 程なくして私たちは付き合い始めた。交際以前からこまめに送られてくる「いま何してるの?」ってメッセージも、夜中にかかってくる「急に声が聞きたくなったから」って電話も、恋の始まり特有の蜜月だと思っていた。時が経てば互いに興味が薄れて、落ち着いた関係になるんじゃないかと思った。

 けれども違った。そうはならなかった。付き合いが深くなるにつれ、彼の執着は次第に増していった。けれども私にとっては、彼の束縛が心地よかった。私に執着してくれることが嬉しかったし、独占したいと思ってくれてることに喜びを感じた。


 いつの頃からか、彼が苛立ちを抱えることが増えた。

 彼の機嫌を損ねないように気づかうことは、何ら苦ではなかった。ただ、殴られたり蹴られたりするのは嫌だった。痛いのも苦しいのも好きじゃないし、服で隠せない場所が腫れたり痣になると会社での言い訳に困った。会社では、しょっちゅう転んでるドジっ子だというレッテルが貼られてしまった。

 私を殴った後、私の胸に顔をうずめて「嫌いにならないで」と泣きじゃくる彼が好きだった。暴力という形でしか愛情を伝えられない不器用な彼のことを、愛おしいと思った。私がついていてあげないと駄目なのだ。必要とされていることが嬉しかったし、自分のことを彼の半身のように感じていた。


 いつも怪我ばかりしている私を心配して、友人が話を聞いてくれた。親しい女友達だったから、変に誤魔化さず彼に殴られた怪我だと告白した。

 友人からは、すぐに彼と別れろと強く忠告された。口汚く彼のことを罵るものだから、とても嫌な気持ちになった。彼を悪く言われて気分を害するのだから、やっぱり私は彼のことを大切に思ってるんだと改めて感じた。その後、友人とは疎遠になってしまった。口を開けば彼と別れろなんて言うものだから、私が彼女を避けるようになった。

 友人からの着信を無視し続けて一ヶ月ほどが経った頃、彼女は勤務先から退勤する私を待ち構えていた。そして強引に、私を地域の相談センターへと連れて行った。渋々受けたカウンセリングだったけど、その後も継続したのはカウンセラーの一言に疑問を感じたからだ。


 私が彼に依存している、カウンセラーはそう言った。

 逆じゃないだろうか。彼が私に依存しているのだ、その頃の私はそう思っていた。いやむしろ、依存させてあげているとまで思っていた気がする。それなのに私が依存しているというのはどういうことなのか、この疑問がカウンセリングを継続させた。

 今になってみれば、当然のように解る。無条件に私を必要としてくれる彼に、私は依存していたのだ。どんなに酷い目に遭おうが、私なんかを必要としてくれる彼から離れられる訳がなかった。

 もちろん依存しているのは彼も同じだった。共依存という言葉はもちろん知っていたけれど、あの頃は自分たちがそんな状態に在るということが理解できなかった。カウンセラーから客観的に指摘され、少しづつ状況の咀嚼を重ね、ようやく理解が追いついた。

 しかし、カウンセリングを受けたことが、良かったのかどうかは判らない。殴られこそすれ幸せだった私たちの関係に影が差したのは、カウンセリングが切っ掛けだったのだから……。


 大丈夫、きっと良くなる

 私の人生は、再びここから始まるんだ。

 翻弄されてばかりの三年間に、ようやく終止符を打ったのだから。


 口の周りを汚している血が乾き、頬が引きつれている。不快に思い指先でこすると、乾いた血液の一部が砕けて剥がれ落ちた。けれども頬の引き連れは取れなかった。

 一度気になってしまうと、不快感は耐え難く膨らんでいった。覚悟を決めて、動きたくないと悲鳴を上げる体を引きずり洗面所へと向かった。

 鏡の中の自分を覗き込む。左頬が腫れて輪郭が歪んでいた。しかしそれ以上に、泣き腫らした瞼が痛々しく映った。お別れすることが、こんなにも辛いことだなんて思わなかった。もちろん想像はしていたし、覚悟だってしていた。けれども私の想像を、はるかに越えていた。涙が枯れるほど泣いたはずなのに、別れのことを思うと再び涙があふれ出してきた。

 指先がしびれるほどの冷たい水で、泣きながら顔を洗った。手や顔から洗い流された赤黒い血液が、排水口へと飲み込まれていった。柔らかなタオルで顔を拭くと、少しだけ気分が晴れたように感じた。


 暴力を振るうパートナーとは距離を置いた方が良いという、至極真っ当なことを理解できるようになったのは、カウンセリングのおかげだ。

 けれども頭で離れたほうが良いと理解するにつれ、彼と離れたくないという気持ちはどんどん大きくなってしまった。

 試しに一週間だけ、彼と距離を置いてみることにした。たったの数日で、耐え難い喪失感を味わった。彼は毎日、逢ってくれとせがんだ。堪えきれず、一週間を待たずして彼を部屋に迎え入れた。彼は泣きながら、私を殴った。


 こんな甘やかな共依存の蜜に、この先もずっと浸かっていたかった。けれどもその果てには、互いの破滅しかないと理解してしまった。

 離れたくない気持ち、離れなければならない気持ち。両方の思いが日増しに膨らんでいった。破滅への道のりを選ぶのか、それとも喪失を受け入れる道を選ぶのか……。

 どちらも選びたくないし、選べるはずがなかった。けれども、選ばないのは消極的に破滅を受け入れることと同義だ。距離を置くべきだと理解する前ならば、それでも良かった。彼と一緒ならば、辿り着く先がどこでも良いと思っていた。

 でも、他の選択が在ることを知ってしまったのだ。どちらかを選ぶべきだと、強迫観念にも似た不安が、繰り返し襲ってきた。どちらも選びたくないと思う日々を、大きな不安に迫られながら過ごした。


 限界だ、そう思った。

 私はついに、彼とお別れすることを決めた。


 当然、彼は別れを拒んだ。

 別れを切り出した直後に、頬を殴られた。おかげで血塗れの別れ話になってしまった。言葉は尽くした。落ち着きを取り戻して、彼も話を聞いてくれた。納得はしてくれなかったと思う。けれども、きちんとお別れを済ませることができた。


 真っ暗なバスルームを覗き込む。

 冷たい闇にたたずむ彼に、再びお別れを告げた。


 大丈夫、きっと良くなる

 私の人生は、再びここから始まるんだ。

 翻弄されてばかりの三年間に、ようやく終止符を打ったのだから。


(了)

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