水青の話

白瀬るか


 僕の友人に、Oという男がいる。

 この男は生物学者で、民俗学者の僕とは畑が違うが気が合って──主に奇談、怪談の類を好む辺りが──時どき互いの家を行き来し、酒盃を酌み交わしたりしている。

 これも、そんな折に彼から聞いた話である。


 何年前のことになるだろうか、うちに書生がひとりいてね、これがなかなか気の利く男で重宝していたんだ。

 秋も終わろうというある日、私はこの書生に蔵の掃除を頼んだ。真面目な男だったからすぐに掃除を終わらせると、小さな木箱をひとつ持って私のところにやってきた。 

 彼が手にしていたのは、淡い翡翠色の翅を持つ蛾の、古びた標本だった。

 何十年も前に作られた割には状態がいいという他は、特段珍しい種の標本でもなかったし、蔵掃除の駄賃としてくれてやったさ。ああ、今となっては彼に渡すべきではなかったと思っているよ。

 それからだっだ、彼の様子がおかしくなったのは。快活で機敏だった男が、上の空になることが多くなり、部屋に引きこもりがちになってしまった。

 病でも得たのかとこっそり部屋を覗くと、例の標本をじっ、と見つめて微動だにしない。

 これは病は病でも、精神の病ではないかと考え、病院に連れていくべきかどうか思案しているうちに冬を迎えた。

 その年の初雪が降った夜のことだった。夜半にふと目を覚ますと、閉じられた障子の向こうから『先生』と書生の呼ぶ声がする。

 布団から身を起こし、『どうした』と声を掛けると、すっと障子が開いた。

『夜分遅くに申し訳ありません。今日は先生にお願いがあって参りました』

 そこには夜中だというのに、きちんと身形を整えた彼が縁側に正座しており、隣にはなぜか白無垢を纏った女性が面を伏せていた。

 白無垢が、夜気のせいかいやに蒼く見える。

 あまりに現実感がない光景に、私はこれを夢だと断じた。そして、どうせ何が起こっても夢だからと気楽に構えて、『なんだね、言ってみなさい』と返した。

『はい。実はこの度、妻を迎えることになり、また彼女の郷に居を構えることになりましたので、お暇を頂きにあがりました』

『それはまた、急な話だね。しかしまあ、君も嫁がいてもおかしくない歳だ。二人で決めたことことならば、私が止める道理はない。ここを離れてもしっかり頑張りなさい』

 現実にこんなことを急に言われたら叱りつけるところだが、夢だと思って簡単に許してしまった。

『ありがとうございます。ほら、水青。君からもお礼を』

 水青、というのが妻となる人の名前らしい。芸者のような名だと思ったが、それ以前にどこかで聞いたような気がした。

 花嫁が静かに面を上げる。が、そこに、人間の顔はなかった。

 輪郭や皮膚だけならば人間そのものだった。しかし、二つの眼球があるべき場所に、昆虫のように大きな複眼がついていた。

 ああ、水青とは蛾の名であったか、などと思い当たった次の瞬間、私は布団の上で目を覚ました。

 外は明るくなっており、どうやらおかしな夢から現実に戻ってきたようだ。

 障子を開けると、初雪で庭が一面うっすらと白くなっている。

 その上に、男女のものと思しき足跡が二組、私の部屋の前から家の外まで続いていた。


「それで、どうなったんだい?」

「君の想像している通り、書生の部屋にいってみると彼はいなかった。身の回りの物は全てそのままだったが、唯一、例の蛾の標本だけが部屋からなくなっていた。手を尽くして探してみたが、とうとう彼に二度と会うことはなかったよ」

「典型的な魔性のものに魅入られた者の話だね」

「この話を怪談として考えるならばな。ただの夢だったかもしれないし、手の込んだ夜逃げだったという可能性もある。──ああ、君にひとつ、訊きたいことがあったんだ」

「何だね、珍しい」

「長い時を経た器物は人を化かすようになるというが、この一件では古い蛾の標本が付喪神にでもなったのか、それとも元の蛾の精霊が現れたのか、一体どちらなのだろうね?」

    

    

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水青の話 白瀬るか @s_ruka

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