まずいたばこ

鷹橋

ほんぺん

「ひとり」

 ワンルームでぼやく。ぼくは今、ほとんど素性を知らない年上の女性の部屋にひとりでいる。ひとりきりで眠るには大きすぎるセミダブルのベッドに仰向けで横たわってスマホを眺めている。スマホにはくだらないメルマガやら、母親からのメールがやかましいくらい目に入った。

「あーあ……」

 このベッドはあの人が誰かのためにこしらえたものだろう。誰かも、誰か。ぼくのためじゃない、かもしれない。不特定の誰かのためのベッドに、ぼくが寝ているのがすごくおかしく思えた。枕なんて二つ並べちゃって……。

 どうしてこの部屋にいるのか? だなんて理由は、ただの親と喧嘩して家出をしたからにすぎない。些細なことだったかもしれない。家を飛び出したあとに途方にくれて真っ暗な夜道を歩いていたところを年上のきれいなお姉さんに拾われたのが一昨日のこと。

 スマホには母親から「はやく帰ってきなさい」「今どこにいるの」なんてメールがポンポンと受信されていた。

「そういうところだぞ」ぼくの口から意図せずに飛んでいった言葉はむなしく響かない。この部屋は狭すぎる。

 うんざりだった。

 握っているスマホを自分のリュックに向けて投げたら、ファスナーが開いてすんなり中に潜った。すこしすっきりした。

 今の時間は二時。明らかな深夜だ。ここはもう二日目になる。一日目はすごかった。なにがって? 割愛しよう。野暮ってもんだ。

 あの人には仕事があるみたいで、レンジだけで完結するご飯と申し訳程度の納豆を置いて十七時頃に出て行った。女性ってものは化粧なり、服装を決めるのに時間を掛けるようだ。朝の七時くらいに戻るとは言っていた。だからぼくはここにいる。ひとりで。

 考えないようにはしていたけど、無理だよ。今頃あの人は何をしているのだろうか? きっとぼくにとっては身の毛もよだつようなことをしているんだろう。昨日はあんなことをされてしまったから。

 ぼくの初めてだったああいう行為と、このちくちくした体のどこかの痛みは一生続くのだろうと思った。ぼくにはこのベッドが居心地悪く感じていた。フローリングの床に降りて体育座りをしてベッドに背中を預けた。無理矢理目をつぶった。もう寝よう。

 まぶたがピクピクする。思わず目を開いた。暗さに目が慣れたせいかまわりがよく見える。

 昨日の夜はあの人がいてくれたから何も気にならなかったけど、天井のしみもピンクを基調とした部屋でさえも不気味に感じた。僕は枕元をごそごそとまさぐってリモコンを見つけて、真ん中のいちばん大きなボタンを押した。瞬間明るくなり、まわりのピンクのものたちがまぶしかった。

「何かするか」

 立ち上がって意気込んだ。顔を両手でたたいた。眠気がまったくなくなった気さえした。よし、いける。

 どうせならこの部屋をきれいにしよう。あの天井のしみはたばこの煙のせいだ。あの人はたばこを吸わない。あの人はあまりこの部屋に居ない。鬱憤を晴らすために他の男のせいで汚れたこの部屋を掃除することにしよう。もちろんこの部屋の雑巾のありかなんて知るわけがない。あるかどうかもわからない。どうしようかと悩んでいるとジーンズの後ろポケットが膨らんでいることに気がついた。親が何かの記念に買ってくれた大きめのハンカチだった。これで代用して拭こう。洗面所に持っていって濡らしてから、軽く絞る。

 悪いことをしているようでドキドキと心臓が高鳴った。もしかしたらあの人も喜んでくれるかも。淡い期待もした。

 机、天井、ベランダのほうの窓、テーブル、部屋のあちこちを拭いていく。ヤニですぐに真っ黒になって何度も手洗い場でゆすぐ必要があった。親に悪いことをしているようで、いや実際にはそうなのだけど、罪悪感を覚えた。

「なにしてんだろ。これじゃ動物の雄がしてるマーキングと同じじゃん」

 そんな考えが頭をよぎった。振り払うため一心に拭いた。集中しようと努めた。家具を動かしたら怒られるかもしれない。やめておこう。天井の気になっていたしみも、椅子を使えば届く。きれいになった。もう怖くない。

 最後に並んだ枕の奥にある出窓をきれいにするためベッドの上に乗ってカーテンを開けた。

 出窓の縁にたばこが置いてあってライターが寄りかかるようにして並んであった。はっと口を開け放つ。あの人のものじゃない。

 ハンカチを投げ捨てる。そうなんだな。心にもやがかかったような、頭の中でいろんな思いがぐるぐる回転している。そのたばこのフタは開いていて、よく見たら中には一本しかたばこが入っていなくて、あの人のおまじないみたいなものなのかもしれない。

 ぼくはすごく嫌なことを思いついた。

「この最後の一本を吸ってやろう。気分が晴れそうだ」

 好奇心と背徳感で心が躍った。たばこには興味があった。ワルい男といえば女とたばことギャンブルだ。ぼくもそうなるんだ。その中の一つはもう終えた。一つ追加で経験してやる。

 箱から取り出す。ドラマで見た俳優よろしく口にたばこを咥えた。片手にはライターを持ってもう一方の手で囲いを作って火をつけようとした。カチッカチッと音はしたが、なかなか火がついてくれない。何回も火をつけようとした。火がついた。

 思いっきり吸い込む。

「……ゴホゴホゴホ」

 咳き込んだ。むせる。たばこも落としそうになる。いろんなものを吐くかと思ったくらいだった。なんて言うか、まずい。もう一生吸いたくないくらい。つけたばかりのたばこをちょうど落ちていたハンカチに押しつけた。ジュ、だなんて情けない音でこいつはその命を終えた。この部屋が汚れている理由と、ぼくが汚れることすらもできない理由がわかったような気がした。あの人とは相容れないのだろうな。

 ぼくも情けなくなった。とぼとぼと洗面所に向かった。たばことハンカチを持って行ってたばこはゴミ箱に埋葬した。ハンカチはハンドソープをつけてていねいに洗う。なぜだか両親の顔が頭に浮かんだ。

「はは……」

 涙が落ちて、シンクにある水と混じった。わりかしきれいな涙なのかなと勝手に想った。

 あーあ、なにやってるんだろう。こんなのは夜の魔力だ。

 ぼくにはたばこはむりだ。こんなまずいものは。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

まずいたばこ 鷹橋 @whiterlycoris

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ