分類される国

淡青海月

分類される国

 国民は十歳の時に分類される。

 そんな国でぼくらは生まれ育った。


 この国では十歳になると健康診断と称して脳のテストが行われる。知能測定とはまた別のテストなのだが、原理は一部のお偉方以外誰も知らない。無論ぼくも知らない。

 とかく、そのテストによって国民の階級が分けられる。下から順にグレードワンからテンまで。十歳以降は居住地域が階級ごとに分けられ、同じ階級の者としか会えなくなる。

 一般的にグレードの数字がテンに近いほどエリートかつ富裕層。政府も誰も断言はしないが、きっと知能に比例した値なのだろう。


「ねえ、この制度って不思議よね」

 十歳の時、かれこれ五年の付き合いになる幼馴染の彼女がぽつりと零した。グレードに関する非難は厳しく取り締まられているので、ぼくは慎重に問い返す。

「……不思議って?」

「どうして人を分類しているのかな」

 それは多くの国民が一度は疑問に感じることである。

 しかし不思議なことに、この制度によって不利益を被っている人が少ないのだ。声を上げる理由がない。

「……ぼくも不思議だけど、国民の満足度は上がっているからいいんじゃない?」

 それは事実だった。大人は皆、以前よりも過ごしやすくなったと口を揃える。

 会話にさざ波が立たなくなった、自分のレベルに見合った教育が受けられる、エトセトラ、エトセトラ。

 彼女は首を傾げた。

「それが不思議なのよ。よくわからないものに分類されるって気持ちの良いことに思えないはず。なのにどうしてか皆は満足している。それがわたしには理解できない」

 それを早めの思春期だと笑い飛ばすことは簡単だった。ただ世界に反抗したいだけなのだと。でもぼくにはできなかった。

 それでも彼女の言葉は検閲対象に片足を突っ込んでいて、ぼくは話を有耶無耶にするしかなかった。

「……はは、それくらいシステムってことだよ。満足度だって上がっているし」


 だって、システムを非難するとどうなるかわかったものじゃない。こんなところで人生をおしまいにしたくはなかった。

 死人に口なし、結局生き延びている奴が偉いのだ。たとえ騙されていたとしても。


 彼女は腑に落ちないというような顔をした。でもそれ以上何も言わなかった。微妙な空気がぼくらの間を流れ、ぼくは慌てて話題を変える。

「それで、きみはどのグレードだったの?」

 もうぼくらのテストは済んでいて、ちょうど先程結果を渡されたのだ。

「……グレードテン

 彼女はぼくの耳元で囁いた。グレードテンはやはり「ヤバい」という印象を受ける。それこそエリートで富裕層のイメージ。

 だから彼女は囁いたのだろうが、ぼくなら話してもいい、つまり信頼されているような気がして胸にじんと熱いものが広がった。

「すごいじゃないか。ぼくはシックスだったよ」

 中の上くらい。まあ上出来じゃないかな。

 しかし彼女は今度こそ顔をしかめた。視線を落として、「だから嫌だったのよ」

「どうして」

「きみと別々になってしまうから」

 ぼくはどきりとした。今、何と。

 彼女は視線を上げてぼくの瞳を覗き込む。澄んだ真摯な瞳。薄い桃色の唇から言葉が迸る。


「わたしね、きみが好きだったのよ」


 稲妻に打たれたような衝撃。

 しかし彼女はふいと視線を逸らしたかと思うと、それきり背を向けてどこかへと行ってしまった。ふわりと風が彼女に続いて、後には何も残らない。


 その背にぼくも好きだ、と一言声をかければよかった。それだけでよかった。なのに、ぼくは案山子のように動けなくなってしまった。

 それから何年も忸怩たる思いがぼくの胸にわだかまっている。

 

 それが彼女と交わした最後の言葉だった。


 ♢


 あれから十年が経ち、ぼくはすっかりグレードシックスの国民となっていた。


 はっきり言ってこの人生はつまらなかった。


 大人たちが言っていたように、会話にさざ波が立たない。代わりに、議論が全く起こらないのだ。誰もが似たような思考回路や意見を持っていて、共感ばかりが渦を巻く。

 むしろ共感が美徳となっているきらいもある。意見が合わなくても、多数派に賛成する。それが正しいとされていた。けんかや争いは悪で、迎合することが善。

 ああなんともつまらない。もう長いこと人に向けて自分の意見を言った覚えはない。

 ――意識世界以外は。


 意識世界。ぼくが十二歳の時に現れたそれは、階級に関係なく人々の間に普及していった。旧時代から誰もが携帯電話を利用しているように、誰もが意識世界を利用していた。

 

 使い方はとても簡単。旧時代の切手のような透明なシートをこめかみに貼って、そこに手を当てるだけ。

 意識世界とは匿名の世界であり、階級に関わらず誰もが対等に発言できる。とはいえ、議論よりもただ自分の感情を吐露しているだけという人の方が多い。

 だからこそ、そこは地獄でもあった。

 人の目を気にしないから何でも言えてしまうのだ。あな恐ろし。


 意識世界は誰がどの目的で作ったかはわからない。しかし、そこに検閲がかかっていることは察せる。なぜならグレードについての意見が一向に現れないのだ。賛成派も反対派もいない。異様だ。

 

 ――不思議よね。


 不意に幼馴染だった彼女の声が蘇る。あの透き通った声が懐かしい。今頃彼女は何をしているのだろうか。

『グレードって不思議』

 そう意識世界で言葉を残し、ぼくは現実世界に戻る。


「ふぅ……」

 どうせあの発言は削除されるだろうなと思った。でもなんとなく反応が気になった。いつもはこんなことないのに。埒が明かなくなって、ぼくはもう一度こめかみに手を当てた。


 意外にもあの発言は削除されていなかった。ぎりぎり検閲を逃れたということだろうか。代わりにぼく宛てのメッセージが一件来ている。珍しい、誰だろうか。


 ――会えませんか。明日二十二時、グレード六駅前の一番大きな木の下で。


 思わず息を呑んだ。

 そもそも意識世界で誰かに会おうとする人はいない。その匿名性に重きを置いているから。

 ただの変な勧誘なら無視しようと思った。だって待ち合わせが二十二時なんて、明らかに怪しい。


 しかし、何故ぼくがグレードシックスだとわかった?


 それが一番怖かった。ぼくはこの意識世界でほとんど発言したことがない。自分とは違う意見があってもただ見ているだけ。

 だからこのメッセージは恐怖でしかなかった。ただの当てずっぽうで言っているのならいい。この恐怖は杞憂に終わる。しかし、何故ぼくに会いたがる? グレードに関わる発言をしたから?

『わかりました』

 気が付いたらこう返信していた。だって知らないは恐怖だから。これも幼馴染の彼女の言葉だった気がする。

 ――これで人生が終わってしまってもいいか。


 そう思ってしまうほどぼくはこの分類される国に飽きていた。


 ♢


 あれから返信がないまま翌日の二十二時になった。交わしたのはたった二言。しかも現実世界ではなく意識世界。匿名と匿名の会話。あのメッセージを信じる義理はない。


 それでもぼくは駅前の一番大きな木の下に立っていた。会えなければ帰るまでだ。

 まあ変な悪戯だろうなと高を括っていた。律儀に匿名の誰かを待っているぼくもぼくだけれど。

 


「こんにちは、ここは『駅前の一番大きな木の下』?」

 ふと涼やかな声がしてぼくは顔を上げた。「一番大きな木の下」。かなり驚きながらも、普段は使わない単語の羅列にぼくはあのメッセージを送った者だと確信した。


 そこにいたのはきれいな女性だった。白い上質なコートに身を包んだ、艶やかな長い髪の女性。顔立ちも上品で、端的に言って美人だ。

「あの、えっと……」

「『グレードって不思議』」

 ぼくがおどおどしていると彼女は妖艶に微笑んで言った。それはぼくが意識世界で呟いた言葉。

 ぼくは口の中をからからにしながら頷く。あんな不確実な約束で、本当に会えるんだ。

「とりあえずその辺りのお店に入らない?」

 寒くて、と彼女は白い息で手先を温めながら言った。ぼくも寒かったので喫茶店に入ることにした。


 暖かい店内で温かいコーヒーを一口含む。熱い。舌を火傷したかもしれない。しかしようやく冷静さが戻って来た。

「どうしてぼくがグレードシックスだってわかったの?」

 意識世界でグレードに関する発言はしたことがない。

 彼女はさあ、と曖昧な声を出す。

「そもそもわたしが何者なんてどうでもいいの。同じようにわたしもきみについて詮索しない。それでいいかしら」

 まるで匿名の延長線上みたいだった。でもそのくらいが気軽でよかった。ぼくが頷くと、彼女はふわりとわらった。

 その笑顔にどこか既視感を覚えた。既視感なんてあるはずないのに。

「どうしてきみはぼくを呼んだの」

 そうねぇ、と彼女はぼくを探るような目をした。「グレードについてどう思う?」

 その質問はあからさますぎた。こんな喫茶店という公衆の面前で話すような話題ではない。

「えっと……どう、とは」

 困った時は質問返し。何とも卑怯だけれど、大人になったぼくはこういう術を知っているのだ。時の流れは残酷。

「ふふ、不躾にごめんなさい。……じゃあ意識世界についてどう思う?」

 彼女の問いはまるで議論のお題のようだった。否、議論のお題なのだ。目の前のきれいな女性はぼくと議論をしたがっている。こんなこと初めてだ。

「……そうだね、便利だなとは思うよ」

「例えば?」

 彼女の瞳は鋭く輝いていた。それに負けないようにぼくは意見を表する。

「色んな意見を見られるから面白いなと思う。まあぼくは議論に参加しないけれどね。ただ白熱した議論を見て自分の意見を固めるだけ」

 なるほどね、と彼女は頷いた。

「確かに意識世界は意見が錯綜するところ。匿名だから誰もが思うが儘に言葉を発する。わたしも面白いと思うわ」

 誰かが鋭い意見を投げる。それに賛成する者と反対する者で議論が始まる。カリスマ的な人が扇動し、二つの意見でぶつかり合う。いわば争いだった。ただ暴言を吐くだけになっているのは目も当てられないが、この意識世界には確かに存在する。何と言ったって匿名だから。

「……まあ、ぼくも議論に参加した方がいいと思うんだけどね」

「どうして?」

「だって、皆がぼくみたいに傍観者になったら面白くないじゃないか。誰かが意見を投げるからこそ意識世界は活気づくだろう? それに意見は交わして膨らましていくものだし。ただ一人で自分の意見を固めていくだけはつまらない」

 彼女は頷いた。

「そうね。誰も意見を言わない世界はつまらないとは思うわ。この現実世界のように。でも、意識世界のあれは議論じゃないわ。ただ自分の意見を言っているだけ。或いは、自分の意見を貫き通すのに必死になっているだけ」

 まあ、匿名と手軽さが売りだからそれでもいいとは思うんだけれど、と彼女は肩を竦めて言った。

 

 そこでぼくは気が付いた。

「あれ、きみはもしかして意識世界を貼っていないの?」

 今時大半の国民はこめかみに半透明のシートを貼っている。意識世界の媒体。一見しただけではわからないが、近寄ったらコンタクトレンズと同じようにシートが見える。

 しかし、それが彼女の白いこめかみにはなかった。

「ええ、そうよ。普段は使わないわ。週に一度か二度くらい」

 どうりであれから返信がなかったわけだ。

「どうして使わないの? 結構便利だと思うんだけど……」

 それはただの興味本位だった。今時意識世界を使わない若者がいたとは。利用率は九割九分を超える。理由くらい訊いても怒られないだろう。

「あの顔が好きじゃないのよ、ぼんやりとしたどこも見ていないような目つき」


 確かに意識世界に潜っている間はどうしても茫洋とした顔つきになってしまう。どこを見ているのかわからない、心あらずといった表情。意識を飛ばしているのだから仕方がないのだが、傍からみたら異様な光景だ。

 それをよく老人が「恐ろしい」と非難していたっけ。いつしかその非難もなくなったけれど。いつからだろう。


「自分があの顔をすると思ったらぞっとしてしまって」

 そう言って彼女はきれいな顔を歪めた。しかしそれはあっという間に消え去る。元の澄んだ表情に戻って、

「ねえ、この制度って不思議よね」

 好奇を浮かべてぼくの瞳を覗き込んだ。透き通った黒い瞳にぼくが映っている。

 かちり。

 そこでようやくピースが嵌まった。その言葉は。

「もしかして……」

 ぼくのわななく唇を白い指がそっと押さえる。ひんやりとした、冷たい手。

「静かに。……ねぇ、何に驚いているの? きみったら面白い」

 周囲の目を気にしたのか、彼女は言葉でははぐらかしつつも、ちらりと舌を出して見せる。悪戯っぽく笑いながら。

 その細かい仕草はあの時から変わっていなかった。


 そう、目の前にいるのは十歳で生き別れになったはずの幼馴染の彼女だった。


「……きみは、どうして、」

 聞きたいことは幾らでもあった。

 どうしてぼくだとわかったのか。どうやってここに来たのか。どうしてぼくに会おうと思ったのか。どうして、どうして。

 

「わたしはね、ただきみに会いたかっただけなのよ」

 そうやってどこか悲哀の混ざった微笑みを浮かべる彼女。ぼくは言葉を失った。


 おもむろに彼女は鞄から旧時代の携帯録音機のようなものをテーブルの隅に置いた。何の機械だろうか。ぼくの疑問をよそに彼女は赤色のボタンを押した。

「これは周囲にわたしたちの会話が洩れないようにする機械。きみも思う存分話していいのよ」

 やはりグレード十、持っているものがおかしい。そんなおかしな地域で生きている彼女がこう言った。

「この国はおかしいわ」

 彼女の声に反比例して周囲の喧騒がだんだんと遠のいていく錯覚に陥る。否、錯覚ではなくてこの機械の所為かもしれない。

 全てがフェードアウトして、ここだけやけに静か。彼女の声しか聞こえない。


「わたしね、きみと別れてからずっと考えていたの。どうしてこの国が国民を分類するのか。どうして誰も声を上げないのか。どうして誰も疑問にすら思わないのか」


 ぼくは彼女を止めたかった。十歳の時、曖昧に誤魔化したように。

 でもぼくは目の前のうつくしく知性を湛えた女性を止める術なんて持ち合わせていなかった。あの日の埋め合わせをするようにぼくは彼女を見つめる。一言一句聞き漏らさないように。


「知るためにはそれに見合う知性が求められる。だからこの十年必死に勉強したわ。ただこの国の理を知るために。……そしてわたしは知ってしまったの。どうして意識世界にグレードという単語が現れないか」

 周囲にぼくらの会話は聞こえないはずなのに、彼女はぼくの耳元で囁く。

 ――今それを司っているのはわたしなのだから。

 ぼくは唖然として顔を上げる。

 すぐそこで彼女は妖艶に微笑んでいた。


 彼女は事実を述べるが如く淡々と続ける。

「わたしはグレート十に移ってから、主席で学校を卒業したの。妙な話よね、成績が良かっただけで社会的信頼を得られるなんて」

 そこで彼女はミルクティーを一口含んだ。昔から彼女はミルクティーが好きだった。変わってしまった人の変わっていないところを見ると安心するというのは、どうしようもない人間のさがなのかもしれない。


「そしてわたしはできるだけこの国のかなめとなる役職に就いた。この国を知るために。

 でも、すぐには核心には迫れなかった。そりゃあそうよね、卒業したばかりの二十歳そこらの若者を簡単に国の真理に近づかせるはずがない。でなきゃ、もうこのシステムは崩壊しているはずよ」


 あまりにも情報過多。ただの平々凡々としたぼくの口はからからに乾いていた。早く話の続きをききたい。それでも問わずにはいられなかった。

「ちょっと待って」

 彼女は言葉を切ってきょとりとぼくを見遣る。思ったよりもあどけない表情。

 しかしその真っすぐな視線だけでぼくはしどろもどろになってしまう。でもこれだけは問わなければ。

「えっと、その……この話をぼくみたいなグレードシックスの人間が聞いていいの?」

 彼女はそっと目を伏せて静かに首を振った。

「そもそも人にグレードなんてないはずなのよ。もちろん貴賤や上下関係は存在して然るべきだとは思っている。歴史を見るに、この国に社会主義は似合わないのは明白。それに全員が平等というのは幻想でしかない。人は皆違うのだから。

 だけれどね、ただ一つのテストで人の偉さが決められるなんてありえないわ」

  

 ぼくはびっくりしてしまった。それはグレード五以下の国民が言うはずの言葉だろうに。

 否、そう思うことこそ、ぼくが自分以下のグレードを下に見ているという証拠でしかない。

 無意識の偏見。全国民の根底に流れている、グレードに対する凝り固まった先入観。普段現実世界で意見を交わさなくなったからこそ、偏見が侵蝕していたのだ。

「どうして、きみは……」

「ふふ、だってずっと昔言ったでしょう? この制度は不思議だって。それにね、グレードが同じだと話の波長が合いやすいとされてきた。なのにグレードが違うはずのわたしたちは今こうやって会話を楽しめている。じゃあグレードって何?」

 そう言って屈託ない笑みを浮かべる。年相応の表情。なのに、言っている内容は物騒に近い。まさに検閲対象。

 彼女が卓上に置いた、ぼくらの声を掻き消す機械がなければこんな発言は許されないのだ。

 つくづくつまらない世界だ。


 言葉とは裏腹に、彼女はにこにこしたまま続ける。

「それでね、わたしが知ったことっていうのは――検閲の仕組みよ」

「……」

「わたしはあれから検閲機関に就職したの。グレード十にだけ存在する、全ての文書、電子データを検閲する機関。わたしはその中でも意識世界の検閲を担当していたわ」

 あれ、と思った。彼女は意識世界を好んでいなかったのでは。

 ぼくの思惑を察したのか彼女は苦笑した。

「……確かにわたしは意識世界のことがそこまで好きじゃない。でも匿名性にかこつけた意見の坩堝るつぼとなっている点では、心底面白いと思っているのよ。

 わたしの仕事は、意識世界で『グレード』に関する発言を消去すること。片っ端から検索をかけて、見つけ次第消去。まだ機械化できていない仕事の一つね。意外と言葉って含みがあったりするから、難しいのよ」

 おもしろいよね、と彼女は自嘲するようにせせら笑った。

「だってグレードに違和感を持ってそのために勉強してきたのに、グレードに関する意見を削除する仕事なんて。

 でも面白いこともあるのよ。みんな意外とグレード制度について疑問を持っていることがわかる。毎日消しても消しても現れるから」

「……」

 ぼくは何と声を掛けたらいいかわからなくて押し黙ることしかできなかった。だってあまりに世界が違いすぎる。所詮グレード十の国民に踊らされて生きるのかと思ってしまう。

 賢い人間が上に立つという仕組みは遥か昔から当たり前のことだったはずなのに、いざそれを眼前に突き付けられると少しかなしい。 

 ぼくの前に座る彼女が近くて遠い気がする。


「……そんなエリートの仕事だから、きみはぼくの発言がわかったんだ? だからぼくをここに誘った?」

 思ったより冷えた声が出て驚いた。彼女を突き放すつもりなんてなかったのに。


 彼女は哀しそうに目を伏せる。

「匿名の発言が誰かはわたしの権限ではわからないの。嘘くさいかもしれないけれど、これは本当よ。きみに会うまできみだという確証は何もなかったの」

「じゃあ、」

 ――今ここにいるのはぼくじゃなくてよかったのか。

 そう言いかけてぼくは口を噤んだ。なんて幼稚な言葉。なんて被害妄想。

「違うの、聞いて。わたしはね、きみだと思って声をかけたのよ。矛盾しているけれど」

 彼女はぼくの手を握った。ひやりと冷たい手だった。

「どうしてか『グレードって不思議』が、きみの言葉なような気がしたの。不思議よね、こんな匿名の意見が溢れかえっている中で、どうしてかきみの発言だと思ったの。こんなこと滅多にないわ。そうじゃなきゃわたしはここには来ない」

 真摯な瞳にぼくの方がたじろいでしまう。

「弁明しておくけれど、わたしはオカルトとか科学で説明できないことは信じない主義よ。なのに、これを逃したらいけない。そんな気がして」

 ――気が付いたらメッセージを送っていたのよ。

「……」

 彼女の瞳にぽかんとしたぼくの顔が映っている。

「わたしの話を信じなくてもいい。でも、わたしは今きみに会えてよかったと思っている。それだけは信じてほしい」

 ぼんやりとしたままぼくはかくりと頷いた。そして、自分の幼稚さを恥じた。もう二十歳にもなって、何やっているんだろう。


「……きみはすごいや。だからきみに惚れたのかな」

 ぼくは思わずそうぽつりと漏らしてしまった。はっとした時にはもう遅い。

「……今、なんて?」

 嗚呼。十年前のあの日、去り行く彼女に言えなかった言葉を渡す時がやっと来たのかもしれない。

「だから、きみに惚れていたんだって。ぼくは十年前からきみが好きだったよ」


 彼女の唇が静かにわなないた。それから緩やかに弧を描く。

「よかった……」

 その安堵の微笑みに、どうしてもっと早く言わなかったんだろうとぼくは後悔した。でも遅すぎることはない。今から言えばいい。

「きみが好きだよ。ずっと前から。そして、これからも」

 彼女はとても幸せそうに笑った。とても柔らかい笑み。

 それからぼくの耳元で短く囁いた。十年前と同じように。

「ねえ、グレード、壊さない?」

 それは名案だと思った。きっと頭のいい彼女がこう言うのだ、何か策はあるのだろう。


 仮にしくじって死んでしまってもいい。そもそもここに来たのはそこまで大きな未練がなかったからだ。それより、意味の分からないグレードとやらの所為で彼女と生き別れになるのは耐えられなかった。


「うん。きみとならできる気がする。いや、しよう」

「ふふ、きみがいてくれてよかった」


 ♢

 

 そしてあれから一年。

 ぼくらの作戦は成功して、この国から『グレード』は撤廃された。彼女曰く、元からこの制度には限界が来ていたらしい。

 このグレード制度を導入して早百数年、年々国民の脳が萎縮する傾向にあることが確認されていたそうな。現実世界で意見を交流しなくなったことが一因と専門家は述べている。

 それから狂暴化する意識世界での発言。これは現実世界にも徐々に悪影響が出ているらしい。導入して初めの数年は犯罪も減ったらしいが、ここ数十年は増加傾向にあったそうだ。


 暴動が起こる前にグレード制度が撤廃できてよかった。

 これがぼくらの見解である。それが偏った意見なのかはわからない。

 習慣というのは恐ろしく、まだ意見を交流するという文化はない。又、グレードによる偏見、差別もすぐには取り除かれない。

 でもここまでは予想通りだった。歴史を見ると思想に関わる部分はなかなか変えられないのだから。


 しかし、すぐに変えられることもある。

 国民の居住地域、及び関わる人の制約がなくなったのだ。


 聞くと、彼女はあの時全てを捨ててグレードシックスまで来ていたらしい。

 グレード制度崩壊まであと一歩というところで彼女はこう零した。

「もしきみじゃなければ、或いはグレードについて意見を持たない人間だったら……わたしは一人でグレード制度を崩壊させるつもりだったの」

 なんて物騒なことを言うんだと思った。彼女は恐ろしく優秀だけれど、一人でできることには限界がある。こんなグレード制度ごときに彼女が人生を捨てるなんて、何と言うか、勿体無い。

「……気概は素晴らしいけど、きみはもっと自分を大切にしなよ」

「ふふ、きみは心配性ね。でも大丈夫、きみがここまでついてきてくれたから」

 ――ありがとう。

 彼女の決意秘めたる顔は、何よりもうつくしかった。


 そうして、グレード制度はぼくらの手によって見事に崩壊した。


 無論ぼくらだって後先考えずに制度を崩壊させたわけではない。再建に向けてあれやこれや策を練った上での行動。もちろん策を練ったのは彼女だけれど。

 大きな制度がなくなったこの国は、早くも再建が始まっていた。


 ♢


 新たなスタートを切った、『分類される国』。今は何と呼べばいいのだろうか。


 かつてグレードシックスだった場所で、ぼくらは立っていた。あの駅前の喫茶店の前だ。今は色んな階級だった人が利用していて賑わっている。


 不意に、ぼくの隣で幼馴染の彼女はくすくすと笑みを洩らした。

「どうしたの?」

「ふふ、面白いなと思って。グレード制度の崩壊って、わたしがきみを好いているということが始まりだったんだなと」

 確かにそうだ。ぼくらが一緒にいたかったという、ただそれだけで国が変わったのだ。まるで御伽話みたい。ばかみたい。

「ははっ、本当に面白いね。でも一つ訂正がある」

「なあに?」

「ぼくもきみを好いていたということ」 

 でなきゃ、国なんて動かない。

「まあ嬉しい」

 どちらからともなく彼女と抱擁を交わす。ぼくが彼女を愛せるこの世界が愛おしかった。


 

 ♢


 この国はかつて国民をグレードで分類していた。グレードで全てが決まる世界。でも、蓋を開ければ何一つ確かなことなんてなかった。

 でも、それも過去の話。

 

 一つ確かなのは、今、ぼくらは幸せということだ。

 新しい風がぼくらを撫でていった。

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