桜守と冬の出逢い

oxygendes

第1話

 美鞍山は桜の名所として知られています。その昔、都から派遣されてきた国司が無聊をかこつ奥方の慰みにと、奈良の山から苗木を運ばせて美鞍山の山腹に植えさせたのが始まりでした。成長し花を付け始めた桜は、奥方だけでなく配下の官吏や周辺の住民たちの目を楽しませました。

 国司は専任の守り人を置いて桜の木の世話をさせ、種を取り苗木を作って桜の木の数を増やしていきました。国司が代わり、やがて一帯を治めるのが武士集団に、そして大名に変わっても、代々の統治者は桜の保護と植え付けを続けていきました。今では山全体に数百本の桜が生い茂っています。桜の木は花だけではなく、塩漬けした若葉や、染料となる枝など様々の恵みをもたらしていました。


 春になると、薄桃色の花で覆われ、城下町や周辺の邑からの多くの見物客で賑わう岩倉山ですが、厳しい冬の間は雪に覆われ、桜守がただ一人、番小屋に籠ってその世話をすることになるのです。

 それは一年で最も日が短くなる冬至のことでした。見回りに出た桜守の研作は馬の背のような美鞍山の稜線の西側、小高くなったところに立つ桜の木の上で何かがひらひらしているのを見つけました。

 遠目にはどこからか飛んできた破れ凧のように見えました。雪を纏った桜の枝の上で、木枯らしを受けてはためいています。けれども、近づいてみるとそれが竹骨や唐紙の果ての姿では無く、紅藤べにふじ色の着物を着た一人の少女であることが分かりました。少女は桜の木の枝の高い所に腰かけ、物憂げに雪の山野を眺めています。


 研作が木のそばまで歩み寄ると、少女はちらりと彼に目を向けましたが、すぐに視線を遠くへ戻しました。

「よお、いったい何を見ているんだい」

 研作が声をかけると、少女はすっとこうべを巡らせて彼を見ました。

「わたしが見えているの?」

「ああ」

 研作は頷きます。桜の枝は雪に覆われていましたが人ひとりの姿を隠せるようなものではありません。

 少女は傍らの枝に手を添え、半身を乗り出しました。

「だったら……」

 体をするりと滑らせ、ひらひらと幹の周りに身を翻させて下りてきます。すぐに研作の前に立ちました。髪をうなじの辺りで切り揃えた髫髪うないにし、踝までの紅藤色の着物に薄萌葱うすもえぎの帯、素足に紅い花緒の草履を履いています。年の頃は十一か十二ほどに見えました。


 少女はふところから白いふわふわしたものを取り出しました。

「この仔を親のところへ戻したいの」

 それは彼女の手のひらに乗るほどの幼い仔兎でした。首筋に傷があり、血が滲んでいます。

「鷹に首を掴まれ運ばれていたのを助けたの。どうすれば……」

 仔兎を両方の手で包み込むように抱え、研作を見上げます。

「ううむ」

 研作はかがみこんで仔兎を覗きこみました。

「生まれて一か月といったところか。どこで見つけたんだ?」

「このすぐ近くで」

 少女は空を見上げました。まるで鷹が今もそこにいるかのようでした。

「なら、巣穴も近くなんだろうが……」

 研作は周囲を見回します。

「野兎も今の時期は巣穴に籠っていてめったに外に出てこない。あたりのつがいの数も十や二十ではきかない。親を見つけるのは難しいな」

「じゃあ、どうすれば?」

「そうさな……」

 研作は腕組みをし、 一言一言を噛み含めるように話します。

「こいつももうひと月あとなら、自分で雪の下から食べ物を見つけたり、身を隠す穴を掘ったりできるんだろうが、今はまだ……。まあ、山に放ち、神様のおぼし召しにお任せするしかないだろうな」

「嫌です」

 少女は悲鳴のような声を上げました。

「そんな酷いことできません」


「それなら」

 研作はふぅと息をついて、少女を見つめました。

「私はこの山の桜守だ。今は雪で折れた枝が無いか見回りをしている。付いて来るなら、あちこちにある巣穴の場所を教えてやろう。そこで親兎を見つけられるか試してみてはどうだ」

 少女は唇を噛みしめ、頷きました。

「やります。連れてってください」

「じゃあ、行くぞ」


 二人は歩き始めました。研作は筒袖つつそでの刺し子のあわせに山 袴を穿き、羚羊かもしかの毛皮をはおった姿です。雪沓を履き、一丈ほどの樫の棒に足掛かりを打ち付けた一本梯子を右手に抱えています。

 地面は一面に新雪で覆われ、研作が踏みだすたびにきゅっきゅっと音を立てました。少女は雪沓の足跡を踏んで進みます。

 研作はこうべを巡らせ、付いて来る少女の足元を眺めました。

「素足のままで寒くないのか?」

「はい?」

 少女は首を傾げました。

「全然平気ですけど」

「そうか」

 研作は歩きながら尋ねます。

「お前、名前は何と云うんだ?」

「わたしは……」

 少女は口籠りました。

「名前は言えません」

「どうして?」

おきてだから」

 研作は少し考えてから尋ねます。

「誰の定めた掟なんだい?」

「それも言えません」

「そうか」

 研作は歩きながら空を見上げました。

「窮屈なところにいるんだな」

 少女は何も答えませんでした。

「私はこの山に住み、一人で桜守をしている。枝の剪定や下草刈りだけでなく、桜の葉や花弁はなびらの塩漬け、染液や苗木作りなど桜に関わるよろずの仕事もあるから一年中、仕事が尽きることが無い。その代わり、自分の裁量で自由にできるのはいいところだな。ほら、さっそく……」

 二人の少し前に多くの雪が積り、枝がしなった桜の木がありました。


「枝が折れないよう雪を掃う。そこで待っていてくれ」

 研作は桜の木の幹に一本梯子を立てかけました。梯子に打ち付けられた足掛りを伝って上に登り、枝をゆっくりと揺らします。ばさばさと雪が落ちてきました。様子を確かめていたる研作の顔が曇ります。既に折れていた枝があったのです。研作は腰に差していた小刀で枝を根元から落としました。さらに切口の形を真っ直ぐに整え、懐から出した蜜蝋を塗り付けました。

「切口から湿気が入ると木が腐ってしまう。それを防ぐのさ」

 下りてきた研作が説明します。

「では、行くぞ」


 二人は緩やかな斜面が広がる場所に出ました。茂みの上を雪が覆い、背の高い木はあちこちに見える程度です。研作は手をかざして斜面を見渡していましたが、やがて一点を指さします。

「地面が丸く盛り上がり、下にかげができているところがあるだろう。あれが兎の巣穴だ」

「はい」

「入口の近くに仔兎を置く。あれがそいつの巣穴なら、親兎が出てきてそいつを迎え入れるだろう。だが……」

 研作は少女の目を真っ直ぐに見つめました。

「その後で巣穴の周りにお前の足跡が残っていたら、そこが巣穴であることが周りの獣にわかってしまう。巣穴は襲われ、中の生き物は全滅してしまうだろう。さあ、どうする?」

 少女は目をしばたたかせました。研作を、そして周りの情景を見て頷きます。

「それを貸して」

 研作の腰の小刀を指さしました。

「刃先は鋭いぞ。気を付けて使え」

 少女は小刀を受け取ると、そばの茂みの雪を払い、生えていた熊笹を根元から切り取りました。十本ほどをまとめて持ち、巣穴に向かって、雪面を熊笹で掃いながら後ろ向きに進みます。

 巣穴の近くにたどり着くと、懐から仔兎を取り出し、穴の近くにそっと下ろしました。

「ここがお前の家だったらうれしいのだけどね。わかるかな?」

 仔兎は辺りを見回し、鼻を上げてすんすんと匂いを嗅ぎ始めました。少女は少し離れた場所まで下がります。やがて仔兎はピイピイと鳴き始めました。この鳴き声を聞いて、巣穴から親兎が現れるのでないか、少女は穴の様子を窺います。けれども、百数える間待っても穴の入り口には何も現れませんでした。更に百数える間待っても同じでした。仔兎も鳴くのをやめてしまいました。少女は仔兎を抱き上げて懐へ入れ、足跡を消しながら研作の所に戻りました。

「どうやらここでは無かったようだな」

 研作が声をかけても、少女は巣穴の方をじっと見ていました。

「鳴き声や匂いで自分の子供かどうかが分かるんだろうよ。次に行くぞ」

 そして二人は再び歩き始めました。


 研作の見回りは続きました。十数本の桜の雪を掃い、十本ほどの枝の切り口を手当てし、五ヶ所の巣穴を見つけました。五ヶ所のそれぞれで仔兎を置き、反応を見ましたが、巣穴から現れる兎はいませんでした。それでも、少女は親探しをやめようとはしません。懐に手を差し入れ、仔兎の頭を撫でながら研作に付いて行きます。

 やがて、日は西に傾き始めました。研作は少女に声をかけます。

「おい、もう日が落ち始めるぞ。お前はちゃんと自分の家に帰れるのか?」

「家?」

「この山から下りるだけでも一刻ひとときはかかる。山の中で日が暮れたら身動き取れなくなるぞ」

「ご心配には及びません」

 少女は仔兎の体を撫でながら答えます。

「わたしには果たすべき務めがあります。今はこの仔の親を見つける事。それを為すだけです」

 研作は顔をしかめました。

「わからんことを……。そいつの巣穴が見つかればいいんだろうが……」

 二人は更に一つの巣穴を見つけ、調べましたがそこも違いました。そして、


 白い霧が漂い始め、辺りはどんよりと昏く変わりました。

「雪が来るぞ。見回りは中断だ、番小屋に引き上げる」

 研作は空を見上げ、少女に呼びかけます。少女は霧を見通そうとするかのように遠くに目を向けました。

「急ぐぞ」

「でも……」

「雪がやんだら、また手伝ってやる。それでいいだろ」

 少女は研作を見つめます。

「約束、ですよ」

「こっちだ」

 研作が先導し、二人は番小屋に向かいました。


 番小屋は山の中腹の開けた場所にありました。茅葺き屋根の家屋で、背後には薪や伐採された桜の幹が積まれています。小屋の横の場所は小さな畑になっていましたが、そこも雪に埋もれています。

 二人が番小屋に着いた時には、雪は本降りになっていました。木戸を開けて中に入ります。小屋の右側は、奥まで続く土間になっていました。壁際にかまどと洗い場が作られており、その横に水甕が並べてありました。土間の奥にはたくさんの大ぶりの甕と様々な道具が置かれています。小屋の左側は板張りの座敷になっており、中央は囲炉裏になっていました。囲炉裏の周りには毛皮が敷かれ、食器や書き物が置かれています。奥に小さな文机ふづくえが見えました。


「ちょっと待っていてくれ」

 そう言って出て行った研作はすぐに戻ってきました。手に大根を持っています。土に埋めて保存していたものでしょう。全体に黒い土が付いていました。

 研作は大根の葉の半分ほどを捩じって千切り、板張りの上に置きました。

「そいつの食い物だ」

 目顔で少女の抱く仔兎を示します。しなっとした葉っぱでしたが、板張りの上に置かれた仔兎はすんすんと匂いを嗅ぎ、すぐにむしゃぶりつきました。カリカリと音を出して齧っていきます。少女はそれを見つめていました。


 研作は囲炉裏の火おこしに取りかかりました。土間の奥から、藁や小枝、薪を持ってきて囲炉裏の脇に置きます。囲炉裏に残っていた熾火の上に藁をかざし、ゆっくりと息を吹きかけます。熾火が赤く輝き、藁に炎が上がりました。その火を他の藁、そして小枝へと移していきます。小枝を格子状に組み上げ、火が安定したところで、その上にたくさんの深い切れ込みを刻んだ薪を置き、火吹き竹で吹き上げます。そして、炎が燃え上がりました。研作は更にその上に薪を置きます。


「囲炉裏を焚いた。ここで暖まるといい」

 そう言うと、大根を持って土間に向かいました。洗い場で大根の土を落とし、葉っぱはみじん切り、根は薄い銀杏切りにします。大根をざるに入れて囲炉裏に戻り、自在鉤の上に留めてあった丸鍋の雑炊に加え、更に水甕の水を加えて、囲炉裏の火にかけます。

 すぐに雑炊はぷくぷくと煮立ってきました。白い大根が透明に変わり、味噌の香りが広がります。


「飯ができたぞ」

 研作が少女に声をかけます。少女は窓のそばに立ち、板戸を押し上げて外の様子を見ていました。雪は降り続いています。

「食べなければやっていけんぞ。腹に入れておけ」

 少女は空をちらりと見上げ、窓際を離れました。一言も話さずに囲炉裏端に来て毛皮の上に座ります。少女が座ったところで、研作は出ている椀が自分のものだけであることに気付きました。

「ちょっと待っていてくれ」

 研作は土間の奥から椀と箸を持ってきて少女に渡しました。それは研作のものより一回り小ぶりなものでした。


「ありあわせのものだが、腹はふくれるぞ」

 少女の椀に雑炊を盛ります。少女は椀を両手で持ち、研作を眺めました。

「一人で暮らしていると言いませんでしたか?」

「ああ、一人暮らしだ。今はな」

「そう」

 少女は目を伏せます。そして、二人は雑炊を食べました。暖かさがゆっくりと身体に沁み渡ります。


 雪は降り続きました、研作は少女に土間の奥から取り出した猪の毛皮を渡し、仔兎には籠に藁を詰めた寝床を準備し、少女と仔兎は番小屋に泊まることになりました。


 翌朝になっても雪は降り続いていました。研作は少女に手伝わせて、朝食を準備します。米を研いで丸鍋に入れ、水と干した川魚、干し大根、零余子むかこ゜、味噌を加えて囲炉裏にかけました。薪を足して火力を強めます。

「この間に椀を挽いてやろう」

 研作はそう言って少女に右手を出させました。親指と人差し指の間を広げさせ、曲 尺かねじゃくで測ります。

「四寸三分だな」

 研作は小屋の裏から切断された丸太を持って来ました。奥から轆轤を取り出して土間に据え付け、切断丸太を轆轤の回転部の爪に打ち付けます。踏板を踏むと丸太は回転し始めました。力を込めて踏み続け、丸太の回転が早まったところで棒鉋ぼうがんなを押し付けます。キュルキュルと音を立てて鉋屑が跳びだし、丸太は形を変えていきました。


「年を経た桜の木は美しい木目を秘めている。それを引き出していくのさ」

 研作は木肌を見ながら鉋を当てていきます。

 中から、そして外から削って、丸太はお椀の形になりました。一度、轆轤から外して、少女に持たせ、大きさの具合を訊きます。更に轆轤で削って完成しました。

「椀は手の大きさにあったものが使いやすいんだ。これはお前のものだ」

 少女は新しい椀で朝食を食べました。

 その日は雪はやみませんでした。研作は雪の下からよもぎなずななど冬でも青い野草を採ってきて仔兎に与えました。


 その翌日、雪はやみ、青空が広がりました。研作と少女は雪掃いと巣穴探しに回りました。

 二つの巣穴はこれまでのものと同じ反応でした。けれども、三つ目の巣穴では少し違うことが起こりました。仔兎は地面に置かれる前からピイピイと鳴き始めました。そして巣穴に近づいていきます。巣穴の前で止まり鳴き続けます。しばらくすると穴の中で何かが動いているのが見えました。

 それは成獣の兎でした。穴から顔を出して仔兎を眺めます。仔兎は近付こうとしました。すると、兎は歯を剥きだし、フーッと言う威嚇音を出しました。仔兎はその場に留まりピイピイと鳴き続けましたが、兎の行動は変わりませんでした。

 仔兎は後ずさりして巣穴の前から離れました。少女は仔兎を抱き上げ、足跡を消しながら研作の所へ戻ってきました。研作は何も言わずに歩き出し、少女は後に続きました。


 しばらく歩いてから、少女は研作に問いかけました。

「あれは親兎じゃあなかったのかな、この仔にわたしたちの匂いが付いてしまったのでわからなかっただけで」

「そうかもしれんし、そうでないかもしれん」

「わたしのしたことでこの子は帰れなくなったのかしら」

「そうだとしても、そいつのことを考えての行動だったのだろう?」

「ええ」

「なら、後悔することは無い。それにな、兎の巣立ちは早い。親の許にいてもあとひと月と経たずに巣立っていくんだ。ただ、それまでは誰かが面倒を見てやらねばならん」

「うん」

「どうする? 親兎を探し続けるか、それとも自分が面倒を引き受けるか」

少女は唇を噛み、そして研作を見上げました。

「やるよ。でも、そのためにはこの仔を守る家が必要よね」

「前にも言ったが、桜守の仕事はたくさんある。手伝ってくれるなら番小屋に住まわせてやろう。そいつの巣立ちまでの間だけだがな」

「わかった。お願いします」

「そうなったら、名前が無いと不便だな。私は研作と云う。お前は……」

 研作は頭上に広がる桜の枝を見つめました。ずんぐりした冬芽ふゆめがたくさん付いています。

「ここに居る間は、ふゆめと云う名前でどうかな。冬の間も次の季節のための力を蓄えているしっかりものの名前だ」

「ふゆめ、ね。わかりました、そうお呼びください」

 少女は研作を見つめて微笑みました。


 こうして、桜守と少女の冬の美鞍山の暮らしが始まりました。それは自然のもたらす恵みと厳しさの中、人の地道な取り組みを積み重ねていくものになるのでした。




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