やさしい手紙

やさしい手紙

 あなたは、やさしい子ね。


 母は幼い私に繰り返しそう言った。

 おやつを妹に分けてあげた時や、家の手伝いをした時、飼っていた犬の背中を撫でていた時なんかに、慈しみに満ちた表情で声をかけ、私の頭をなでるのだった。母の手のぬくもりを感じて私は安らぎ、自身を誇りに思うのだ。認められ、存在が肯定されるような感覚は私を虜にした。

 

 だから、私は人に優しくあり続けた。小学校にあがり、黒板を消したり花瓶の水を変えたり、そういう細かい仕事を積極的に行なった。鈴木さんって、優しいよね。みんなのために何かをしている背中にかけられる声は私を喜ばせた。大地にうつ伏せになった背中に浴びせられる陽の光のような、甘い熱。そうして中学、高校に上がった。そこで私は教室に弱者と強者がいることを学び、そしてそれをすばやく見分けられるようになった。弱者には積極的に優しくした。


 鈴木さん、ありがとう。


 彼らの言葉は他の人間からかけられるそれよりも心地よく耳に響いた。他に頼るあてのない人の感謝は重く、しっとりと私の心を満たす。大学に進学してから複数のボランティア団体に入った。どこの団体にいても掲げられていた、無償の愛、という言葉は私を魅了した。友人との話の折に活動の話をしたり、SNSのプロフィールの欄にボランティア団体の名前を記入するだけでみんな私をほめてくれた。就職活動でボランティア経験を存分にアピールした結果、都内の中小企業に内定をもらった。どこにいたって私のやることは変わらない。他の人たちが嫌がる仕事も進んで引き受け、あらゆる人を気遣い、愛を与える。私のいる部署の人間はみんな笑顔で言う。鈴木さん、ありがとう。


 お忙しい中おこしいただき、ありがとうございます。

 

 今日十数回目の感謝の言葉を述べ、私は頭を下げた。

 黒い礼服に包まれた自分の姿と地面が目に映る。


 お母様のご急逝、謹んでお悔やみ申し上げます。

 と相手も頭を下げた気配がある。


 周りを見れば、会場はどんよりと重い色に覆われ見上げた空には雲がたちこめていた。慌ただしい空気を拭いきれないまま母の葬儀が始まりつつある。手鏡を取りだしてのっぺりとした自分の顔を見ると目の下にどす黒い隈ができていた。


 お姉ちゃん。


 背中にかけられた声に振り返ると妹が立っている。その隣には彼女の夫もいる。先月の結婚式ではまぶしい笑顔を見せていた二人も今は表情を曇らせている。妹の目の周りは赤くはれていた。色々任せてしまって、ごめんね。と言った妹に笑顔で首を振る。いいのよ。駆けつけるだけでやっとだったでしょう。


 葬儀が進み、棺の蓋が開かれ告別式が始まった。

 供花を手でつまみ、母の前まで歩いていく。

 通夜から今までの疲れのせいか、足がふらつく。座っている人間が何かを誤解し悲しい顔をする気配があるが、私の心は揺れなかった。

 棺の中に花をそっとおき、母の顔を見た。期待していたのに涙は全くでず、ここ数十時間の労苦だけが私の身体を支配していた。母の顔は死化粧のおかげか穏やかに見える。それに苛立ちを感じたことに気づき、諦めに似た絶望を覚える。やはり私はやさしくなんてないのだ。左手に持っている封筒に目をやる。

 

 何年か前に戯れで、棺に入れてほしいものを尋ねたら、母は手紙を書いて入れてほしいと言ったのだ。彼女は私が母の日や誕生日にあげた手紙を大事にとっておいていた。母が亡くなったと聞いて最初に思い出したのはそのことだった。いろいろな手続きや準備の中で、私はどうにか合間を見つけ机に向かった。しかし、真っ白な紙を前に私は結局、何も書くことができなかった。手紙を書いたところで、母が私を褒めてくれるわけでもなければ、書いた文章が誰かの目に留まるわけでもない。母が頭をなでてくれるわけでもなく、誰かにありがとうと言われるわけでもない。それに気づいたら、一文字も書けなかった。


 だからいま私の手にある封筒の中には、ただの白い紙が入っている。一瞬のためらいの後、私は封筒を棺に入れた。隣にいた妹が私の行動を見て、泣いた。彼女はいま白紙を見て泣いている。


 私のやさしさそのものだ、と思った。今までの人生で私が他人に施してきたやさしさはこの封筒の中身と同じだ。いや、この封筒こそが私がやさしさだと思っていたものかもしれない。


 ゆっくりと棺の蓋が閉められていく。


「あなたはやさしい子ね」


 母の声が聴こえた気がして、顔をあげたが、目の前にあるのは閉じられた棺だけだった。

 遺体と一緒に燃やされたものはあの世に持っていけるという。

 母は封筒の中身を見ても、同じことを言ってくれるだろうか。

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やさしい手紙 @R4i

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