浜辺の歌
増田朋美
浜辺の歌
その日も寒い日であった。というか、これが普通なのかもしれない。今までがなんだか暖か過ぎたのである。それだけだと思う。だけど、こういう日には、何故か変な文句が出てしまうものだ。肌荒れが酷いとか、しもやけがひどいとか、人間なんでそんなふうに我儘ばっかり言ってしまうものだろう。
その日、杉ちゃんとジョチさんは、用事があって富士駅近くにあるショッピングモールにでかけたのであるが、そのついでに、新しく事務所を移転した、八重垣麻矢子さんのもとを訪れた。八重垣麻矢子さんとは、ジョチさんが、次の参議院選挙に立候補させようと考えている女性で、有限会社を経営している女性である。ちなみに八重垣麻矢子さんの事務所兼自宅は、以前は吉原駅近くにあったのであるが、今年になって、富士駅近くに移転したのであった。八重垣麻矢子さんの事務所は、やはり自宅を兼ねている施設であったが、本当なら、自宅とオフィスを分けるべきだとジョチさんは言っていた。
とりあえず、二人は、八重垣麻矢子さんの自宅兼事務所の正面玄関のインターフォンを押すと、なんだか変な発音で、
「はいはい。」
という声がしてドアが開いた。そこへやってきたのは、ショートヘアの女性であるが、ちょっとなんだか普通の人とは違うような気がする雰囲気期のある女性である。ジョチさんが、
「あの、八重垣麻矢子さんにお目にかかりたいのですが。」
というと、女性は、にこやかに笑って、わかりましたといった。それを聞きつけて、中年の女性が、
「壽賀子さんどうしたの?なにかあったの?」
と言いながらやってきた。どうやら、名前だけは立派な女性であるようであるが、壽賀子さんという女性は知的障害があるんだなと分かった。中年の女性とは明らかに言葉の発音などが違っていた。
「この人が。」
と、壽賀子さんが言いかけると、
「ああ、この人は、私達の活動援助をしてくれている、理事長さんよ。」
と、中年女性は説明した。もちろん、壽賀子さんにそれがわかるかどうかは別の話だ。中年女性は、壽賀子さんに、挨拶をしなさいと言ったが、
「あんた誰?」
としか反応はできないようなのだ。どっちにしろ、理事長さんだとわかるように説明しても、理解はしてくれないだろう。
「こんにちは八重垣麻矢子さん。こちらは、新しい利用者さんですかね?」
ジョチさんはそう言うと、
「ええ、今井壽賀子さん。先月から家に着ているんですけどね。まだ、慣れていないみたいで、色々問題はあるんですけど、それでも少しずつ慣れてほしいということで、ただいま訓練中です。」
と、八重垣麻矢子さんと言われた女性は言った。
「そうですか。今井壽賀子さん。それではちょっと、八重垣麻矢子さんとお話をしたいのですが、お願いできますか?」
とジョチさんが言った。壽賀子さんは、にこやかに笑って、いいよとだけ言った。杉ちゃんとジョチさんは、八重垣麻矢子さんに連れられて、自宅兼事務所に入らせてもらった。たしかに、一般的な住宅ではあるけれど、できるだけ段差を少なくし、車椅子とか、足が悪い人であっても、入れるようになっている。それはやはり、八重垣麻矢子さんが、配慮しているのだろう。
「それにしても、どうしてこちらに移転したんですか?利用者が増えたんですか?」
ジョチさんは、すぐに八重垣さんに聞いた。
「ええ、利用申込みは増えるんですけど、受け入れてくれる家庭がなかなかなくて。でも私は、諦めませんよ。先程の壽賀子さんにだってできることはあると思ってるの。戦前のイギリスのメイド制度は、いろんな家事に合わせて役割を分担していたんだから。」
八重垣さんはすぐに答えた。彼女の事業は今風に言って見れば家政婦斡旋所である。昔は、メイドと呼ばれる、金持ちの家に雇われる女性が居たものだ。今では家政婦と呼ばれていて、家事全般をこなすようになっているが、先程麻矢子さんが言った、戦前のメイドの制度では、着替えを手伝わせるメイド、料理を手伝わせるメイド、洗濯を手伝っているメイドなど、いろんな「役割分担」があったのだ。だから、それを現代に置き換えて、家事仕事しかできない、精神障害とか知的障害がある人達に、仕事を与える。それが八重垣麻矢子さんの事業だ。もちろんメイドとして仕事ができるようになるためにはある程度訓練が必要でもあるけれど、その訓練を経て、女性たちは家庭内労働者として、仕事を持てるようになるのだ。
「ええ。その事業内容は知っています。それでも、依頼は少ないのですか?」
ジョチさんが、八重垣麻矢子さんに聞くと、
「ええ。まあね。最近は、外部の人が、自宅に入ってくるのを嫌う人も多いから。でも、中には、大事にしてくれる人もいるんですけどね。例えば今井さんは、竹島先生という歌の先生のところに派遣されるのが決まってるの。そうやって依頼はあるんだけど、あとは、長続きすることかしら。」
と、八重垣麻矢子さんは答えた。
「竹島?」
不意に杉ちゃんが言った。
「あのそれはもしかして、竹島美波子さんという女性ではありませんか?」
「ええ、そうだけどなんで?」
八重垣麻矢子さんはそう言うと、
「なぜ、竹島美波子さんが、こちらに依頼したんでしょうね。彼女はとても気位が高くて、お付き合いするのが大変だと言ってましたよ。」
とジョチさんが言った。
「確か、合唱団を持ってる。」
杉ちゃんがそう付け加えると、
「そうなのね。そういうことはどうでもいいわ。私は何よりも、今井壽賀子さんの居場所を提供してあげることができればそれでいいのよ。壽賀子さんが幸せになってくれれば。」
と、八重垣麻矢子さんはそういった。それでは壽賀子さんのことをもうちょっと考慮してあげればいいのではないかと思うのであるが、そこら辺は八重垣麻矢子さんも考える余裕がないのかもしれなかった。
「八重垣さん、大変なんですか?」
とジョチさんは、八重垣麻矢子さんに言った。
「ええ。まあ、そういうことね。実は、そういう噂もあったのよ。八重垣麻矢子は、おかしくなった女性ばかりを集めて、新興宗教のような事をやってるんじゃないかって。」
きっと、そっちのほうが、八重垣麻矢子さんが移転をしなければならない理由だったのかもしれない。八重垣さんは、そんな顔はしていないけれど、そっちのことでかなり頭を悩ませたような気がするのだ。日本は、こういう事業に対しては全く手を差し伸べないというか、断絶したままである。そういう事をしている八重垣麻矢子さんのような人に、もっと援助をしてあげればいいのに。
「そうなんですね。それは大変でしたね。僕らもあなたの事業には協力しますから、なにかあったら、いつでも言ってください。仲間同士ですから。」
ジョチさんがそう言うと、今井壽賀子さんが、歌をいい声で歌いだした。なんだか生まれながらに声楽の基礎を身に着けているようなとてもいい声である。こういう障害のある人は、特定の技能に対して天才的な能力を持っていることがある。だけど、それはだいたい否定されるばかりで、肯定的に受け取ることは、難しい。
「今井壽賀子さんが、竹島先生のもとで幸せに働けるといいですね。竹島美波子先生は、非常に気難しい方ですから。そこを打ち破るにはかなり難しいと思いますけどね。」
ジョチさんは、歌を歌っている今井壽賀子さんを眺めてそういった。ちなみに今井さんが歌っているのは、浜辺の歌であった。単純な歌だけど、すごくいい歌のように感じられるのは、彼女の天才性だと思うのだった。
それから、しばらくして、製鉄所で水穂さんの世話をしていた杉ちゃんのもとに、一本の電話がかかってきた。一応電話機は、ナンバーディスプレイになっていて、誰がかけてきたのかわかるようになっていたが、杉ちゃんもジョチさんも知らない番号だった。ジョチさんは受話器を取って、
「はい、どちら様でしょうか?」
と聞いてみると、
「ああ理事長さん、八重垣麻矢子です。実は今井壽賀子さんのことについて相談がありまして。」
となにか悩んでいるような声で、八重垣麻矢子さんの声がした。
「一体どうしたんです?なにかあったんですか?」
ジョチさんは、すぐに聞いてみた。
「ええ、なにか大きな出来事があったわけでもありません。ですが、ちょっと困ったことになりまして。」
八重垣麻矢子さんは、すぐに言う。
「困った事とは何でしょう?」
ジョチさんはそう聞いた。
「はい。実は、今井壽賀子さんを竹島美波子さんのところで雇わせたのですが、それがとんでもないことになってしまったんです。壽賀子さんが、竹島美波子先生のもとで浜辺の歌を歌ったところ、家政婦ではなくて正式に生徒として迎えたいって。」
八重垣麻矢子さんは、そういう事を言った。
「はあ、そうですか。それで生徒として迎えるというのはどういうことですかね。」
ジョチさんがそう言うと、
「今度行われる発表会に出てほしいって。そんな事、今井壽賀子さんにできるわけ無いじゃないですか。彼女は、舞台に立って、人前で歌を歌うなんてそんな事できるはず無いんですよ。だって、ご家族が言ってました。あの子は、いつもとちょっとでも違うことがあると、怖がって泣いてしまうんだって。そういう女性が、人前に出てどうなるかということは、できるわけ無いってどう説明したらいいのかしら。」
八重垣麻矢子さんは心配そうに言った。
「そうかも知れませんね。確かに、知的障害のある方や、精神障害のある方は、特にそうだと思いますよ。それでは断らなければならないかもしれませんね。」
ジョチさんは考え込むように言った。
「そうですよね。私もどうしたらいいものか。そんな大舞台、今井壽賀子さんにこなせるわけ無いですよ。でも、ああいうお偉い方は、断られると言うことを知らないでしょう。なんでも、思い通りにやってしまうのが常だから。特に女性には。だから、どうしたらいいかと思いまして。それで、相談に乗っていただきたく、お電話しました。」
八重垣麻矢子さんはそう言っているのであった。確かに、知的障害というものの、全容を社会が知っているわけではないし、偉い人たちが断られるのを知らないことも、また事実である。偉い人の誘いを断ると大きな報復が待っている、というのもまた事実であって、非常に難しいことであった。
「そうですか。でも麻矢子さん、断らなければならないでしょう。知的障害のある人に、大舞台はこなせるわけが無いんですよ。それなら、荒療治というか、実際にその現場を見せるしか方法は無いと言うことでは無いでしょうか。そういう竹島美波子さんのような人は、障害があっても、周りの人の協力でなんとかなってしまうと、たかを括っているようなことがありますからな。」
ジョチさんがそういう通り、偉い人というのはそういうものであった。なんでも自分の思い通りにできてしまうだけではなく、周りの人の努力も評価しないで、自分ができたと思い込んでしまうから困ったものである。
「そうですよね。理事長さんありがとうございます。そうするしか無いですよね。それが、政治家の人にも通じたらいいでしょうけど、まあ無理ですね。」
そう言っている八重垣麻矢子さんに、
「そういうことなら、八重垣さんが立候補するしか無いでしょう。」
ジョチさんはしたり顔で言った。
「それだけではありませんよ。八重垣さん。しっかり、彼女にはできないということを、竹島美波子に見せてやるしか無いでしょう。そこら辺は、なんとか段取りをして、そうなんだとわからせるしかありませんよ。もちろん、竹島美波子の顔に泥を塗ることも確かだし、今井壽賀子さんの心をひどく傷つけるということも確かですけど、でも、そうしなければ、何もまえに進みませんよ。」
「ええ。そうですね。」
八重垣麻矢子さんは決断したように言った。
「それなら私、そうしなければいけないと思います。ありがとうございます、理事長さん。私、頑張ってみますわ。」
こういう決断力の強さは、ある意味男性より女性の方が強いのかもしれなかった。そういうところもある意味母性と言えるのかもしれない。八重垣麻矢子さんはありがとうございましたと言って電話を切った。ジョチさんは、八重垣麻矢子さんも大変ですねとつぶやいて、受話器をおいた。
それから数日経って、杉ちゃんたちは、いつもどおりに水穂さんの世話をしていたりしていたが、お昼すぎになって、いきなり製鉄所の玄関の引き戸がガラッと開いた。
「はい、こちらです。こちらであれば、グランドピアノがありますから、ここで演奏できると思います。」
そう言っているのは、八重垣麻矢子さんの声であった。それと同時に、ちょっと子供っぽい声で、
「ここで歌うの?」
と、言っている声もする。それは、今井壽賀子さんの声であることは疑いなかった。二人だけではなかった。もう一人、女性がいた。
「こんな日本的な建物で事態遅れだと思うけど、それでもちゃんと車椅子の人でも入れるように、工夫されているのね。」
と言う声が聞こえる。杉ちゃんと水穂さんは、顔を見合わせた。水穂さんが、竹島美波子さん声ですねと小さな声でいうと、
「じゃあ、上がらせてもらいますね。」
と、八重垣麻矢子さんは、そう言って。製鉄所の建物内に入ってきた。製鉄所と言っても、鉄を作る場所ではない。ただ、居場所がない女性たちに、勉強や仕事などをする部屋を貸し出している民間の福祉施設である。建物が日本旅館のような建物をしているので、時代遅れに見えるのだろう。
水穂さんと杉ちゃんは、彼女たちを、急いで迎え入れた。ちなみに竹島美波子さんは、水穂さんを見て、なんでこんな人が福祉施設にいるのかと言おうとしたようであるが、八重垣麻矢子さんがそれを止めた。そういうことで議論している暇はなかったからだ。
「それでは、歌ってみていただけますか?浜辺の歌。お願いしますよ。今井壽賀子さん。」
八重垣麻矢子さんは、ピアノの前に壽賀子さんを立たせた。何をしたいのかすぐわかってしまったのか、水穂さんが、ピアノの前に座り、浜辺の歌を弾き始めた。やはり八重垣麻矢子さんが予測したとおり、美波子さんはいつもと違う場所で歌うことに恐怖を感じたようで、小さくなってしまった。そうなってしまった壽賀子さんを見て、竹島美波子さんは、なんでいつも通りに歌えないのとか、そう詰問しているのであるが、壽賀子さんは歌うことができなかった。可哀想にガタガタ震えている壽賀子さんを見て、水穂さんが、一度浜辺の歌の伴走をキーを変えてちょっと不規則な伴奏に変えてやると、壽賀子さんはそれが面白かったらしく、にこやかに笑った。水穂さんは壽賀子さんに、
「こんにちは。僕は八重垣麻矢子さんの友達なんですよ。だから僕とも友達です。一緒に浜辺の歌を歌ってくれませんか?」
と、静かに言ったのであった。すると、今井壽賀子さんは、何故かにこやかに笑ってくれて、水穂さんの伴奏に合わせて歌いだしてくれた。
「あした浜辺をさまよえば、昔の人ぞ忍ばるる。風の音よ、雲の様よ、夜する波も、貝の色も。」
その盛り上がり方は、普通の人間以上に美しいものであり、それは、今井壽賀子さんでなければできないことでもあるのではないかと思われた。
「そうよ!そうよ!そうなのよ!もっと抑揚をつけて歌ってみて。そうすれば、壽賀子さんの歌は、周りの人を虜にできるわ!」
と、竹島美波子さんがそう言っているのであるが、壽賀子さんは今度は黙ってしまった。代わりに水穂さんが、伴奏をもう一度弾くが、歌いだそうとしないのであった。
「大丈夫です。竹島先生は悪い人ではありません。決してあなたの事を、悪用しようとは思わないでしょうから、もう一回歌ってあげてください。」
水穂さんがそう言うと、壽賀子さんは、
「そうなの?」
と小さく水穂さんに聞いた。
「そうですよ。決して壽賀子さんの事を、悪いようにはしませんよ。竹島先生だって、機械ではありませんし、人間ですから。」
水穂さんがもう一度答えると、壽賀子さんは静かに歌い出した。
「あした浜辺をさまよえば、、、。」
水穂さんは、もう一度、壽賀子さんに伴奏をしてやった。楽譜通りに伴奏しないで、キーも原曲に比べるとかなり高い。それでは正式な浜辺の歌ではなくなってしまうと、竹島先生は言った。
「これではだめです。そうではなくてちゃんと原曲の変イ長調で歌わないとね。すみません右城先生、キーを下げていただけないでしょうか。そうすれば、すごくいい歌になると思います。」
そういう竹島先生に、水穂さんは
「本当にそうでしょうか?」
と小さい声で言った。
「でも彼女は普通の人ではありません。そもそも、キーがどうのとか、歌がどうのとか、そういうことは、誰が決めたんでしょうね。作曲者が決めることでしょうか?そもそも、彼女が、歌うのは、恥だという人も居ますが、彼女に合わせて歌うというのも、必要だと思います。」
水穂さんが優しくそう言うと、竹島先生は、もう一度歌ってといった。水穂さんはキーを上げたまま、静かに浜辺の歌の伴奏を弾いた。今度は、壽賀子さんは、小さな声ではあるけれど、上品に歌い出した。彼女は、本当に歌が上手だった。だけど、原曲そのもののキーで歌うことは多分できないんだろうなと思われた。だから、舞台に立つことはまずできないんだろうなと思われるが、それでも、歌えるということだけでも幸せにならなければならないということでもあった。
「それにしても、浜辺の歌がこんなオペラアリアみたいにすごい歌になっちまうとは、思わなかったよ。やっぱり、音楽ってのは、不思議なものだなあ。」
杉ちゃんがでかい声でそう言うほど、彼女の歌は上手だった。それと同時に音楽というのが何のためにあるのか、考えさせられるほどだなと思われるのだ。
芸術は所詮人間の表現である。
それが、人間のすることであるから。
浜辺の歌 増田朋美 @masubuchi4996
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