その目が運ぶのは
雨足怜
見つめる――聞こえる
風を切る音が耳元で大きく鳴り響く。この感覚が好きで、けれどいつものようにただ楽しむだけではいられなかった。
視界に映る景色はやや懐かしく、そしてどこか疎外感を覚えるものに変わっていく。
実家近く。生まれ育った故郷はたった数年でその装いを変え、少し過疎化して灰色に染まって見えた。
それはあるいは、疎遠になっていた実家に足を運ぶ気の重さ故だったかもしれない。
実家を飛び出したのは高校卒業と同時。大学にもいかずあちこちで日雇いのバイトを繰り返しながら愛車のバイクと共に旅をつづけた。
そんな旅の終わり。それを告げたのは頑固一徹、融通の利かない大っ嫌いだった父の訃報だった。
「久しぶり」
「そう、ね」
高校卒業以来顔も併せていなかった母はすっかり痩せていた。より正しく表現をするならば、やつれていた。まだ五十代だというのに、まるで腰の曲がった老婆のようにその動きは弱々しく、月日の流れを感じざるを得なかった。
私もまた、ここ数年でひどく体力の衰えを感じていた。休憩を取りながらであっても一日バイクで走り続けられたのは過去のこと。今では一日に六時間ほど移動するのが集中力の面でも体力の面でも限界だった。
互いに微妙に距離感をはかりかねながら、ガレージに止めたバイクに背を向けて歩き出そうとして。
ふと、棚の端に見えたメノウに視線が止まる。サイズは私の親指の第一関節ほど。さほど大きくない赤メノウがなぜこんな場所に置かれているのか、少し気になりつつも私は母の背を追って歩き出した。
家鳴りのひどくなった廊下を進み、父の遺影を拝む。頑固という言葉を人にしたような怖い顔をしていた父は、やっぱり写真の中でもしかつめらしい顔をしていた。写真の一枚くらい笑えばいいのに、そんな言葉は無意識のうちに口から出ており、母は私の顔を見ながら笑った。
「それ、お父さんの笑顔なのよ」
「笑顔?」
眉間に深いしわを刻み口をへの字に曲げているこの顔のどこが笑みなのか。そう視線で問えば、本当にそっくりね、と母はやっぱり笑う。
「あなたの笑顔にそっくりなのよ。笑っているときには目だけがやさしくなって、けれど笑みをどう見られているのかが気になるのか、せわしなく瞳が動くのよね」
想像して、その気持ち悪さに顔がゆがむ。そもそも私はそんな笑い方はしていないだろうに、母は私の否定なんて聞きもせずに父へと報告を始める。
「お父さん、葵が帰ってきてくれましたよ。ほら、見ているかしら?ずいぶん大人になってしまったわ」
祈る両手には、これまでの苦労が刻まれていた。私の、オイルと傷とは違う、家庭の苦労がしのばれる手。その手で、母は私を育て、頑固で家のことなんて何もしない父を支えていた。
父は死に、母一人。遺影に祈るその体は私の頭の中にあった姿よりもずっと小さくて、ひょっとしたら父も同じように小さく見えたのだろうか、なんて考えて首を振る。
あの父がそう簡単に変わるものか。
しばらくは家に泊まることに決めて、私は故郷に残っていた友人たちを訪ねて回った。バイクで走る道は、これまで散々通ったはずなのにひどく目新しく感じた。
それは建物が変わり、店が変化し、更地や空き家が増えたからかもしれないし、道を歩いている人や通行する車が減ったからかもしれない。
友人たちもまた、家庭を構えているものが多く、両親の介護に奔走したり、子どもの相手でいっぱいいっぱいになっている者も少なくなかった。
昔を懐かしむばかりの彼ら彼女らは、風来坊な私をどこかうらやましげに、そしてどこか呆れて見た。
わかってはいる。私の未来には、明確なルートがない。ただ荒野にバイクを乗り出して、どこまでいけるか無謀な挑戦をしているのだ。ただ、得るものがないわけではない。この経験だって、今しかできない。向かった先での出会いだって、故郷を飛び出さなければかなわないものだった。
後悔はない。そのはずで、けれどやけに小さくなった母の背中が、私の心の中に飲み込みがたい感情を生み出していた。
ガレージにバイクをおさめ、ふと気づく。もう、この家には車はないのだと。
運転をするのは父だけで、母は免許こそ持っているものの、それは身分証代わりにするためであり、運転しているのを見たところは一度もなかった。そのせいか、父の死と共にガレージからは車が消え、やけに広々と感じられた。
オイルのにおいが染みついた道具の数々。私が購入したバイクに、危険だと唾を吐きながらも、どこかうらやましげに見ていた父。型どおりの会社員として生き、死んだ一人の男。
その生き方を、父は心から望み、受け入れていたのか。
何て、そんなことを考えたところでなんの意味があるというのか。
――ふと背筋に寒気を感じたのは、父に見られているという感覚があったから。
そんな馬鹿な、とぐるりと首を巡らせれば、目が合った、気がした。
ガレージの端、棚の隅にポツンと置かれた赤メノウと目が合った。樹木の年輪を思わせる輪が重なって模様を描いた赤っぽいそれから逃げるように出口に向かう。
その背中に、やっぱり視線を感じた。
おそるおそる振り向けば、やっぱり目が合った。
赤メノウの目が動き、私を追っている。
そう考え、私は恐怖に突き動かされるようにガレージを後にしていた。
「ねぇ、母さん。どうしてあのメノウはガレージなんかにあるの?」
曲がりなりにも宝石をあんなところに置いておくなんて。恐怖を誤魔化す論調で言えば、母は責めるように私をにらみ、それから深くため息を漏らした。
「……あんた、覚えていないのね」
「何を?」
とげのある言葉に思わず身構える。そんな私に気付いているのか否か、母は遠い目で虚空を見上げ、苦い顔で話し始める。
「あなたが小学校五年生くらいの頃だったかしら。こっそりと捨て猫を拾ってきたことがあったのよ。茶トラで、赤さび色の目をした猫だったわ」
覚えがなかった。ただ、その姿を想像した瞬間、ガレージに置かれていたメノウがぴたりと空想の猫の両目に収まった。瞬間、メノウは命を宿したように動き出し、その引き込まれそうな年輪模様の目で私を見据える。
背筋に寒気が走る。家のどこかで、カタカタと音が鳴る。ただ、窓の隙間から風が吹き込んでいるだけ――そのはずだ。
「その猫は、捨てられている間にかかっていた病気で死んでしまって、あんたは泣きながら遺体を抱いて目を覚まさないってお父さんに相談したのよ」
覚えていない。そんなことがあっただろうか。ただ、話を聞いていて父の怒りを思い出したのはなぜか。
「お父さんはあんたを強く叱ったわ。命で遊ぶんじゃない、って」
「遊んでないでしょ」
「お父さんの論調はこうよ。拾った命を隠して、自分の不手際で失わせた。それは命をもてあそんでいるのと同義だって」
それは、どうだろうか。そもそも父に見せていれば、きっとその猫は捨てられただろう。それとも、あの厳格な父が拾ってきた猫を飼うことを許しただろうか。せいぜい、私の管理能力不足を疑い、どうせ途中で飽きて母にすべてを任せるはずだと批判したに違いない。
「父さんは、話しても許可なんてしなかったでしょ」
「わからないわ。でも、あの人、前にお酒を飲みながら愚痴を言っていたわ。昔猫を拾ったことがあるけれど、俺は父にその猫を捨てられてしまったって。……探しに出た先、捨て猫は車にひかれて息絶えていたそうよ」
「……だから、飼うことを許したって?」
あの父がそんなことをするとは思えない。けれど、これ以上は平行線をたどるだけだった。ここに父はいなくて、死者は言葉を話すことはできない。だから私たちはただ、私たちの中にある父の像を頼りに意見を言うことしか叶わないのだから。
話ながら、やっぱりあのメノウのことが頭から離れなかった。私が父に相談できず、それ故に死んでしまった猫。私が、殺してしまった猫。
その猫は、私を恨んでいいただろうか。憎しみを抱いていただろうか。もしそうなら、あのメノウが、その茶トラを重さ得る色合いのメノウが置かれているのは、きっと――
「ねぇ、あのメノウって、どうしてあの場所から動かさないの?それに、そもそもあれって、どうしてうちにあるの?」
「さぁ?あれは亡くなった捨て猫の胸元に転がっていたのよ。それを見て、あんたが駄々をこねたの。絶対にこれをここに、ガレージに置くんだって。まるで何かに憑りつかれたようだったわ」
何かに、憑りつかれる。その何かはきっと、死んだ猫なのだろう。
だとしたら、だ。先ほど私を見ていたように思えたのは、あのメノウに宿った捨て猫の怨霊によるものなのだろうか。
背中を冷や汗が伝うのが止められない。拾った茶トラのことをすっかり忘れ、あのメノウの記憶もないということがひどく怖かった。
どれほどの恨みがたまっているのだろう。憑りつかれているのは、今もなのだろうか。
「それで、いったいどうしていきなりそんなことを言い出したのよ?」
「……あのメノウ、持ち出してもいい?」
「いいわよ。むしろそろそろ処分しようと思っていたところだもの」
もし呪いが宿っていたとすれば、処分したらどうなるかわからない。気づけば前のめりになって処分を拒む自分がいた。それこそ、自分が自分でない、誰かに突き動かされているようで。そう気づいて恐ろしくなった。
そうして、ひょっとしたら私と父の冷戦は、この捨て猫の一件が決定的だったのではないか。
そんなことを思った。
故郷に多くのものを置いてきていた。それは友人や家族をはじめとする人間関係であり、思い出だった。例えば、捨て猫を拾ったこと、そしてメノウのこと。
まん丸な赤メノウは今、アクセサリーに加工されて私のカバンについている。時折ファスナーの持ち手に当たってカチリとなるのが、まるで自分を忘れるなと主張しているようだった。
記憶にもない捨て猫に、私は何をしてやることもできなかった。ただ、せめてその猫に多くの世界を見せてやりたかった。捨てられ、ガレージの中で一匹寂しく死んでいった茶トラ。おそらくは名前も与えてあげられなかったその猫に、成仏してもらいたかった。
本当にメノウ石にその猫の怨念だとか魂が宿っていると思っていたわけではない。ただ、そのメノウに多くの世界を見せる――それを再び旅に出る理由に利用しただけかもしれなかった。
バイクで風を切り、時折メノウ石に話しかける。スマホで短期バイトを見つけて仕事にありつき、温かい時には道の駅や公園で、寒くなってからは数日に一度宿泊施設で体をきれいにした。
そんな旅を続けて、どれくらいたっただろうか。
気づけば、どこからともなく猫の声が聞こえるようになった。
ただ付近の猫の声を聴いているのか、あるいは。
ただ、その声が寒風吹きすさぶ中、バイクに乗っている間にもはっきりと聞こえていたのは事実だった。
恐ろしくて、それでもそのメノウを手放すことができないのはなぜか。呪われるだとかいうオカルトへの恐怖か、あるいは、その猫のことをすっかり忘れてしまっていたことへの贖罪か。
ただわかるのは、その猫目が届ける声が聞こえなくなるその時まで、私が旅をやめることはないだろうということだった。
その目が運ぶのは 雨足怜 @Amaashi
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