佐伯家からの脱藩者

 「殿、一大事でございます。」

 加賀百万石の藩都、金沢では、春からやけに慌ただしかった。加賀藩二代目藩主である利光としみつは面倒くさそうに溜息をついた。

 時代は下って元和年間。既に政権は豊臣家から徳川家に移っており、完全に泰平の世になっていた。ただし、幕府は未だ過渡期にあったので、諸大名、特に加賀藩のような外様に対しては容赦なく改易処分を言い渡していた時代だ。

 そういう時期が時期だけに、幕府に目をつけられるような「一大事」はまったく聞きたくなかった。

 「何事じゃ。騒がしい。」

 明らかに嫌そうな顔をしながら家臣を一瞥する。その家臣は服を正すのも忘れて平伏し、肩で息をした。

 「佐伯家から脱藩者が。」

 「なに。」

 この時期に脱藩をする不届き者・・・というより、愚か者がいることに驚いた。この泰平の世において、脱藩した浪人を召し抱える大名家などあるのだろうか。加えて、脱藩は重罪。脱藩者が出た一家は一族郎党死罪にもなり得る罪なのだ。

 「しかし、佐伯家か。」

 利光はさすがに顔をしかめた。

 「佐伯家でございます。」

 報告した家臣も確認を促すように利光の言葉を繰り返した。

 「ともかく、佐伯家当主、秋家を召喚せよ。事情を聴取する故。」

 利光は家臣にそう伝えて下げた。


 半刻過ぎてから佐伯家当主秋家が利光を伺った。秋家は既に七十を超える老齢であるとは言え、未だ隠居をせずにいた。眼光は鋭く、その体には幾万の刀痕があるらしい。

「利光様。ご機嫌麗しゅうございます。」

「表を上げよ。御託は良い。此度、そなたを呼びつけた理由はわかっておるな。」

戦国を生き抜いた老兵であろうが、利光は一切物怖じしない。利光自身にも、江戸幕府の過渡期を渡り歩き、乗り越えてきた自負があった。

 秋家は頭を少しだけ上げ、ぎょろりとその目だけこちらに向けた。

 「秋人の脱藩のことでしょう。」

 「偉く潔いではないか。」

 少しは惚けるかと思った利光であったが、そこはさすがに佐伯家当主だけあると感心してしまった。おそらく、秋家も大事にして幕府に目をつけられたくない利光の意図がわかっているのだろう。

 「佐伯家、そしてこの秋家は利家公の時代より、前田家より扶持をいただいている身分でございますれば、その恩に対して嘘をつくは不忠の極み。」

 「脱藩者をこの前田家より出すのは不忠ではないと。」

 しばらくの間、沈黙が起こった。庭園の鹿威しがカコンと数度鳴った後、ようやく秋家は口を開いた。


 「秋人を脱藩させたのは私でございます。」


 利光は面食らった。脱藩を手引きしたのは、あろうことか、その家の当主である自分自身だと言うのである。

 「一体なぜ。」

 問うと、秋家は懐から一通の書状を利光の小姓に渡した。小姓から書状を受け取るや、利光は目を細めた。その字には確かに見覚えがあったからである。

 「右近か。」

 つぶさに中身を見なくてもわかる。間違いなく、これは七年前加賀藩を去り、マニラへ追放された高山右近のものであった。

 「さようでございます。」

 「懐かしいな。」

 利光も先代藩主利長も高山右近のことを好いていた。幕府の伴天連追放令により、やむなく加賀藩を出て、国外追放となった。何度も棄教を勧めたが、まるで死に場所を求めるような覚悟を持っており、事実、マニラ到着から2ヶ月と経たぬ内に病没した。

 「書状は秋人宛てでございます。最終的に脱藩の許可を出したのはわしに相違ございませぬが、この書状を読んだ孫は誰も止められなかったでしょうな。」

 秋家は乾いた声で小さく高笑いをした。

 「お主の孫は確かに右近を好いていたからな。」

 人格者と知られる右近は誰からも好かれていた。前田家藩祖である利家でさえも、彼に対しては好意的であった。だからこそ、豊臣時代、右近が信仰のために己の領地を捨てた時、前田家が匿ったのだ。

 「中身をどうぞ、ご覧下さいまし。」

 そう言われて尤もだと思い、利光は書状を広げた。やはり、懐かしい文字が並んでおり、あまり質のよくない紙に描かれている。

 利光は合計で三度読み返し、ようやく秋家の方に視線を動かした。

 「なるほど。」

 全てを理解したような顔であった。

 「この遺言状の処分は焼却がよろしいかと。万が一幕府の目に入ってしまえば、この加賀百万石とて危機にさらされるでしょう。」

 「わかっておる。」

 利光はすぐに遺言状を丸め、火鉢の中に放り込んだ。一瞬だけ火鉢の中が赤く照らされ、すぐに灰になって消えた。

 「人選に間違いはないか。秋人と言えば、あの、『蒼眼』のことであろう。未だ二十歳そこらではないか。」

 「遺言の通りにしたまでで。」

 秋家がそう言うので、利光はもう一度火鉢に目をやる。しかし、いまいちその怪訝な表情は戻らなかった。その間に、秋家はまた言葉を発する。

 「お言葉ながら、我が孫は佐伯家の中でも一番のつわものでござりますれば。」

 その言葉に、利光は唸った。

 「ほう、佐伯家の中でもか。」

 「しかし、現在は泰平の御世。加賀で腐らせておくよりかは。安心してくだされ。秋人には佐伯の名を捨てることを既に約定済みでございます。天地が翻っても前田家に不忠となることはありませぬ。」

 利光は秋家の言葉にうなずいた。脱藩はなかったこととし、佐伯秋家以下佐伯家はお咎めなしとなった。無論、この事実は火鉢に捨てられた右近の遺言状と共に闇に葬られた。

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