眠れないコーヒー
のんぴ
眠れないコーヒー
僕の友人は、確かに忠告した。誇張なく真実を伝えた友人は誠実だった。
なので眠れないコーヒーに罪はない。
「効き目が強すぎて、もう寝てもいいのに眠れなくなるから気をつけろ」
その通りだった。
眠れない僕は夜の街を歩いた。意味も目的もなく、ただ歩いた。
今夜、僕は大学のレポートを書き上げるまでは寝てしまうわけに行かない状況だった。
レポート提出期限は明日の朝まで。深刻な睡魔に襲われながら、八割までは終わっていたレポートを前に、僕は絶望的な抵抗を続けていた。
最後の力を得るために、僕はついに眠れないコーヒーの蓋を勢いよく開けた。
苦味が極限まで高まると、味覚が痛覚と連動するのだということを僕は初めて知ることになった。
こんなものか、と安堵した一泊遅れて、衝撃が来るのもまた憎たらしい。
黒い悪魔。
想像を数段超えた苦さに悶絶しながら、脳裏にその単語が浮かんだ。昨日までならば、ゴキブリのてかった姿を思い浮かべたろうけど。でもいまや違う。その言葉を発した主に僕は尋ねなければならない。「それは空を飛ぶ方か、それとも缶に入っているあれのほうか?」と。
ともかく僕は必死にレポートを書き上げて、深夜の大学に忍び込み、教授室入り口にある白いそっけないポストに放り込んだ。
明日の授業は出なくとも取り返しがきくものばかりだったので、昼までしっかりと睡眠をとるつもりだった。
でも眠れない。繰り返しになるが、眠れないコーヒーに罪はない。僕が僕の意思で、それを、その時間に飲んだのだ。
疲労感は全然あるのだ。眠れはしなくて、かといって頭脳が覚醒しているわけでもなく、頭の中にある扉に丈夫なつっかえ棒がひっかかっているような、妙な気分だった。
仕方なく町を歩き出した。一晩中点いている街灯を独り占めするくらいのつもりで、僕は駅前を歩き続けた。
しばらくたった。でもちっとも眠れそうにない。
町が自分だけの貸切りではないことに気付いたのは駅前を三周したときだった。
同じ人間と二回すれ違った。二人組。
向こうも気づいたと思う。でもそれほどの関心は無かっただろう。
彼らは、ちょっとそれどころではなかった。
「は? 帰ろう? いまさらあきらめるんなら、そもそもわたしをつきあわせるな」
二人とも中学生だと思う。短髪で背の小さい男の子と、ポニーテールのひょろっとした女の子。男の子は紫色のジャージ。女の子は黄色いTシャツの上から、デニムワンピース、足元は赤いスニーカーという格好。
「なにおう。わたしが勝手に付いてきたとかいうな」
女の子の声を背中に聞きながら、僕はタバコに火をつけた。
東口のベンチに腰掛けて、あたりをもう一回りするかどうか考えた。
びっくりするくらい眠くない。ロータリーにタクシーが一台だけ止まっていたが、お客を待っているというよりは、ただ単なる休憩をしている状態のようだ。
自分の座る真正面にあるガラス張りの大きな建物を眺めながら三本目のタバコをふかす。普段その建物は夜の十時まで市民に開放されていて、雰囲気が悪くないので利用者が多い。僕もたまに時間をつぶした。
いつもだとそこには、勉強している真面目な子もいれば、ただ単におしゃべりを延々と続ける女の子や、窓ガラスに映る自分の姿を真剣に睨みつけながら、ブレイクダンスの練習をする男の子などもいた。
人の集まる場所にわざわざ出向いた上で、各々が勝手な過ごし方をする、静かで不思議な空間。
僕が居座っているこの場所と時間は、そんな日常をさらに一段高いところから見下ろしているような、命と遠い場所にある世界のように思われた。
さっきの男の子と、女の子が駅前をもう一周して戻ってきた。僕らは三回目の遭遇を果たした。
僕は自分のことを人見知りとは思わないが、用もないのに知らない人に気軽に声をかけるような人種でもない。
でもタイミングがあってしまった。お互いにちらりと視線を向けて、お互いに「まだいる」と思っただろうそのとき、僕はポニーテールの女の子と目が合ってしまったのだ。
女の子の目には僕への興味も無い代わりに、過剰な警戒心も浮かんではいなかった。
話しかけていいかどうか、意思が書かれた札を首から下げていてくれれば話は早いのだが、その必要がなくとも「こっちはちょっと煮詰まった状態なので、流れを変えるためにも、話しかけたいのならば話しかけてもいいよ」というオーラが、霊能力者ではなくともなんとなく感知することが出来たのである。そして僕は女の子に話しかけた。
「なにか見つからないの?」
「はい、財布なんですけど」
「財布か」
彼女は手で、このくらいの、と財布の大きさを形作った。
「で、色は黄色です」
「無かったと思うなあ」
女の子は溜息をついて僕の座るベンチの横を通り過ぎる。
「この辺なのは間違いないの?」
彼女はこちらを振り返り、ガラス張りの建物の方を指差した。
「何時間か前にあそこの自販機で飲み物を買ったんです。財布があったのを確認できたのはそこが最後なので」
それから女の子は、男の子に向き直って「だよね」と念を押すように訊ねた。
女の子の方が身長は高く、見下ろしながら語りかける形となった。男の子は無言でただ頷く。
その頷きかたを見るに、男の子はいまいち確信が持てないでいるようだった。でも三周もしておいてから、やっぱりここじゃないかもなどとはいえないのだろう。
僕は再び尋ねる。
「あのさ、明日じゃだめなの?」
「朝が来る前に見つけなければなりません」
女の子は言葉に強い決意を込めた。
「ふうん」
僕はベンチの横の灰皿で、タバコをもみ消した。そしてひょいっと立ち上がった。
「どうして?」
僕の口調が少しだけ咎めるような声色を含んでいたためか、女の子の目にわずかな警戒心が宿った。
「確かに明日になって明るくなれば、案外簡単に誰かが見つけてくれて、その人が悪い人でなければ、駅なり交番なりに届けてくれるかもしれません。でもそれだと、わたしたちが夜遅くこのあたりを出歩いていたことが発覚してしまうんです」
「それはまずいことなの?」
「バスからまっすぐ宿に入って、それきり今夜は外出禁止のはずだったので。まあ、わたしたちは無断外出をして一回戻って、そのうえでこうしてまた出てきてしまったので、罪に罪を重ねてしまっている状態なんですけど」
「ああ、つまり君たちは修学旅行生か」
なんと懐かしい響きの単語だろう。修学旅行。僕にとってそれほど昔の出来事ではないのだけれど。
不条理な規則に絡まりながら見る鮮やかな夢。
僕はもう一度二人を眺めた。
男の子がボソッと女の子に何か言った。たぶん不平か泣き言だったのだろう。女の子はボソボソボソと、彼の数倍の言葉を浴びせかけた。男の子は二歩後ずさりした。
甘酸っぱいなあ。
修学旅行の夜。二人は規則を破って、夜の街をさまよう。
二人して仏頂面だけど、これって彼らの修学旅行で一番の思い出になるだろう。
僕にはなかった。こんなことはひとつもなかった。
「つまりは一番可能性があるのは、あの中なんでしょ?」
僕はガラスに包まれた建物を指差した。
「ええ。そうなんですよねえ」
無料開放されているテラスがオープンするのは朝の九時と決まっている。それじゃ遅いからこのかわいい二人組は困っているのだ。
「いいよ、ついてきな」
僕は歩き出した。二人がついてこないようなので、振り向いて手招きをした。
「僕はこのテラスのヘビーユーザーだ。ただひたすらぼうっとしたり、たまにはナンパの真似事をして、かすりもしなかったり。なのでここの仕組みはある程度理解している」
僕らは駅の東西をつなぐ連絡路の階段を上った。さっきまで各々で何回か歩き回った場所だ。
階段を上りきり、駅方向ではなくUターンして細道を歩いた。この先はビジネスホテルのフロントに直結していて、さらに行くとさっき見上げたガラス張りの無料開放テラスへとつながっている。
「こっちに警備員の詰め所がある。頼んで、テラスを空けてもらおう」
「怒られますよ」
「平気、俺、ここの警備員と顔なじみだから」
僕を見つめる二人の視線に「大人じゃん」という色合いが加わった。
「ここって遅い時間になると、色んな奴が集まるんだよね。格好が派手でいかにもやんちゃな子達は、話してみると実はいい奴だったりするけど、案外地味な子のほうが危険だったりする。ああ、君らの事を言ってんじゃないけどさ。で、そんな状況だから、警備員はほとんどテラスにつきっきりみたいな状態になるんだ。はでな女の子たちになつかれて呼び捨てにされて喜んだりしている。俺も良く雑談していたから、今日の当番が誰かまでは分からないけど、多分知っている人のうちの誰かだよ」
話しているうちに目的のドアの前に僕らは着いた。こつこつと僕はドアをノックする。待っても誰も出てこない。僕は今度はどんどんと強めに、ノックした。
「あ?」
ドアが唐突に開いて、中から無精ひげにまみれた中年男が現れた。
「よ、こんばんは」
「んっだあらあ」なんだこら、の意。
「ちょっと頼みがあんだけどさ」
「せっ、このお! け!」うるさい、この野郎、帰れ、の意。
「おっちゃん頼むから標準語を話せ。子供がおびえている」
ちゃんと警備員の制服を着ているのに不審者に見えるという珍しい男。面識がなかったら、僕だってたぶん怖い。僕の影に隠れてしまっている二人のようにびびってしまうだろう。
「この子たちがさ。落し物しちゃったんだって。そんで話を聞くと多分テラスのどこかだと思うんだよね」
「明日にしろよお」
「もっともな意見だ。でもそれじゃ困るんだってさ。協力してやろうよ。修学旅行だって」
「修学旅行。……修学旅行?」
彼は何か合点が行かないようだった。
「俺はただの警備員だから、団体客の情報が全部は入ってこないんだけど、でもよ、むー?」
「それだけよっぱらってりゃ記憶だって混濁するだろうさ」
ひげの警備員は僕の言葉に何も返事をせず、ドアを強く閉めた。
振り向くと、二人の失望した顔が僕を見上げていた。
「おらあ」
再びドアを開けて現れた警備員の大声。二人の子供の目が驚きでくわっと見開かれたのが面白かった。
警備員の手には、鍵の束と懐中電灯。
「悪いね。さっさと済まそう」
何も答えずにずんずんと歩いていく警備員の後ろを、僕と二人の旅行者はついていった。
「とっつきずらいおっさんだろ。でもこの人ね。こんな荒っぽい感じだけど、実は子供好きなんだわ」
「ばーか」
「うわ、酒くせーよ、おっちゃん」
自動ドアの下のほうについている鍵を開けて、警備員は手で扉を開いた。
「照明はつけねーぞ」
手にした大きな懐中電灯の光が、無人で真っ暗なテラスをせわしなく照らした。
「これは、ムードがあるね」
ヘビーユーザーたる僕とて、こんな状態のテラスに侵入したのは初めてだ。大きすぎて、懐中電灯の光がちゃんとは端まで届かない。深い井戸に小石を投げ込んだような心細さを感じる。
「自販機で飲み物買ったんだよね」
「はい」
警備員が登場してから、萎縮してしまっていた女の子が久しぶりに口を開いた。気が強そうに見えても、そこは子供だ。
男の子の声を僕は未だ聞いていない。彼は相変わらず不機嫌そうに眉をしかめ。仕方なさそうに女の子のあとをついてくる。
この状況の当事者は彼なのだが、難しい年頃ってやつなんだろう。
自動販売機の明かりは深夜でもつけっぱなしだ。
テラスの奥のほうに三つ並んでいる。
足元を照らしながらゆっくりと自動販売機のほうへ歩いていく。
「黄色いんだってさ、財布」
「そんな目立つ色なら、もう誰か持って帰っちまったんじゃねえの」
「かもね」
自動販売機にたどり着いた。周囲を一通り探してみたが、黄色い財布はどこにも無い。
「飲み物買って、それからどうしたか覚えている?」
「ええと、どうしたっけ?」
僕の問いに、女の子は首をかしげた。すると男の子が彼女の耳元で、またなにやら呟いた。
「そうだ。映画。映画のポスターを見たんだ。んーでもさ、あれって飲み物を買う前じゃなかった?」
男の子の口が、違うと動いたのが見えた。
「違うそうです」
「うん」
あれか? 彼は高貴なお方なのか? 僕のような不浄のものと直接言葉を交わすと、死ぬのか?
「それなら、行ってみよ。順々に辿ってみるんだ」
映画のポスターとなると二階になる。駅ビルにビジネスホテルと映画館が併設されているのだ。あれもこれもと詰め込みすぎの感はある。地方都市の悪い癖だ。行く末が心配だ。
動かないエスカレーターを再び登った。
「この辺をしばらくうろうろしていました」
ここの映画館にはスクリーンが七つあるので、近日上映のものを含めてポスターは通路の大きなスペースを占めていた。メジャーな映画のほかに、昔の映画を特別企画として上映することもある。
僕はしばらく映画を見ていなかったので、ここのポスターの列を眺めるのも久しぶりだった。
「おっちゃん、今回はまた攻めの姿勢を見せてくれてるね」
「あぁ?」
警備員のおっちゃんは僕が見ているポスターを懐中電灯で照らした。
『トイストーリー』のⅠからⅢまで、ぶっ続けで上映。
「供給会社の相手が相手だけに、こういう企画って手続きが面倒そうでしょ」
「・・・・・・こんなのあったかな」
「ダメだこりゃ。酒もほどほどにしなよ。記憶障害の傾向が見られる」
「せ!」うるさい、の意。
女の子は、ポスターたちの足元を見てまわっていたが、気付くと僕の横に並んで、トイストーリーのポスターに目が釘付けになっていた。
「好きなの? これ」
「うん。ⅠとⅡはDVDで見ました。ね、Ⅲは映画館で見たよね」
男の子もいつのまにか、黄色い財布探しを一時中断して、トイストーリーのポスターを見つめている。彼は女の子の言葉に無言で頷いた。
「でーとだべ?」
「え? は? いやいや他の友達もいましたよ」
女の子は急に挙動不審になった。僕が刑事だったなら、長年の勘で、こいつは嘘をついていると、見抜けるくらいに。
「こらおっちゃん、若者をからかうな」
「ひゅーひゅー」
女の子はこの暗さの中でも分かるくらい顔が赤くなっていた。そして彼女は何かぶつぶつ呟いている。男の子が横から覗き込んで、やっぱりぶつぶつ、ぶつぶつ。女の子は男の子の言葉に答えてまたぶつぶつぶつ。
生態を観察しているとなんだか飽きない二人だ。
ひとつ息をついて、女の子はようやく気を取り直したように、僕のほうへ向き直った。
「Ⅲは観ました?」
「観た」
「どのシーンが一番好きですか?」
「やっぱ最後のお別れのシーンかな」
「いいですよね、あそこ。でもわたしは仲間たちが焼却炉に飲み込まれそうになるシーンが強く心に残っているんです」
「ああ、あそこ上手いよね。あとから冷静に考えれば、あのシーンで全滅になるとは思えないんだけど、見ているときはダメかもって真剣に思ったもん。シーンの組み立てがうまい」
「一生の最後に、大好きな仲間を見つめて心が通じ合っていることを確信できたなら、死にかたとしては悪くないですよね。いつかは誰だって死ぬわけですから、それはしょうがないものなんだし」
「達観してんね」
中学生離れした感想。それとも僕が幼いだけでこれが普通なのだろうか?
「そうでもないですけど。実際はそう上手く行かないもん。さ、財布を捜さなきゃ。ほんとにご迷惑かけてすみません。眠いですよね」
「いや眠くない。訳あって」
映画のポスターの付近には、いくら探しても黄色い財布は見つからなかった。男の子と女の子は、別な場所を探しに行った。テーブルがいくつか並ぶ広いホール。ここでしばらくだべっていたので、可能性があるらしい。
警備員のおっちゃんも二人について行った。僕はポスターのあたりをもう一度だけ探してみた。
階下では、おっちゃんの懐中電灯の光があっちこっちに飛び回っている。
「やっぱりないか」
低い姿勢で歩き回っていたら、腰がだるくなった。
身体を起こして、伸ばす。並んでいるポスターを一瞥して、歩き出す。
「お?」
立ち止まって振り返った。違和感。
映画のポスター。
石原裕次郎の全出演作を一ヶ月かけて一挙公開。
若い頃の裕次郎。白黒の写真。まるで、『いいか小僧ども、何かというと、どや顔どや顔とお前らはいうが、これが本物のどや顔ってもんだ』と、現在を生きる世代に、大事なことを教えてくれているかのような、すごいどや顔。
年配のファンが喜びそうな、気合の入ったいい企画だ。
それはいいのだが、で、トイストーリーはどこに行った?
映画のポスターを端から端までもう一度見て回った。しかし確認するまでない。確かにトイストーリーのポスターは、石原裕次郎のどや顔が貼られているこの場所にあったはずなのだ。
僕は、ぼうっとして、棒立ちになって、ポスターを眺めた。ここは当然喫煙禁止の場所だ。なので、僕はたばこの力を借りることなく考えをまとめなくてはならなかった。でも過剰なカフェインなら摂取しているので、ニコチンはなくとも大丈夫だ。
止まったエスカレーターをおりて、先に行った三人に合流した。自分の眉間にしわが寄っているのが自覚できたので、努めて微笑みを作り出した。
「どう、財布はないかい?」
「ないですねえ」
「拾われたんじゃねーのかい、やっぱりよお」
僕は床にはいつくばってテーブルの下を覗き込んでいる男の子の横に立った。
「あるさ」
男の子は僕の言葉に、こっちを向いた。不機嫌そうな思春期真っ只中の男の子。
「あると思えば、きっとある」
「あ? 精神論かよ」
いらだった警備員の声。
「気の持ちようは大事なのさ」
僕も一緒に探し始めた。探しながら、女の子に訊ねた。
「君らどこから来たの」
女の子は、微笑みながら彼らの町の名を教えてくれた。
東北の、海の見える町。
「田舎者です」
「でもいいところだったんでしょ」
「貧乏でも平和なことが自慢でした」
彼女の細めた目は、波ひとつない海を見つめているかのようだった。
過去形。
「財布、見つけたいんだ? 何か思い出でも?」
「ああ。まあちょっと。やあ、恥ずかしいなあ」
「意地でも見つけような」
「はい」
僕たちは広いフロアを探し回り続けた。
警備員は常に悪態をつきながらではあったが、丁寧に、隅々まで歩き回ってくれている。
しばらくしたころ、僕はほかの三人から離れた。そして何も無い床を見つめた。
修学旅行、か。
僕もすごく楽しみにしていたのを覚えている。
待ち望んで、何かを願っていた。
たぶん、いくら探しても財布はここにはない。別などこかに埋もれてしまったのだろう。どこか遠いところに。
理由があって、この二人はそれが心残りで仕方がないのだ。
だから彼らはこんな夢を見ているのだと思う。
僕は皆に聞こえるように大声をあげた。何もない床を見つめながら。
「あった」
声を聴いて女の子が駆け寄ってきた。男の子ものそのそと近づいてくる。女の子の明るい声が館内に響く。
「ほんとだ。ねえ、あったよ。こんなところにあったんだ。良かった」
女の子は黄色い財布を手にしてピョンピョンと飛び跳ねた。
「中身は大丈夫?」
僕が尋ねると、女の子は男の子と一緒に、財布を広げて覗き込んだ。そしてふたりは顔を見合わせて、にやにやと意味深な笑みを交わした。
「問題ないみたいだね」
「はいはい、良かった良かった。良かったから、お前らさっさと出てけ」
警備員の一喝で僕らは外に追い出された。彼は再び酒をあおりに戻る。
深夜の街に放り出された三人。
「ありがとうございました。わたしたち、戻ります」
「教師に見つからないようにね」
「はい」
「で、財布には何が入っていたの?」
「ああ、あなたには教えますね。友と見込んで。ねえ、いいよね」
男の子は無表情のままで頷いた。いまさら、そんなバリヤーを張って見せても、さっきのにやにやを僕はしっかりと見ていたので、無駄である。
彼は財布の中から紙切れを取り出して僕に渡した。
恥ずかしいのか、男の子は少し離れて、背を向けた。
広げてみると、そこには携帯電話の番号と、メールアドレスが鉛筆で書かれていた。
「これは」
「わたしのアドレスです」
女の子は頬を染めながら答えた。
「こいつ、やっと聞いてくれたんですよ。まったく根性なしなんだから」
男の子が彼女を肘で突っついた。
「へえ。そうか。そんな大事なものが入った財布をなくしたらそりゃ必死で探すよね。でもアドレスなら携帯の赤外線で通信すればよかったのに」
「彼は馬鹿なので、そんな応用はきかないのです。わたしも、書いてくれって言われて、なんだか嬉しくて、素直に言われるがままにクラシカルな手段を選んでしまいました」
「ぎこちないねえ。でも結果として、思い出のアイテムが出来てよかったじゃん」
「ええ、まあ。書き直せばいいだけだったのかもしれませんけどね」
「それは違うでしょ。どんな気持ちでその紙を手に入れたことか。俺だって、絶対に見つけたいと思うだろうさ。じゃ、残りの旅行を楽しんで」
「財布がなければお土産も買えないところでした」
バスターミナルのところで、僕らは別れた。二人は、駅の連絡路に向かう。僕は家に帰る。
去り際のこと。
「海の向こうにでもいっちゃったかと思ったけど、こんなところにあったんだ」
最後にようやく、男の子がはっきり話す声を聞くことが出来た。
二人は、僕にもう一度頭を下げて去っていった。
女の子は先につかつかと歩いていった。男の子はちょこちょこと彼女を追いかけて、二人は並んで歩いた。
調べるつもりはない。僕はそれほど暇ではないから。
でもたぶん、修学旅行に今夜あの町から来ている学校は無いはずだ。
二人の名前を聞いておけばよかった。
そしたらいつか、花でも持って会いにいけたのに。
まっすぐな長い通路。遠ざかる二人。僕は彼らの背中を眺め続けた。見届けてあげたかった。
彼らは振り返らない。並んで歩く二人の距離が少しずつ近づく。
会話はあるのだろうか。互いにそっぽを向いて歩く。
二人を照らす通路の照明はわずかで、あたりは昼間とはまるで違う光景だった。僕はここがどこなのか忘れてしまいそうになる。
ずいぶんと間があったが、二人の手がようやく触れる。
指がふれて、すぐに怯えたように遠ざかった。もう一度触れる。それを三度繰り返してから、男の子がしっかりと握り、女の子もそれに応えた。
彼女の横顔は幸せそうだった。
二人の背中が見えなくなるまで、僕はそこにただ立っていた。それから歩き出した。
後は帰って寝るだけなのだが、いまだに眠気は訪れてくれなかった。
もうあんなコーヒー二度と飲まない。
眠れないコーヒー のんぴ @Non-Pi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます