始まってます？

始まってます？

　脱サラして念願のベーカリーを開店させた前田さんの朝は早い。通勤・通学の途中でやってくるお客さんに朝イチで焼き立てのパンを売るためには、まだ暗いうちから仕込みを始めなければならない。

　開店前、店の奥にある厨房で黙々と作業に励んでいると、

「始まってます？」

　店の方から女の声がする。

　見るとレジカウンターの向こうに、派手な黄色のコートを着た女性が立っている。突然のことに驚きつつも手を止め、「まだ営業時間前ですよ」と厨房から出て行くと、ウィンドウの向こう、閉ざしたままのシャッターが目に入る。

　客が入ってくるわけがない。

　はっと気づくと、女は煙のように消えている。

　そういうことが何度かあったという。

「……思い返してみれば、『始まってます？』ってのがちょっと変な言い方だなって。開店してます？　って意味だと思ってたんですけど、だったら普通ああいう聞き方しなくないですか？　始まってます？　って……いや、気味は悪いけど簡単には辞められないですよ。なんてったって念願の自分の城だし、家族もいるし、銀行からお金借りちゃってるし。それに商売自体はいいスタート切って順調なんですよ。ただね」

　最近、奥さんや五歳になる息子さんが「家の中に黄色い服の女の人がいる」と訴えるようになったという。

「だからよくわかんないんですけど、もう何か始まっちゃってんのかもなって」