すたと

ninjin

スタート

 僕は何故だか、目の前に広がる草原を眺めながら、その丘の大きな木の根元に寄り掛かって膝を抱えて座っていた。


 ここが何処なのか、確かに知ってはいる筈なのだけれど、どうして今ここに居るのかは分からない。

 しかし、今はそんなことはどうでもいい。


 身体を包む柔らかい陽射し、頬をくすぐる優しい風、頭上から聴こえる恐らく小鳥の美しい鳴き声・・・

 そんな心地好さに身を任せる僕は、つい微睡んでしまいそうになるのだけれど、それ以上に深く眠りにつくことが出来ないことは、何となく分かっていた。


 僕はここで彼女を待っているのだ。

名前を思い出すことの出来ない彼女を。


いや、違う。

彼女の名前を思い出せない訳ではない。その名前を呼んではいけない気がしているのだ。理由は分からない。


 そして、『彼女を待っている』のではなく、『彼女が戻って来るのを期待している』、と言った方が正確なのかも知れない。

 何となくそう思う。

 余りにも心地の良い睡魔に思考回路を侵されている僕には、それ以上何を考えれば良いのかさえ分かってはいないのだ。


 いったい僕は何をしているのだろうか。


 そんなことを考えているのか、いないのか、ふと、遠い記憶が脳裏に浮かび上がってきた。

 まるでそれはポートレートみたいに、切り抜かれた映像が眼前を過ぎっていく。

      ◇


 雨上がりの水たまりの前に座り込んだおむつ姿の幼児。

 恐らくこれは僕だ。

 いつだったか、見たことがある写真のようだ。


 小学校の校門で、母親と並んで映るやけに緊張した面持ちの僕。


 次は膝にお弁当箱を乗せたまま、危なっかしい手つきで水筒の蓋にお茶を注ごうとしている僕。水筒の中身は無糖の紅茶だったなぁ。


 赤ん坊を抱きかかえて夕日に照らされた庭で、僕が振り返っている。

 随分と歳の離れた弟が生まれて半年ほどたった時の、夏の記憶だ。


 曇った空の向こうにうっすらと水平線と雲の切れ間に青い光が見えていて、足元には真っ黒い海に、所々白波が立っている。船の甲板で如何にもシケた表情で吐き気を堪えているのは、確か叔母の結婚式で対馬にフェリーで行った時のことだ。

 思い出した。

 子どもながらに、対馬なんて遠くの島に叔母が行ってしまうのが、とても寂しく、つまらない結婚式だったってことを。

 そのあと暫くは、たまに会うお盆やお正月にも、僕は新しい叔父さんとの接触を出来る限り拒み続けてたっけ。


 倒れ込むゴールキーパーと、その指先を掠めるサッカーボール。

 僕はネットに吸い込まれていくボールの軌道を、コマ送りのように見詰めていた。

 そして、僕の身体も次第に地面の方向に崩れていく感覚を、今も鮮明に覚えている。

 体制を崩しながら右足で放ったシュートとほぼ同時に、軸足の左足首に鈍い痛みを感じながら、そのスライディングを仕掛けてきた相手ディフェンダーのスパイクは、アディダスの三本ラインだった。


 夏のクソ熱い陽射しの中、太陽を頭上に、キンキンに冷えたポカリスウェットを差し出す鬼コーチの笑顔。


 薔薇の咲いた海を見下ろす公園で、生まれて初めて女の子とデートをした。

 とても綺麗な女の子なのだけれど、この子の名前は本当に覚えていない。

 名字だけは何となく、中嶋さんだったような気がするのだけれど・・・

      ◇


 次々と押し寄せ流れていく過去の記憶と、その時味わったであろう感覚ではあるのだけれど、僕がもっと立ち止まって思考を巡らせたいと思っても、どうやらそれはルールにないらしく、ただひたすらに次から次へとその記憶は通り過ぎていくみたいだった。

      ◇


 

 高校の制服姿の彼女が教壇に立っている。自己紹介をしているのだ。

 彼女は「道下 彩音です。よろしくお願いします」と言って微笑んでいた。

 その他に何を言ったのかは覚えていない。いや、聞いていなかった。

 僕はただ見惚れていたんだ。


 今度は僕が教壇からクラスの生徒たちを見渡していた。

 意識して道下さんから目を逸らさないと、僕の視線は彼女に釘付けになってしまいそうで、無理して首の位置を調整するのに非常に難儀を強いられていた。

 そしてしどろもどろに僕は「わ、渡辺 健太郎です。た、多分サッカー部に入ります」と、それだけ言って、まるでぎこちない動きのロボットみたいに教壇を降り、一番後ろの自分の席まで歩いたのだった。


 それからは、彼女の笑顔のポートレートばかりが次々と現れては消え、消えては現れ・・・


 僕は嬉しかったり、寂しかったり、心臓が飛び出しそうなくらいドキドキしたり、胸が焼かれるように苦しかったり・・・

      ◇


 いったい、彼女と僕の関係って?


 隣の中学から来て、高校で出会った同級生。

 これは間違いない。


 高校のクラスは奇跡的に三年間一緒で、同じ窓を共有した本物の同窓生でもある。

 これも間違いない。


 高校の男女合わせた仲良しグループみたいなものがあり、お互い同じグループに所属はしていたと思うのだけれど、彼女と僕はあまり会話をしたことがない。

 他の仲間は彼女のことを「彩ちゃん」とか「彩音」って呼び捨てにしたりしていたけれど、僕が彼女のことを『道下さんってさぁ』って仲間内で話すと、一瞬皆キョトンとして、『だれ? それ』みたいな空気になり、そのあと『ああ、彩音のことかぁ』なんてことがしばしばあった。


 高校二年の夏の終わりの頃、町の夏祭りで、彼女とサッカー部の先輩が一緒に歩いているのを見掛けたと、そんな大スクープを仲間内の誰かが持ち込んだ。

『どうやら、センパイから告白したらしいよ』

『まぁそうだろうけど、彩音はオッケーしたってこと?』

『そーよ、だから、一緒に居たんじゃないの? 私たちもお祭り一緒に行こって誘ったんだけど、他に用事があるって断られたし』

『そっかぁ、でもまあ、お似合いっちゃあ、お似合いかもな』

『そーだね、センパイ、三年生でもモテモテだし、彩音だって学年一可愛いし』

『そだな。ま、いいんじゃね?』

『けどさ、今までみたいに俺らのグループでどっか遊びに行く時さ、センパイとかも来ちゃったら、それはそれで気まずくね?』

『いや、ってか、私らと遊んでる暇無いっしょ。センパイと会うので忙しくって・・・』

『かもなぁ・・・』



 ・・・・・・・・・・・・・


 そんなことは、どうだっていいじゃないか。


 ・・・・・・・・・・・・・


 ぼくに、そんなはなしをきかせるなよ。


 ・・・・・・・・・・・・・


 だって、むねがこんなにいたいんだぜ。


 だけれども、僕にはどうすることも出来ない。

 涙する訳ではないのだけれど、胸の中のモヤモヤの理由が、どうにも分かり過ぎて、僕は吐き気さえ覚えながら、黙ってその場をやり過すしかなかった。


 嗚呼っ、今思い出してもみぞおちの辺りがモヤモヤする。


 が、しかし、

 近所のカラオケボックスで行われたその年のクリスマスパーティーには、彼女はちゃっかり参加していた。


『えー、センパイとは何にもなかったのぉ?』

『そうよぉ、何にもないってばぁ』

『ちょっとぉ、ウソでしょぉ? キスも? 何も?』

『うーん、手くらいは繋いだかも』

『繋いだかもって、あんた・・・勿体ない・・・。あんな将来の有望株、そうそう居るもんじゃないでしょうに・・・。あんたって子は・・・。いよいよあんたは全校の女子生徒から嫌われちゃうよ』

『そ、そんなぁ』

『あ、でも大丈夫。全校の女子生徒じゃなくって、私も含め、ここに居る三人の女子は大丈夫。あんたの味方だよ・・・』



 テーブルを挟んだこちら側でボードゲームに興じる僕ら6人と、向こう側に陣取る彼女と真希。

 彼女と真希のヒソヒソ話に聞き耳を立てていた訳では断じてない。

 聞こえてしまっただけだ。


 ・・・いや、正直に言おう。

 感覚的には、僕の耳はダンボと化していた・・・


『おい、渡健、次、お前の番』


 テーブル向こうの彼女がふと顔を上げ、こちらを見たような気がした瞬間、僕は慌てて目を逸らし、渡されたサイコロを握り締めると、その拳を振り上げて、


『よっしゃあ、これから俺のターンっ』

 誰かが『なんだそれ?』と、笑いながらツッコミを入れてきたが、それには構わず、


 そして勢いよくサイコロを振る。


 果たして出た目は・・・

 三のゾロ目で、六。


 いち、にぃ、さん、しぃ、ごぉ、ろく・・・


『投資詐欺に引っ掛かり、破産。スタートに戻る』


 一瞬間があって、僕以外の男子三人と女の子二人がクスクスと、それから次第にゲラゲラと大笑いに変わっていく。

 僕も釣られて笑いの渦に巻き込まれ・・・

      ◇


「ごめんなさい、随分待たせちゃったね。化粧室、大分混んでて、時間かかっちゃった。あれ、ひょっとして寝ちゃってた?」


 ボンヤリと彼女の姿が見える。


「あ、いや、うん、ちょっとウトウトしてたかも知れない。けど、大丈夫。もう目が覚めた」


「ほんとぉ? ちょっと飲み過ぎた感じ? それとも年末忙しくて疲れてた?」


 僕は咄嗟に否定する。


「いや、飲み過ぎでもないし、疲れてもいないよ。そもそもビールたったの二杯で酔っぱらう僕じゃないのは君だって知っているだろ? それにさ、忙しさだって一昨日までで、昨日と今日は充分に休養したから、疲れてもいないよ。ただちょっと・・・」


「『ただちょっと・・・』、なに?」

 少しだけ、彼女の含み笑いが悪戯っぽく見えたのは気のせいなのだろうか。


「うん、ちょっと、夢を見ていた気がする。昔の、思い出みたいな・・・」

「なにそれ、ちょっとロマンチックな言い草じゃない」


 その時、店内の照明が一斉に消え、恐らく今日の為に設置された大きな壁掛けの電光掲示板に、カウントダウンの数字が表示された。


 数字は、一つずつその数を減らしていき、


 そして、大合唱が始まる。


『・・・5・・4・・3・・2・・1・・、A Happy New Year !!!』


 ゼロカウントと同時に、バーカウンターの花火が点火され、店内はオレンジと白い光で照らされた人々の笑顔で溢れている。


「明けまして、おめでとう。今年もよろしくお願いします」


 彼女と僕は同時にそう言って微笑み合った。


 それから僕は意を決して次の言葉(名前)を丁寧に音にしてみる。


「あやね・・・、彩音さん・・・」

「・・・・・・」

「あの、なんだ、その・・・、つまり、今年は『道下さん』はもう止めにして、僕と同じ苗字に・・・」


 ダメだ、もうしどろもどろだ。

 だけど。


「そう、つまりは、今まで僕は君のことを『道下さん』って呼んでいたけど、苗字が一緒になっちゃえば、彩音さんって、呼ぶしかない訳で・・・つまり・・・」

「つまり?」


 ああっ、やっぱり彼女は悪戯っぽい目をしているっ。

 でも、もう引き返せない。


「つまり・・・、彩音さん、僕と結婚してくださいっっっ」


 つい大声を出してしまった。30歳を前にした大人のすることじゃない。いやぁ、こっ恥ずかしいなんてもんじゃない。

 しかし俯いてもいられない。

 彩音の答えを確かめなければ。


「うん。よかった・・・あたりまえじゃない」

 そんな強がった風な返事をした彩音の右の瞳から、一筋の涙が頬を伝った。


 どこからか『ピューっ』という指笛と『おめでとうっ』の叫び声が溢れ出し・・・、そして・・・

      ◇


 結婚式の友人スピーチで、僕が十数年間も彩音のことを『道下さん』と呼んでいたことを暴露されたが、僕が彩音のことをずっと好きだったことは、周りの人間にはまる分かりだったそうだ。

 お恥ずかしい・・・。


 彩音の友人代表の真希が、彩音に質問をする。


――彩音さんは、健太郎さんが貴女のことを好きなんだって、気付いていましたか?

「はい、何となく」


 くそっ、涙が出るほど恥ずかしいっ。


――でも、ずっと告白されるでもなく、お付き合いしているような感覚でもなく、随分と長い時間でしたか?

「ええっと、でも、それでも仲の良い友達みたいな・・・、色々と相談に乗ったり乗って貰ったり、楽しく遊びに行ったり・・・、だから、長いっていうよりは・・・。そう、親友みたいな感じでした」

――私たちよりも?

「それはちょっと・・・」


 笑いを含んだブーイングに、真希がやれやれと言う風に両掌を上に向けて肩をすくめると、式場は一気に爆笑の渦に包まれた・・・。

      ◇


「ねぇ、健太郎、訊いても良い?」

「良いよ」

「あの時さぁ、何の夢を見てたの? あのプロポーズしてくれた大晦日の日」

「ああ、あの時かぁ・・・。さぁ、何だったのかねぇ、色んな思い出だったような」

「・・・こんなのあった? 確か、高校生の時、カラオケボックスで・・・」

「!っ 彩音、君は超能力者か? いや、魔法使い?」

「ううん、そう言うんじゃなくって、ただ何となく、ね」

「有った。有ったっていうか、そこで目が覚めた。・・・『俺のターンっ』ってブッこいて、スタートに戻って・・・。ははは・・・。でも、よく覚えてたね」

「うん、あの時健太郎が『俺のターンっ』って叫んでたのが何だかずっと忘れられなくって。可笑しいね、何でだろう?」

「うん、可笑しいのは、それでいて、振出しに戻っちゃうっていう、何とも間抜けな、可哀想が過ぎる、『僕、健太郎』」

「あはは、なにそのドラえもん風の言い方、あはは」

「ああ、笑ってくれて良かった。ダイヤモンドダスト発動したらどうしようかと思った。ん? ダイヤモンドダスト、それは知らない? 失礼しました」


「でもさぁ健太郎、私、あの時が始まりだっったって、そんな風に思ってるの・・・。何となく、貴方を意識し始めたのが、あの時みたいな気がして・・・」

「それでもずっと『道下さん』『渡辺くん』のまま・・・。長かったねぇ、俺たち・・・」

「ううん、でもここまで来れたし、ここからまた二人のスタートで良くない?」

「ああ、そうだね。きっとこうなることは決まっていたのかも知れないし・・・」

「ええ、きっとそうね・・・」


「それでね、出来たみたいなの」

「? ほんとに?」

「ええ、本当に」

「それは良かったっ」

「また、新しい『スタート』になるわね」

「なるね。楽しみだ」

      ◇


 僕は彩音の肩を抱き寄せ、暖かい陽射し、心地好いそよ風、そして幸せな気持ちに包まれて、遠い遠い草原のその先を見詰めていた。



             おしまい

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すたと ninjin @airumika

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