拘泥の人

@mochimochi_pm

本編

 太陽は暴力だ。

 あらゆるものを浚ってはみな平等に照らしだす。その赤ら顔は、毎朝飽きもせず山脈の峰から顔を出しては草原を照らし、家畜を追い立てる。私は日の当たらない天幕の中、それをいつも怯えて待っていた。


「婆さんが死んだ」

 朝、羊の乳を火にかけ朝食の準備をしていた時、近所の天幕に住む幼馴染が転がり込んできた。

 黒髪に付いた寝ぐせもそのままに、焦りに歪むその顔を覗き込む。朝の冷える空気に、鼻が少し赤くなっていた。

「もう少ししたら、僧がやってくる」

 火を消し、手を服の裾で拭いながら幼馴染に向き直る。小刻みに揺れている彼の手を取り、ある種の祈りを込めて背中をさすった。

「大丈夫、きっとまた会えるさ」

 幼馴染を慰めながら部屋に二つある寝台の内、私のものに座らせる。

「婆さんの顔、ちゃんと見れたか?」

 幼馴染は首を横に振る。日に焼けているはずの顔は蒼白で、握った手が細かく震え始めた。

「でも」

 唇が震える。

「でも、眠ってると思ったんだ。苦しんだ様子もなくて、だから……」

 手を握り返される。まめが何度もできては潰れた、固い手だった。

 草原の冬は寒い。その寒さの中息を引き取れば、残った体温も全て奪われてしまうことだろう。

「人間が、あんなに冷たくなるなんて……」

 再び強く手を握られる。人間の柔らかさと温かさをかき集めるように強く。縋るようなその手が、少しだけ嫌だった。

「私が代わりに婆さんの顔を見てこようか」

 そう言うと、幼馴染はまるで迷子になった子供のような顔で私を見つめ返した。さらに強く握りこまれた手が、行かないでくれと何よりも強く語っている。

「頼む、側にいてくれ」

 無理矢理振りほどくのは不可能だ。そう思わせるほど、私の手を強く握られている。体内の血が全て拳でせき止められているようだ。

 ため息をつき、幼馴染の隣に腰掛ける。徐に幼馴染が私の体を抱き寄せた。少し苦しい。私の肩に埋めた頭から鼻をすする音が聞こえてくる。随分、祖母の死が堪えたようだ。

 しばらくの間、その体勢のままでいた。何か言葉を掛けようかとも思ったが、今はただ静かにしておいたほうがいいとも思った。自由になった手で背中をさする。

 ようやく落ち着いたのか、幼馴染が顔を上げた。涙でぐちゃぐちゃの顔だった。それを袖で拭っている。再び顔を上げた幼馴染は、眉尻を下げ、顔の筋肉を強張らせながら無理矢理口角を引き上げた。幼馴染の緑っぽい瞳に涙が揺れる。その熱い口唇が次に紡ぐ言葉を心底聞きたくなかった。

「ありがとう」

 耳鳴り。

 幼馴染の顔が、霞んで見えない。前後不覚になって、背中に嫌な汗が伝う。

「ドルジ!」

 詰まっていた息が吐き出される。耳鳴りも、視界の霞みもいつの間にか消えていた。

 外から名を呼ばれた幼馴染がそれじゃあ、と私の肩に軽く手を置いてから外に出る。外の喧騒が一瞬滲んできて、再び静寂が戻る。足元を冷気の一塊が食んでいった。

 人はあまりに容易く死んでいく。何かの拍子に破れるように死んでいく。肉体の死も、精神の死も、同じように訪れる。

 両親は二人とも病で死んだ。体中に泡ができる病だった。泡は腫れ、破れ、爛れ、血を流し膿み、罹患した者は高熱と共に苦しみながら死んでいった。人々が恐れたのは、その症状の凄惨さもさることながら、それが人から人へと伝染する病である点だった。一族のみんなは病が広がることを恐れ、両親を生きたまま風葬に掛けることに決めた。風葬は、馬や馬車に死体を乗せて、それが自然と落ちた場所で供養する方法だ。

 そうして、高熱で動けない両親を乗せた馬車は、その日のうちに出発した。

 私がまだ十一歳の夜だった。その日の内に、兄と連れ立って両親を追いかけた。兄に手を引かれて、何度も転びそうになりながら両親が落ちている場所に走って行った。

 獣は、病でできた泡を好むそうだ。

 両親に群がる獣の足の間から覗く目が、生きていたのか、死んでいたのか、それは今も分からない。

 兄はそれきり、両親のことを話さなくなった。七年もの間毎日黙々と働いては、ひと月前にどこかへと消えた。

 炉の中の薪が跳ねる音がする。埃に塗れた寝台を眺める。鈍い感情が心臓を侵す。食欲はとうに失せ、山羊の乳が入った鍋に蓋をした。

 外から声を掛けられる。幼馴染の声だった。しぶしぶ外に出れば再び寒さが頬を刺す。すっかり赤ら顔に戻った幼馴染が私を見下ろしていた。

「風葬にかけるそうだ」

 翡翠がこちらを見下ろしている。何の屈折も感じない、まっすぐな瞳だ。きっと、私を関係者と数えるが故の報告なのだろう。ただ純粋に、そう信じて私に声をかけたのだ。

「……そうか」

 顔が強張っていたかもしれない。声も固かった。

「今日、滞りなく葬式が終わったら明日様子を見に行くんだ。その時に、もしよければ一緒に来てくれないか。馬なら、俺が駆る」

「……構わない」

 声を絞り出す。腹が震える。足が細かく痙攣して、少しずつ足裏と地面の感覚が剥離していく。

「ありがとう。お前がいてくれてよかった」

 幼馴染の顔を見ることができなかった。


 耳朶を水が揺らす。重い瞼を開ければそこは湖。水鏡が私を取り囲んでいる。目の前に横たわる私の手首に小さな泡が生まれている。ぶくぶくと、皮膚の下を空気と体液が踊っている。肌が波打って私の筋肉と骨に噛みつく。あばらの内を大量の虫が泳いでいる。羽音が鼓膜を揺らす。水鏡に映る私の顔が節足の形にずるりと揺れて、その足跡を泡が追っていく。顔が崩れる。父と母が水鏡の彼方から手を伸ばしている。よくも見捨てたなと睨んでいる。思わず開けた口からは言葉の代わりに百足が這いだし、その長身を水面に強かに打ち付ける。溺れて暴れるその百の足に水面が掻き乱された。自分の顔がどんどんわからなくなる。

「おい」

 体が跳ねた。

 止まっていた呼吸を取り戻す。汗が頭皮を伝って行く。心臓が胸骨を強く叩く。視界の八割を幼馴染が埋め尽くしている。見開いていた瞼の力を抜き、軽い息切れの中、気怠い腕を動かして男の肩を押しのけた。

「悪い、とてもうなされていたから思わず」

 片手で顔を覆いながら首を振る。上体を起こして自分の体の隅々を確認した。泡はない。夢。脱力感が肩に伸し掛かる。

「……もう行くのか」

 朝の空気を取り込みながら男に顔を向ける。

「ああ、もうそろそろ……。でも大丈夫か? 顔色、悪いぞ」

「いつものことだ。気にしなくていい」

 襟を正して帯を締めなおす。じっとりと汗ばむ額を袖で拭う。視界の端で顔を顰める幼馴染を捉え、言い方を間違えたと悟る。

 何か言いだしそうな男を避けて昨日のうちに用意していた弁当と、以前行商で買ったランプを抱える。

「なあ、朝飯は」

「いらない」

「いらないって……」

「もう貯蓄が少ししかないんだ」

 男が押し黙る。もうじき冬が明ける。冬が明ければ天幕は移動し、家畜たちを引き連れて春を迎える。この家には少しの干し肉と乳製品しか残っていない。次の移動に私が付いていけるのか、兄はいつ帰るのか、様々な不安が足元を浸す。

「これ食えよ」

 後ろから伸びた手に何かを口に突っ込まれる。軽く噛んで味を確かめればそれは干した牛肉だった。

「うちはちょっと余裕が出たしさ。あと帯、もっときつく締めないと、内臓が気持ち悪くなるぞ」

 黙って固い肉を咀嚼する。その間に帯を再びきつく締めなおされる。乗馬の振動で内臓を壊す人間がいることを頭の隅で思い出す。

「なあ、お前、やっぱうちに来いよ」

 男の手が私の腹に触れる。そのまめに覆われた大きな手で私の腹はほとんど覆い隠されてしまった。

 兄が失踪したひと月前から、何度も居候の誘いを受けていた。一人になった私を慮ってのことだった。

「……いや、いいよ。兄がいつ帰ってくるかもわからないんだ。それに、お前はそろそろ嫁を貰うだろう。私がいては邪魔になる」

 幼馴染は再び口ごもる。兄の帰りを待っていることも噓ではなかったが、それよりもこいつと四六時中共にいることに耐えられそうになかった。

「お袋にも言われたよ」

「結婚のこと?」

「そう。そろそろ、ってさ。でも俺、そんな気まったく無くてさ」

 裏の天幕の少女がこのドルジという男に懸想していることを、私は知っていた。その少女だけじゃない、一族の同世代の女はみなこの男を好意的に捉えている。きっと、しようと思えば今すぐにだってできるだろう。

 一度に食べきれない干し肉を片手で持ち直し、遠出の準備を再開する。幼馴染は手荷物を傍らに置き、無遠慮に私の寝台に座り込んで暇そうにこちらを見つめている。編んだ長髪を胸元に垂らし、その黒色が深い色の服に馴染んで毛先が掻き消えているようだった。髪も馬のたてがみの様に美しいが、顔付きもまた精悍だ。その魔除けの朱を入れたまなじりに柔らかく笑い皺が寄れば、誰であろうとつられて笑顔になった。言わば、他人を引き摺る才能がある男だった。

 目を逸らす。毛布を手に取り、肩に掛ける。口布と毛皮でできた温かい帽子も身につけ、防寒対策を整える。行こう、と声をかければ、幼馴染は一瞬の間を置いた後、あ、と声を漏らした。

「悪い、忘れ物した」

「え?」

「すぐ戻る! 寒いから家の中で待ってくれ!」

 何かを言う間もなく、幼馴染はさっさと部屋を出て行ってしまった。手持無沙汰になり、自分の寝台に腰掛ける。尻にまだ幼馴染の体温が残っていて少し嫌だった。

 暇つぶしに机に立ててある本を手に取る。全て兄が買ってくれたものだった。既に擦り切れるほど読んだが、もう一度ページを開く。

 突如、どんどん、と扉が叩かれる。外から幼馴染の声で「待たせたな!」と聞こえてきた。随分早い。

 本を机の上に置きなおし、もう一度身支度の確認をして、未だに叩かれている扉を開いた。

 外に出れば変わらず草原の冬が容赦なく体を締め付けてくる。目の前には幼馴染が茶の毛並みを持つ馬の手綱を引きながら立っていた。

「去年生まれたばっかの若い奴なんだ」

 初めての遠出だ。その言葉に馬は小さな鼻息で応える。柔らかな皮膚の下、筋肉と骨が強靭に脈動している。長い睫毛に縁どられた瞳が煌めいて、痛すぎるほどの純真を私に向けていた。

「忘れ物ってそれか?」

 そう聞けば、ドルジはああ、と答えた。

 馬は苦手だった。子供の頃、父の腹に背を預けて乗ったこともあったが、いつも何かの拍子で自分が転がり落ちないか不安だった。

 袋に入った荷物を無造作にこちらへ渡し、幼馴染がひらりと鞍に飛び乗った。私も伸ばされた手を掴んで幼馴染の前に乗りこむ。体の前に幼馴染の腕が伸ばされその手が馬の手綱を握り込んだ。

「お前、やっぱり小さいな」

 幼馴染の低い声が頭上から降る。少しむかっ腹が立って馬のようなその太ももを平手で思い切り叩いた。苦笑交じりに悪かったよ、と言われる。私の平手はまるで効いていないようだった。

「馬に乗るには背が低い方がいいっていうし、悪い事ばかりじゃないさ」

「私は滅多に馬に乗らない」

「そうだったな。お前の兄貴か、すごかったの」

 馬がゆっくりと歩き出す。周囲には誰も見当たらない。より深く顔面を隠すように口布を引き上げる。

「裸馬に乗れるし、馬もあの人のこと大好きだったしさ。憧れだったよな」

 兄は馬に愛された人だった。鞍も手綱もつけていない裸馬を駆ることはとても難しい。乗ることはできても走らせることが特に厳しい。騎馬民族である我々でも、そんな芸当をやってのける人物はまれだった。

 風に草原がそよいで揺れて、その中を大きな裸馬に乗った兄が駆けていく。まるで海を割り進む船のように。夢のような光景だった。

「とても美しい人だった」

 馬は既に走りだしていた。なるべく体重を後ろにかけ、投げ出されないように鞍を片手で掴む。

 低い雲が風のままに流れていき、影が私たちに並走する。白い雪を冠る山脈が遠くに連なり、なだらかな丘隆がこちらに押し寄せるようだった。その波の纏う草原が瑞々しく、嫋やかに煌めいている。

 ランプの中に火を入れる。悴む指先を小さな火種で温めながら、荷物を片手で抱きしめる。

「気をつけろよ、中に酒が入ってる」

「供え物?」

「ああ。婆さん、酒飲みだったから」

 規則的な振動に時折体や荷物が浮く。その拍子に香る酒の匂いに少し顔を顰める。酒は好きじゃなかった。強い風が吹く。酒の匂いが緑葉の香りに押し流された。煽られた口布の下が外気に触れる。籠った熱も全て攫われていくようだった。

「寒いな」

 頭の上で鼻の啜る音がする。一息置いた後、なあ、と声と共に幼馴染の顎が私の帽子をこする感触がする。

「ちょっと飲もうぜ」

「……供え物なんだろ」

「ちょっとなら許してくれるって」

 早く早く、とすっかり酒を飲む気になった幼馴染が私を急かす。帽子越しに顎でつむじをぐりぐりと押され、仕方なく袋の中から酒を取り出した。家畜の胃袋を乾燥させた袋の中で液体が揺れる。栓を外し、両手がふさがっている幼馴染の代わりに口元に酒を寄せる。水筒を傾ければ、大げさに嚥下する音が間近で鳴る。

「ああ、うまい」

 しみじみと幼馴染が零す。ふわりと酒の匂いに混じって乳の気配が立ち香る。三分の一ほど中身がなくなった水筒に再び栓をした。

「そろそろのはずだ」

 僅かに酒気の混じる声が低くなる。両親の死体が瞼の裏に蘇った。獣の気配がそれをさらに深く侵す。

 草原は次第に山道に姿を変える。馬の蹄の地を打つ音も、高らかに鳴り響き始めた。山から吹き下ろす風が殊更寒く、強く私たちの体を突き刺していく。向かい風に眼球が乾く。荷物と一緒に鞍を掴んで縮こまる。目をきつく閉じ寒さに耐えていれば、徐に馬が立ち止まった。目を開ける。抱えていた荷物を徐に取られ、幼馴染の頭が私よりも下にあることに気づく。下馬した幼馴染は沈痛な表情をしていた。

 私も幼馴染にならい馬から下りる。馬は長く走っていたが、息の一つも切れる様子はない。むしろまだ走れるぞ、と言わんばかりに目を輝かせ足踏みをしている。

 そんな馬とは裏腹に、背後に伸し掛かる重い気配。振り返らずとも理解できる。きっと今体を反転させれば、そこには地べたに寝そべる幼馴染の祖母がいるはずだ。恐らくすでに、獣に食い荒らされたそれが。

 読経が聞こえる。所々うろ覚えなのか危うい箇所もあるが、落ち着いたその声は確かに死者の魂を慰めているようだった。私は好きでもない馬の体を、時間をかけていたわり、その読経が止むのを待った。

「よかった」

 ぽつり、と零される。肩越しに横目でその様子を伺う。大きな背中が縮こまっていた。その向こうに、それはあった。

 肋骨が咲いていた。乾き、生の湿りを感じない骨が、肉の中から突き出していた。綺麗に布にくるまれていたであろうその肢体は、恐らく獣に荒らされていた。顔を見ることができない。じとりと湿る首筋が硬直し、その胸部と四肢より上を見ることを拒絶した。

「まだ一晩しか経ってないのに、だいぶ食われたな。婆さん、良い人だったし」

 当然のようにそうつぶやく幼馴染に吐き気が募る。

 風葬に掛けられた死体は獣に早く食われれば食われるほど、生前潔白な人物であり、一等早く来世を迎えると言われていた。みなそれをよいことだと思っている。しかし、もしそうならば、死ぬ前に獣に食われた人間はどうなるのだろうか。

「婆さんの様子が見れてよかった。ついてきてくれて助かったよ」

 幼馴染が立ち上がる。その足元には僅かばかりの食べ物と酒。それ以上何をするでもなく、幼馴染は無感動とさえ思えるほど身軽に馬に飛び乗った。私が再び馬に乗り、出発するまで幼馴染の目がもう一度その死体を映すことはなかった。


 家に戻ると、少しばかり騒々しかった。大人も子供も皆天幕から出て、ある一点に人が集中している。幼馴染もその騒ぎに気付いたらしく、怪訝そうに「なんだ?」と声を漏らした。

「ドルジ!」

 昨日も聞いた声がこちらに向かってくる。恰幅のいい体を揺らしながらこちらに走ってくるのは、幼馴染の母親だった。焦った様子のその顔を見て、私は少しの脱力を感じながら馬から滑り降りた。おい、と幼馴染が私に声をかける前に、その長い髪を母親に掴まれる。

「あんたどこ行ってたんだい!」

 そんな怒号に言い訳を並べ始める幼馴染を尻目に、人だかりの方へと歩いていく。一族の皆の曇った表情を見るに、よくない事が起きたのだろう。ここで起きた事はきっと私にとっても無関係ではない。確認したほうがいいだろう。

 どこかに空きはないかと人だかりの周りをうろうろとしていると、その中にいた少女と目があった。確か幼馴染の天幕の隣の娘だった。あ、と声を上げる間も無く、その少女は汚物を見るような不快そうな表情を一瞬滲ませ、私から距離をとった。その際に周囲の友人らしき人物に耳打ちをし、その人物がまた別の誰かに耳打ちをし、とざわめきが少しずつ静かになっていく。

 周囲の目が私に突き刺さる。なるべく触れたくない、同じ空間にいたくない、そんな気持ちを隠そうともしない目付きだった。

 その視線が不快で、居た堪れなくて、帽子を深く被り直し、ほとんど反射的に自分の天幕に逃げ帰ろうとする。しかし、その一瞬、視界の端に映ったそれに、私は思わず足を止めた。

「兄さん!」

 考えるよりも早く、足と口が動いていた。

 人だかりの中心にいたのは、失踪した兄だった。うつ伏せに倒れ込み、靴が片方脱げている。裸足の足はひどく汚れており、何があったのか髪が真っ白になっている。しかし、足と同じく汚れている帽子と服は間違いなく私が仕立てた物だった。緑に横たわる兄に駆け寄り声をかける。反応はない。脳裏に嫌な予感がよぎる。いや、違う。寝ているだけだ。疲れ果てて眠っているだけなのだ。そう言い聞かせ、兄の体に触れた。

 冷たい。

 まるで石でも触っているようだった。血の気が引いていく。心臓が耳元で鳴る。腕に力を込めて脱力しきった重い体を起こす。どうかせめてと、穏やかな寝顔を期待していた。

「見るな」

 途端、視界が暗くなる。頭上からは重々しい幼馴染の声。周囲から小さな悲鳴と、悲痛な叫びが噴出した。

「やめろドルジ! お前までうつるぞ!」

 その言葉はまるで冷や水のようだった。あんなにうるさかった心臓の音が、耳鳴りにかき消される。

 兄の身に降りかかった不幸の正体を理解してしまった。私はまた、家族を奪われたのだ。


 兄の顔は酷いものだった。瞼も、鼻も、口元も、顔中が水疱に覆われ、元の人相がわからなかった。兄を天幕に運ぶ際、周囲の人間に嫌悪の篭った何某かを言われた気がするが、覚えていない。僧の読経を背中で聞きながら、私は兄が安置されている天幕の前に座り込んでいた。

 私の顔には、一度できた水疱がしぼんだ跡がある。両親が病にかかった時、私も同じ病に侵された。しかし、天は何を思ったのか、私だけを生かしたのだ。

 周囲に人影は見当たらない。いつもそうだった。私の顔に走るあばたを、私の家族を侵した病の影を、他の者は皆怖がっていた。

 僧が天幕から出てくる。ちらと私を一瞥し、軽く会釈をしてさっさと離れていく。坊主であっても病への恐れは払拭できないようだった。

 兄の顔をもう一度盗み見ようかと逡巡していると、くぐもった怒鳴り声が聞こえてくる。出所を探れば、幼馴染の天幕からだった。耳をそば立てる必要もなく、聞こえてくるその内容は私との交友を咎めるものだった。それに怒りや悲しみが無いわけはなかった。しかし、あの頑健で働き者の男が万が一病気になったらと、懸念する彼の両親の気持ちも痛いほどよくわかった。

 私は逃げるように、本来禁止されている兄が安置されている天幕に滑り込んだ。中は線香の匂いが満ち、呼吸する者がいない空間特有の静けさがあった。寝台に横たわる兄の顔を覗き込む。相変わらずその人相は崩れていて判別がつかない。

 それでも、崩れた顔も、汚れた体も、何もかもが一等愛おしく思えた。その分、その愛おしさを失った悲しみが轟々と心を揺らした。

 兄に両親と今朝見た幼馴染の祖母の姿を重ねる。獣に食われ、骨も肉も全てが露出し、後に何も残らず、この草原の一部となる。良いとされるその最期が、どうしても耐え難く思えた。

 私の中に一つの衝動が生まれた。あまりにも強烈で、抗い難い衝動。それは、ある種の独占欲。

 兄を背負う。とてつも無い重さだったが、不思議と普段では出せないような活力が湧き上がり、易々とその体を天幕から運び出すことができた。外に出ると空は既に赤く染まり、夜が山脈の向こうから手を伸ばしていた。

 人に見つかるとまずい。少しでも死角の多い道を選んで兄を運ぶ。幼馴染の天幕の裏を通りかかったとき、今朝私と幼馴染で乗った馬が他の家畜に紛れて草を食んでいた。少し考え、柵に繋がれていた馬の手綱を解く。鞍には今朝の荷物がまだ残されていた。

 筋肉が迸る馬の尻に兄を乗せ、私もその背中によじ登る。主人では無い人間に乗られ、馬が激しく嘶き、後ろ足で立ち上がり私達を振り落とそうともがく。周囲の羊も、老馬も、暴れる馬を嫌がって各々鳴き声を上げ始めた。なんとか兄と馬の手綱を握って落ちないようにしがみつく。しかし家畜たちの尋常ではない様子に流石に天幕の中の人間も気付いたらしく、気配が慌ただしく蠢き出す。

 時間がない。帯を解き、兄の体と自分の体を括り付ける。

「おい、何やってんだ!」

 天幕から顔を出した幼馴染の父親が怒鳴りつける。その声に驚いた馬が一際強く嘶く。手綱を握りこみ、意を決して馬の腹を蹴った。

 ぐん、と慣性に投げ出されそうになる。普段使わない筋肉を酷使したことで腕に疲労感がのし掛かる。馬は混乱したまま走り出し、中々真っ直ぐ走らない。その度に手綱を引き、腹を蹴り、手探りで馬を制御する。次第に下から突き上げられる感覚とあまりに早いその速度に気分が悪くなってくる。それでも私は走らねばならなかった。


 既に日は沈んでいた。馬は蛇行しながらがむしゃらに走っていた。私はどこに進んでいるのかわからなかった。月と星に照らされ、光で輪郭をあらわにする草原が、目も霞むほど遠くまで続いていた。

 口の端から白い息が漏れる。指先の感覚が寒さに殺されていく。自分の影にさえ追い立てられるようだった。

「おい!」

 駆け抜ける風の中、微かに声が聞こえる。背中が焼かれるように熱い。錯覚だ。振り返らなくても、耳を傾けなくても分かる。私を追うのはあの男しかいない。

「止まれ! おい!」

 先ほどより声が近くなる。きっともうすぐ追いつかれるだろう。あれほど元気だった馬も、無茶に走らせたせいですでに息が上がっている。いっそのこと殴りかかろうか、それとも馬の尻を思い切り引っ叩いて、後ろ蹴りをさせようか、そんな暴力的な抵抗ばかり思いつく。だのに、腕はまるで石になったように動かない。頭の隅で、どうせ逃げ切れやしない、と諦めが零す。ついに、肩に手がかかる。

 反転。力の入らなくなった体はいとも簡単に馬上から転げ落ちる。腰の帯が外れ、兄の体が宙を舞う。すり抜けた手綱がはためいて、馬の蹄が睫毛をかすった。衝撃。息が詰まる。脇腹のあたりがぽっかりと空白になったように無痛になり、その直後筋肉が収縮するようにその空白を縮めようとする。息ができない。異常をきたす五感の内、鼻だけが草と土の匂いを受け取っていた。惨めだ。胸の内がまるで嵐のようにうねる。抑えられない涙がどろりと溢れ出る。脇腹を抑えて、ただ蹲ることしかできない。このまま土になってしまいたかった。

「おい」

 月明りを遮られる。卑屈に空を睨め上げれば、そこには幼馴染がいた。こちらを見下ろしている。肩が上下していて、少し辛そうだ。

「帰ろう」

 大きな手が再び私の肩に触れる。厚い毛皮の服越しでも、その掌が燃えるように熱い。

「帰るって、どこにだ」

 手が少し強張った。涙声に動揺したのだろうか。

「俺たちの、家にだ」

「家などない」

「ないなら、俺のところに来ればいい」

「そこも私の居場所ではない」

 溢れた涙が耳輪に溜まる。鼻水をすする。声はみっともなく震えていた。

「放っておいてくれ、もう、兄と一緒に眠りたいんだ」

 となりに幼馴染が膝をつく気配がする。腕が覆いかぶさってきて、存外優しい手つきで脇腹に触れられる。栄養失調の痩身は、当たり前のように抱きかかえられた。力の入らない腕で闇雲に押し返す。大した抵抗にならない。重い毛皮の帽子が私のつむじを滑って地面に落ちた。汗をかいていた頭が夜風に冷えていく。手探りで兄の体を探した。

「それは、お前の兄ではないよ」

 風が止む。置いていかれた涙が頬を伝う。明瞭になった視界に幼馴染の顔が被さる。

 唇があたたかい。

 脳味噌が事実に追いついて、電撃的な拒否反応が迸る。倦怠感の残る腕に力を籠め、今度こそ押し返す。びくともしない。嫌だ、そう言おうとして開いた口唇の間を大きな舌が滑る。あっという間に奥まで押し込まれたそれに、放とうとした言葉ごと私の意思は力づくで抑えつけられる。顔を逸らして、舌から逃れる。冷たい空気が瞬間的に肺を満たす。咳き込む暇もなく、今度は両手で顔を抑え込まれ、再び深く口づけられた。

 いつの間にか背中は地面に押し付けられ、その上にあの大きな体が隙間なく覆い被さっている。幼馴染の太ももに乗り上げ、投げ出された足をばたつかせても、何の効果もなかった。完全に閉じ込められている。まるで別の生き物のように口内を舌が荒らしまわる。

 怖い。

 力で叶わない、口も塞がれて声も出せない。何もできない。せめて、と舌を動かしても、嘲笑うようにねじ伏せられる。

 口角から唾液が溢れる。私のものよりずっと大きな舌が、歯列を、唾液腺を、上顎を、味わうように蹂躙していく。酸欠に指先の末端がしびれていき、視界が明滅する。縋るように幼馴染の髪を掻き抱けば、ようやく解放された。

 疲労感に体中が脱力する。まともに息ができているかも分からない。涙で滲む視界に、眩しい程の月が瞬いている。

「俺の名前を呼んでくれ」

 視界が傾ぐ。黒髪が頬を擽る。もう一度きつく抱きしめられる。泣きそうな声だった。頬にあの熱い唇が落ちてくる。私はその言葉に答えることができなかった。

 沈黙。風はなく、人間の矮小な息遣いだけが響いている。私を閉じ込めているはずの体が震えている。

「お前も、私の名を呼ばないな」

 声を発してはじめて、唇がしびれていることに気づいた。

「怖いんだ」

 幼馴染の背中が震える。

「お前に嫌われたら、生きていけない。でも、お前が俺から距離を取りたがっていることも、分かってた」

 私は答えない。事実だからだ。

「俺がお前の名前を呼ぶ度、苦しそうな顔をするんだ。そんな顔見たくなかった、なのにお前から離れて生きる自分も怖かった」

 その端正な顔が持ち上がる。情けない泣き顔だった。いつも快活にたわんでいた目元はあまりに多くの涙を流していて、目元の朱と混じって血のようだった。

「泣くなよ」

 その涙を拭う。今まで太陽のようだと、そう忌み嫌っていたはずなのに。目の前のそれは、子供のようだった。

「ドルジ」

 名前を呼ぶ。暗闇の中でもきらきらと瞬く翡翠色の瞳が揺らぐ。

「バトヤバル」

 名前を呼ばれる。思えばもう長く、名を呼ばれることもなかったのだと、その瞬間に初めて気が付いた。

 今度は抱え込まれるように抱きしめられる。赤ん坊が母の乳房に取り組ように。この男は太陽だ。その太陽は今、あまりに弱弱しく、私の腕の中で震えている。その熱が先程はあんなに怖かったのに、今はその温かさに安心さえ覚えていた。


 兄を供養した場所は、意外にも集落からほど近かった。随分長い間馬を走らせていた気がしたが、どうやら蛇行が多かった分、直線距離はたいしたことが無かったようだ。そのおかげもあってか、これ以上馬に無理をさせることなく、二人そろって歩いて帰ることができた。

 帰ってきた私たちを待っていたのは酷い怒号だった。特にドルジの父親は一際怒り狂っており、殴られそうになった。それも仕方ないと覚悟したが、その拳はドルジによって阻止された。

 そこからが大変だった。体格のよい男二人の取っ組み合いの大喧嘩が繰り広げられ、その有様にますます自分の浅慮を恥じる次第だった。結局、その場は馬が無事に帰ってきたこと、身内が急死したこと、その弔いに行っていたということにした上で、平謝りして許してもらった。

 まだ冷える自室、すっかり日常の顔となった家の中、私は一人で縮こまっていた。炉の前で吊るして乾燥させていたチーズを小さく齧る。あの後、兄の体は布にくるんでその場で供養した。明日また様子を見に行くかとドルジに問われたが、どうにもそんな気持ちにはなれなかった。

「バトヤバル、入るぞ」

 背中を向けていた入り口から声がかかる。ドルジの声だった。どうぞ、と簡素に返事をすれば、冷えた空気が背中に伸し掛かる。覚束ない口元でチーズを齧っていると、不意にどすん、と床が揺れる。

 思わず振り返れば、そこには大荷物を足元に携えたドルジが立っていた。

「……なんだ、その荷物」

 ようやく絞り出した声は間抜けなものだった。その問いに顔を腫らしたドルジは鼻息で応えた。

「お前と一緒に住む。お前がこっちにこられないなら、そうするしかないだろ」

 思わず眉間にしわが寄る。何? と聞き返しても、やはり「お前と住む」しか返ってこない。

 ドルジはさも当然のように埃を被った寝台に腰掛け、荷解きを始める。昨日のしおらしさは一体どこへと行ったのか、と呟く己の横に、そうだこいつはこういう奴だった、とあきらめの声を上げる自分もいた。太陽とは暴力的で、一方的で、強引なものなのだ。私はまさしく、この男の太陽がごとき一面が嫌いで仕方がなかった。

「私に出て行けと言われる心配はないのか」

「優しいお前がこんな寒空の下、勘当された幼馴染を追い出すわけないさ」

「……勘当?」

 まじまじとドルジの顔を見上げる。私の視線をどう受け取ったのか、幼馴染は照れくさそうに痣が目立つこめかみを人差し指で掻いた。

「その痣、昨晩の喧嘩でついたわけじゃないのか?」

「なに、痣くらい一晩ねむれば治る。だからまあ、これは今朝できたばかりってことになるな」

 何があったのか容易に想像がつく。大方、私と一緒に暮らすなどと言い出して殴られたのだろう。眉間を親指でもみほぐし、念のために何故、と聞いた。

「お袋が俺に見合い話を持ってきてな。でも、そんな気はなかったし俺はバトヤバルと一緒に住むから無理だ、って言ったら親父がこう……」

 がつんと、と握り拳を振りかぶる仕草付きで説明される。私が想像していたものに更に付け加えて、見合い話まで蹴っているとは思わなかった。思わず頭を抱える。

 少しばかり肩に重いものが伸し掛かる。男として申し分のない、働き者で、精悍で、誰からも好かれるドルジという人物を、私で消費している罪悪感。口内でチーズが舌に絡む。重い。

「私はこれから恨まれるな」

「なにに?」

「お前を愛している全てに」

 まだ塊のチーズを無理やり飲み込む。手に残ってしまったものを食べる気も湧かず、吊るしているチーズ群の中に戻した。

 振り帰ると荷解きの手を止めて、ドルジが私を見つめていた。沈痛な表情だ。その草原色の瞳で見つめれば、太陽さえ撃ち落とせるだろうに、その瞳は飽くことなく私を貫いていた。

「俺はその全てを捨てられる」

 言葉に詰まる。

 ドルジという男を覗くとき、時折見えるその底なし沼のような、途方もない暗闇も共に垣間見えるのが、怖かった。

「滅多なこと言うな」

 ようやく絞り出した一言。言葉端が少し震えていた。顔を見ることができない。

 ふと、外が少しだけ騒がしいことに気が付く。気まずい空気を誤魔化すように、玄関の隙間から外を伺う。いくつかの天幕の向こう、珍しく人だかりができている。昨日のような物々しい雰囲気ではなく、どことなく楽しそうな気配だ。

「西から行商人が来てるんだ」

 急に声が近くなる。ドルジはいつの間にか私の背後に立っていた。極めて自然に腰を抱かれ、あの顔が私の横にぴたりと寄り添う。視界がぼやける距離でも一切の粗が見つからない顔面に心臓が縮み上がる。同時に己の外見が頭の中で急速に醜く膨らんでいく。特に顔に走る痘痕が、一際強く脈打つようだった。

「どうした? 行ってみるか?」

 意識が逸れる。自分の顔に乗った存在感が少しずつ萎んでいく。自分の袖で口元を隠し、扉の隙間を正す。行商には無論行きたかったが、私の存在によってあの楽し気な空間に水を差すことを思えばその気も失せた。小さくかぶりを振って否定を示し、腰に回されたドルジの手に触れた。その大きな手が離れる。

 とりあえず茶でも入れようかと、調理台に体を向けた時、不意に冷たい風が入ってくる。振り返ればドルジがもう一度扉を開けていた。

「ちょっと待ってろ。なんか買ってきてやる」

「えっ」

「大丈夫だ、すぐ帰ってくるよ」

 そんな的外れな言葉と共に、引き留める間もなくドルジは家を飛び出していった。今からでも走って止めようかと、私も外に一歩踏み出しそうになる。しかし、四角く切り取られた外の世界。ぐんぐん遠くなっていくドルジの背中に、いろんな人物が取りつくのが見えて、私の足は棒と化した。

 男、女、老人、青年、子供を問わず、みんなドルジに声をかけている。その会話の内容が聞かなくても分かりそうだった。

 そっと扉を閉じる。それに背を預けて、ずるずると床にへたり込んだ。

 ドルジは好青年だ。今までも再三確認してきた。この一族に私を除いてあの男が嫌いな人間などいない。その私だって、あいつの太陽性を受け入れらない根底の理由は私自身の劣等であって、ドルジ自身に責はない。

 膝を抱えた姿勢のまま床に寝転がる。このまま玉のようにころころとどこまでも転がっていけたらどれほどいいだろう。

 こうやって、子供のようにうずくまるのも一体何度目だろう。少し前は、兄が優しく私を抱き起してくれたのに、その優しい手はもうない。

 目頭から涙があふれる。色々な感情がすべて煮詰まって出た涙だ。きっと酷い色をしているに違いない。袖を目に押し付けて、絨毯の上で丸くなる。

 突如、扉が開く。

 勢いが良く、寝転がっていた私の尻にそれが強かに打ち付けられた。急な衝撃に思わず飛び上がり、涙もどこかに吹き飛んでしまった。

「あ、悪い、大丈夫か?」

 ドルジだった。手には小さな包みを持っている。何か言ってやろうと思ったが、あまりに怒鳴りつけたい言葉多すぎて喉で詰まった。無様に口を無意味に開閉する私を一笑に付し、ドルジはその手の包みを差し出してきた。

「買ってきた。お前、そういうの集めてるんだろ」

 渡されるがままに受け取ると、開けろ、と言わんばかりに顎で示される。指示の通りに紐を解き、茶色の包みを掻き分ける。中に入っていたのは、本だった。革張りの重厚な表紙には文字だけが簡素につづられており、その字体で西からのものであることが見て取れる。

「これ……」

「俺は文字が読めないから奴の言うがままに買ったんだが……、どうだ? 嬉しいか?」

 ドルジは鼻頭を赤くしてはにかむ。そのつたない聞き方が子供っぽくて、昨夜の気持ちを思い出す。力では決して叶わない相手なのに、どうしようもなく弱く見える。

「ドルジ」

「ん?」

「あ、あの、あり……」

 急激に口が乾く。舌が重くなり、唇がしびれる。言葉が喉奥でつっかえて、なかなか出てこない。私の様子に何かを察したらしいドルジは、少しだけ真面目な顔をした。室内に完全に入り、扉をしっかりと閉めた後、ゆっくりと私の前まで歩いてしゃがみ込む。固い手が私の手に重なる。その温度に少しだけ心が落ち着く。

「あ、ありがとう……」

 ドルジの瞳を見上げる。少しだけ見開いたそれは、ゆっくりと嬉しそうに湾曲した。

「いいんだ。お前が喜んでくれるなら」

 そう言いながら抱きすくめられる。自分より大きなものに包まれているという安心感。無意識に強張っていた体から少しずつ力が抜けていく。肺の空気をすべて吐き出し、目の前の胸板に額を寄せた。骨と皮膚越しに鼓動が響く。その音は自分のものとは比べ物にならない程大きな気がした。

「しかし、お前も変だな。そんなのいくつもあつめて、何になるんだ?」

 ドルジの目が、私の寝台のすぐ近くにある机に移る。机上には、多くはないが似たような本が数冊立てられている。

「内容が違うんだ。今ある本だけでも植物学、薬学、海洋学、経営学と、あと初歩的な医学書とか」

「……なんだ、それ、その、ナントカ学って」

「……とにかく、色々詳しいことが書いてあるんだ」

 眉間にしわを寄せて考え込むドルジから視線を離し、手元の本を見下ろす。私達には文字という文化が存在しない。その本の表紙に綴られた文字も、注視しなければただの曲がりくねった線にしか見えない。

 記憶を総動員し、その文字を解読する。見た事のない単語だ。ぱらぱらと紙をめくれば、挿絵のページに辿り着いた。

「うわ」

 頭上から声が降ってくる。その反応も納得できる。そのページには、人間の内臓が緻密に描かれていたのだ。

「おいこれ、まずいんじゃないか? なんかこう、魔術的な」

 ドルジが嫌そうな表情で手指をバラバラに動かす。嫌悪感の表現だろうか。自分の祖母の食い散らかされた姿を見ておいて、いまさら何を言っているのか。

「いや、多分医学書だ」

 他のページを見れば、様々な挿絵が現れる。男女の体の違いを表したもの、内臓の形、位置、そしておそらくその機能。文字部分はすらすらとは読めないが、ところどころ拾える単語からとても専門的な解説がされていることが分かった。

「イガク書? お前さっきそれ持ってるって言ってなかったか?」

「ん、あれは基本的な人体の骨の名前とか、病気とか、そういうのに関係するやつだ。これは少し……、方向性が違う」

 ページをめくればめくるほど、様々な知識がこの一冊の本に詰め込まれているのが分かる。この本を一冊作るのに、いったいどれほどの労力がかかったのか、計り知れない。

「お前、これ、一体いくらで買ったんだ?  高かっただろう」

 その言葉にドルジはぎょ、と目を丸くした。

「すごいな、分かるのか」

 ドルジは照れくさそうに唇を尖らせ、目線をあらぬ方向へと飛ばす。頬を指先で掻いたと思えば、おずおずと指を二本立てた。

 肉塊二個か、不織布二巻きだろうか。妥当と言えば妥当だろうか。それでも少し安い気がするが。

 私にうまく伝わっていないことを察したらしいドルジは、あー、と少しうめいた。

「二頭……」

「……なんだと?」

「羊を、二頭……」

 がつん、と頭を殴られたような心地だった。

 私達遊牧民にとって、家畜は財産だ。特に、羊の毛は温かい不織布の素となり、乳は水の代わりやチーズになり、肉は我々の腹を満たす。とても重要な財産だ。それを、二頭。

「……、この本、大事にする。恐らく一生の間」

 思わず本を抱きしめる。今この手の中にある紙とインクと知識の塊は、二頭の羊がその生涯でもたらす利益と等価値なのだと思うと、とてもぞんざいには扱えなかった。

 その様子を見たドルジは、この事態をきちんと理解しているのか否か、あまりにだらしなく顔を緩ませた。

「そうか、一生か。そうか」

 ドルジは瞼を閉じ、感じ入るようにうんうんと頷いた。その言葉の何をそんなに気に入ったのか、頬まで紅潮させて随分と嬉しそうだった。

「しかし、本当に大きな買い物だったな。お前、家畜はあと何頭いるんだ」

「馬が一頭だけだ」

 再び、頭を殴られたような衝撃。今度はそれと同時に肩に重いものが伸し掛かった。

 馬は労働力だ。物を運ぶにも、人を乗せるにも、とにかく必要な家畜だ。しかし、羊の様に毛は採れず、できるだけ長生きさせるので肉を得られるのは随分先になる。乳は採れるが、一頭からそう何度も搾れない。食料や衣類の確保にはどうしても羊が必要だ。

 この男は、そんな羊を。

「バトヤバルの家にも羊はいるだろう? これからは俺が世話をするから……」

「……いない」

「え?」

「私の家に、家畜はいない。……一頭も」

 沈黙。

「……一頭も? お前の兄貴が世話してたじゃないか」

「兄さんが失踪した時に、叔父に取られた」

 重々しい沈黙。

 つまり、私たちは今、ほとんど素寒貧だった。室内なのに冷たい風が過ぎ去っていく。

 その日、私は久しぶりに酒を飲んだ。


「まるで現実味がないんだ」

 視界が回る。呂律は回らない。ドルジが持ってきた酒を二人で煽り、縺れるように絨毯の上に座り込んでいる。蝋燭の灯がちらちらと揺らめいて、橙色に室内が照らされている。

「兄さんは、きっと今も生きてて、どこかにいるんじゃないかって、そう思えて仕方ない」

 ドルジにもたれていた体が徐に引き寄せられる。その手つきがとても優しくて、されるがままに脱力する。ドルジの黒い髪が触れて、その髪越しに火照った頬が触れる。さながら、子供が人形を抱える時のような姿勢だった。

「そうだな。きっと、お前の兄は草原の風になって、お前を導いてくれる」

 潤んだ翡翠が私の顔を覗き込む。酒気に包まれたそれが嫌に熱っぽく、私はそれに答えないまま重い瞼に任せて瞳を閉じた。

 世界が揺れる。瞼を閉じていても分かるほどの不安定さ。瞼の裏に先ほど読んだ医学書の挿絵が明滅する。胴に当てられた手と腕があたたかい。ドルジの言葉に答えない私に何を思ったのか、体を徐に持ち上げられる。軽いことは無いだろうに、よくもまあ、と暗い世界でぼんやりとその筋力に感心した。

 どうやら、あぐらをかいている足の間に横向きで座らされたようだ。体の左側面が体温で温まる。上着を脱いだ体にはその温度がちょうどよく、伝わってくる心音と酒も相まって一層眠気を誘った。

 ふふ、と頭上から声が降ってくる。何がおかしいのかとも思ったが、眠気がその疑問を上から覆い隠した。つむじが温かい。

「バトヤバル」

 温度がつむじからこめかみに滑る。骨に響くような低い声。普段の快活で溌剌とした声とは違い、妙に色っぽい声だ。音が近い。柔らかい感触と、熱い呼気が触れる。段々と自分が何をされているのかが分かり、もたれていた体を離して拒絶する。重い瞼を何とか開き、目の前の胸板に手を付いて、つっかえ棒の様に腕を伸ばした。体温が遠くなり、未だはっきりとしない視界で、ドルジの顔が少しだけ不満そうに歪んだのが見えた。

「嫌か」

 手首を掴まれる。大きな手だ。きっと少し力を籠めれば、枯れ枝のような私の手首など簡単に折れてしまうだろう。ドルジの言葉が耳介に反響する。

「私たちは、そんな仲じゃない」

 翡翠が薄くとがる。

「そもそも、男同士で乳繰り合うなんて、おかしな話だ」

「関係あるものか」

「子供もできん、ただの無駄だ」

「そんなことない。少なくとも、俺には意味がある」

 掴まれた腕を引き寄せられ、手首に唇が落ちる。抵抗しようとも、力が弱い上に入らなければ何もできない。

「そら、見ろ」

 諦めと嫌悪が、小さく首をもたげる。百足がぞろりと私の足の指の間に波打つ。

「私が、抵抗できないのを知ってるんだ」

 唇を落とすドルジの前髪を、何とか動く指先で掻き分ける。固い髪だ。

「卑怯者」

 浮ついた唇が塞がれる。いつの間にか吊り上がっていた口角を食まれる。酒の匂いが鼻腔を支配する。私の乾いた唇を湿った舌が濡らし、穿つように口内をまさぐった。足の間にドルジの体が割り込んでくる。その中心が嫌に存在感を主張していて、脳裏に獣に食われる両親の体が明滅した。

 恍惚と恐怖。酩酊感で鈍くなった心と体が、食われることを期待し始めている。手首を握っていたドルジの手はいつの間にか私の腰を掴み、より深く密着しようと体を押し付けてくる。どちらのものか分からない程混ざり合った唾液が垂れ、私の顎を濡らした。

「バトヤバル」

 唇が離れ、耳元で再び名前を呼ばれる。湿った声だ。解放された視界で、眼球が室内を舐める。ほとんど意味のない動きだった。しかし、ふとある物が目に留まった。

 円形の室内、炉を挟んだ反対側。埃を被った兄の寝台。その傍らに立てかけられていた弓だ。

 かつて父が、まだ子供だった兄に作った弓だった。夏、兄が羊たちに草を食ませに行くとき、必ず背負っていたのを思い出す。私も引き方を教わったが、力が足りず、満足に矢をつがえることもできなかった。緑の草原、白い毛の羊、裸馬に乗って、弓を背負った兄。幾度となく、この家から見送った後ろ姿だった。まばゆい程の美しい記憶。

 すっかり酔いが醒めて、熱っぽく口唇を私の首筋に落とすドルジを制する。先程の言葉が少しだけ効いているのか、離れようとする私の体を無理やり抑え込むようなことはされなかった。ただ、突然手を離された幼子のような顔で、名残惜し気に私の指先に触れるだけ。その顔に少しばかり罪悪感がくすぐられたが、なし崩しにドルジに全てを委ねる気はとっくに失せていた。

「すまない」

 一言、ドルジの手の甲に触れて零す。乱れていた胸元を正し、ほどけかけていた髪を完全に解す。三つ編みの形に緩く揺れる髪を背中に流し、広げていた酒を回収する。

「もう寝よう」

 何かを言おうとしたドルジの口を手で塞ぎ、その瞼に唇を落とす。母が良くしてくれた、寝る前の挨拶だった。口と手を離し、酒を調理台に置いた後、少し逡巡して兄の寝台に潜り込んだ。埃とわずかなカビの匂い。その奥に、随分薄くなった兄の匂いが隠れている。決して清潔とは言えないが、客人であるドルジに、この寝台を使わせたくなかった。

 すこしだけ、戸惑った様子のドルジの足音が床を鳴らす。急に梯子を外されたような心地で戸惑っているのだろう。申し訳ないと少しばかり感じたが、私はろくに反応もせずに、早々に寝台で眠る振りにいそしんだ。

 しばらく、その足音は名残惜し気に響いたが、最後には諦めがついたのか、蝋燭の灯が消えた。布の擦れる音と共に眠るための夜が訪れる。静寂と暗闇の中、微睡みへと意識が沈んでいった。


 遠吠えが聞こえる。満月の下、布の様にひらめく草原に、私は立っていた。

 緑にはためく視界の向こう、白が満月の光を受け、輝きながら押し寄せる。まるで雪崩、あらゆる命を踏みにじらんと怒涛する姿。不思議と音は聞こえず、ただぼんやりと、押し寄せるそれを見つめている。次第にその輪郭が光陰によって露わになっていく。波打ち、輝くそれは、狼だった。途方もない狼の群れが走っていた。白銀の毛皮に紛れて、その疾走の中、骨と肉が散らばっていく。あれは、獣に食われた故人たちであると、自然と理解した。狼の間を脚が付きだし、目玉が転がり、腕が手招きのように踊った。私もあれに食われるのだ。それがこの草原に生きる者たちの当たり前の末路だった。

 狼が差し迫る。その足に引っかかれ、押し倒され、殺される。己の無残な死体の映像が鮮明に浮かび上がる。その爪が私の体に触れようとしたその時。

 光だった。私の足の間を縫って、光がさしていた。気づけば月はとうに追いやられ、背中が焼けんばかりに熱くなる。狼たちはまるで雪の様に解けだして崩れていく。太陽を振り帰ろうと、半歩足をずらせば、途端に足元がぐにゃりと曲がり、滑落する。ちりぢりになる視界と感覚の中、大きな手が私の目を塞いだ。


 目が覚める。瞼が重く、白くかすんだ視界に慣れない。毛布から手を出し、枕もとの髪紐を探る。

「ん、おはよう。バトヤバル」

 瞬きを繰り返し、不鮮明な視界の霧を晴らす。既に火が入れられた炉の前で、ドルジが自らの髪を編んでいた。長く、豊かで、触ると少し固い。そんな髪がドルジの武骨だが器用な手で自在に形を変えていく。

 柔らかく、暖かな微笑みを湛えるドルジに、昨夜のことで罪悪感が募る。口の中でもごもごと、おはよう、と返したが、それが相手に届いたかは分からなかった。

 ゆっくりと寝台から起き上がる。ろくに埃を払いもせずに寝たのが堪えたのか、鼻がむずむずする。指の背でたしなめるように撫でれば、少しだけそのむずがゆさがましになるような気がした。

 毛布から足を出し、寝台に腰掛ける。髪を手櫛で整えるが、所々に埃が絡まっている。それをなんとか取り除こうと苦闘していると、ドルジに名を呼ばれる。胡坐をかいた自らの足の間をぽん、と手で軽く叩きながら私を見つめている。思考を巡らせずとも、それがここに座れ、という意味であることは明白だった。抵抗はあるが、無視をするのもはばかられ、妥協点としてドルジの横に腰を落ち着けた。しかし、私の意思など関係なくすぐに抱えられ、ドルジが示した場所に強制的に座らされた。

「お前、髪まで細いんだな」

 頭頂部に何かが刺さる。驚いて身を固くすれば、それは私の頭に沿って滑り降りていく。背筋に嫌な感覚が迸り、思わず反り腰になってしまった。振り返れば、ドルジが櫛を手に私の髪を解している。その櫛は、働き者の手にそぐわない、華奢な装飾がなされた美しいものだった。

「ふふ、柔らかいな。まるでユキヒョウの毛みたいだ」

 慈しむように髪に櫛を入れられる。私なんかのために、この男が奉仕している事実に尻の辺りがそわついた。時折絡まっていた場所に櫛の歯が引っかかり、頭皮が引っ張られる。すると、ドルジはすぐに櫛を外してその指先で、絡まった髪をできるだけ優しく解そうとした。もたつくその手を制し、絡まった部分を自分で解す。

「別に、手櫛で十分だ」

 背中にながれていた髪を取り戻し、胸元に寄せる。炉の中で踊る火花を漠然と見つめる。そうか、と背後から声が降り、私の手に櫛を握らせてくる。

「……話を聞いてたか?」

「ん、いや、せっかくきれいな髪だからな。その櫛で梳くと指の通りがよくなるんだ」

 手元の櫛を見下ろす。柄の部分に美しい百合の柄が彫り込まれている。鼻に近付けて匂いを嗅げば、甘くやわらかな香りが立ち昇る。恐らく、香油を木製の櫛に沁み込ませているのだろう。

「……貰いものか? これ」

「わかるのか?」

「お前が趣味でこんな繊細なものを持っているとは思えん」

「はは……」

 困ったような顔でドルジはこめかみを掻いた。昨日つけられたはずの痣が消えていることに今更気が付く。

「去年の夏頃かな、外で男友達と髪の話になってさ、剛毛で困るんだって話したら、どこから聞きつけたのか、裏の天幕の娘にもらったんだ」

 便利だから愛用してる、そう言って無邪気に笑うドルジに不穏な気持ちが募る。

 きっと、その娘はドルジの髪からこの香油の香りがする度、その胸を高鳴らせたに違いない。もしかしたら、自分に好意を寄せてくれるかも、なんて期待もしただろう。そんな少女の気持ちを、この男は無邪気に「便利だから」とただそれだけで使っている。あまつさえ、全くの親切心でそれを違う男に共有しているのだ。香油の香りがドルジではなく、私の髪からしたとき、その少女は何を思うだろう。

「酷い男だな。お前は」

 櫛をドルジに突き返す。先程歯を通された髪に鼻をうずめて匂いを確認する。さすがに一梳きでは香りも移らなかったようで、少し安心した。ふと、視界が暗くなる。

「嫉妬か?」

 覆い被さるように、ドルジが私を見下ろしていた。耳に届いた言葉に何の冗談を、と反射的に言いそうになったが、その瞳に押し黙る。とても冗談を言っているようには見えない、真摯でまっすぐな視線だった。

「うれしいよ、バトヤバル」

 その無言を何だと思ったのか、腕を体に回される。つむじに体温を感じる。ドルジに全身を覆われているようだ。反射的な恐怖をおさえ、頭上のドルジの顎を手のひらで押し返した。

「ばかな勘違いをするな」

 少し緩んだドルジの腕から抜け出し、調理台に向かう。髪を編むのは諦め、簡単にうなじの辺りで結った。鉄でできた調理台、その下部にある小さな小窓を開き、中に乾燥させた家畜の糞とわずかな干し草を入れる。そこに火打石で火花を散らし、扉を閉めた。調理台の天板に開いた穴から中の火がしっかり立ち上がっているのを確認する。次いで鍋の中に残っている羊の乳を確認する。まだ腐ってはいないようなので、そのまま火にかけた。

「ちぇ、なんだよ」

 ドルジが小声でぶつくさと何事かを呟いている。その声に聞こえているぞ、という意味を込めて鼻を鳴らした。

「なあ、バトヤバル。鏡とかないか?」

「……ない。水瓶でも覗いてろ」

「あれじゃ暗くてよく見えないんだ」

 この家に鏡なんてあるわけがないだろ、という言葉を寸でのところで飲み込む。昨日の件しかり、ドルジが本気で私の顔面を何とも思っていないのは分かっていた。

「バトヤバルがやってくれよ」

 調理台に向かっていた体を半ばほど反転させ、ドルジを振り返る。その手には小筆と陶器の小さな器。貝の様な形をしているそれは蓋が開かれた状態で差し出され、その中の朱色がゆっくりと波打っていた。

 私たちの一族は、成人した人間のまなじりに朱を入れる伝統があった。魔除けと健康祈願が主な理由だったが、最近は見目のいい連中の美容目的の娯楽になっている印象だ。この紅を唇につけている娘を、遠目で見たことがある。

「……やったことがない」

 紅は高い。

 その製法が全く手間のかかるものらしく、遊牧民間を行き来する行商から提示される値段は決まって目玉が飛び出るほどだった。私たち一族全体は比較的裕福なので、他の家では見栄を張り合って高い紅を買うらしく、紅を持った行商が訪れるとちょっとした騒ぎになる。しかし、私たちのような貧しい家では縁の無い話であり、成人した後も私が顔に朱を入れることはなかった。

「簡単だ。ちょっと筆の先をおくだけでいいんだ。頼むよ」

 ずい、とそれを眼前に差し出される。今は火を扱っている、と躱そうと思えば、点けたばかりだろう、と返された。まだ小さくとも火は火なのだから目を離してはいけない、と説明しようとも思ったが、その言葉はドルジの視線によって押し込まれる。

 私はドルジのその顔をよく知っていた。目を輝かせ、眉を軽く上げ、口角を緩めている。絶対に自分の意見を曲げない時の表情だ。

 ため息をつき、鍋の中を確認する。まだ火にかけたばかりなので、その表面は穏やかだった。すぐに沸騰して吹きこぼれるなんてことは無いだろう。

 差し出された紅と小筆を手に取り、その顔を覗き込む。そうすればドルジは嬉しそうに破顔し、瞼を閉じた。少し面食らったが、まなじりに引くのだからその方が都合がいいのだとすぐに合点がいった。

 目を閉じるという状態は、とても無防備だ。そんな無防備な状態を、この男は私にさらしている。もし、私がここで調理台から包丁を取り出し、その綺麗な顔に突き刺しても、この男はその瞬間までそれが分からない。

 ぞっとする。そんなことを想像する自分にも、そんな自分を信頼しているドルジにも。

 少しばかり逡巡して、小筆を紅に浸す。陶器の淵で小筆を撫で、余分な紅を落として形を整える。

 準備ができた小筆をゆっくり持ち上げ、ドルジの瞼に向ける。筆先が小さく震え、静かな緊張が募る。ゆっくりと筆を下ろす。置くだけでいい、と言っていたが本当にこれでいいのか不安が鼓動になって耳の側で回った。反対のまなじりも同じように紅を引く。ぽつりとしずく型の朱がドルジの両目に入る。これでいいのだろうか。

「もういいか?」

「あ、うん、多分……」

 歯切れの悪い私に、なんだそれ、と笑いながらドルジが目を開ける。目を開けても朱は隠れることなく、しっかりと入っている。どうやら失敗はしていなかったようだ。ほ、と一息つく。大袈裟かもしれないが、生きた心地がしなかった。

 陶器の蓋を閉じ、その上に筆を置く。それをドルジに突き返せば、その翡翠色の目が私を見つめていることに気が付く。その視線が嫌で、反射的に顔を背けた。

「……私の顔は鏡ではないが」

 そう言えば、ドルジは再びだらしない顔で微笑んだのが視界の端に見えた。気の抜けた笑い声をあげながら、陶器を受け取りそれの蓋を再び開いた。

 もしや何か気に要らないことがあったのだろうか、瞬間的にそんな思考が巡る。悪い考えに落ち着かず、自分の服の袖を指で弄ぶ。集中していた眼前のことを失ったからか、急速に自分の認知されている全てを隠してしまいたくなる。前髪を引き寄せ、目元を隠す。袖で口元も覆って、できるだけ小さく見えるように、服を強く抱きしめた。

「バトヤバル」

 前髪を掴んでいた手に触れられる。拒絶の意味もこめて更に体を丸めれば、また玩具の様に抱きかかえられる。ここ数日だけで、何度こうされただろう。冷静な自分が気怠そうに呟いた。

「顔を見せてくれ。お前にも入れてやる」

「いらない」

「そう言うな。お前は肌が白いから、きっと似合う」

「……ただ外に出ないだけだ」

「それでも美しいことに変わりはないさ」

 心臓が抉られるようだ。ぐるりと渦巻いて、その部分がぽっかりと穴になって、周りの肉がその穴を埋めようと収縮する。体は勝手に縮こまって丸くなり、私は更に、惨めな虫を思わせる体になっていた。

「こんな……」

 言葉がつっかえる。体が前後に揺れている。私を抱えたままドルジが揺らしているようだ。まるで揺り籠のような心地。そこで眠るには、私の体はいくらか大きくなってしまったが。

「こんな、あばたの残る顔が、美しいわけないだろう」

 自らの吐き出した言葉が、深く突き刺さる。いつだって自分を戒め、傷つけるのは、自分自身なのだ。最も傷つく言葉を自らが先に言うことで、少しでも痛みを軽くしようという小賢しい工夫だった。

「俺はそれも、愛しいよ」

 やめてほしかった。

 ひと際強く縮こまった後、前髪の隙間からドルジを見上げる。存外近い位置にあったそれに、目が潰されそうだった。

 再び前髪の扉を閉じようとした私の手をこじ開け、ドルジの手が私の顔を撫でた。温かい。まなじりを親指でくすぐられる。親指の後を筆が追いかける。思っていたより冷たいそれに、反射的に瞼をきつく瞑った。親指でこめかみ辺りを軽く抑えられ、皮膚を引き延ばされる。その間も筆が私の顔を擽る。随分丹念だ。ようやく筆が離れたかと思えば、もう片方の瞼にも筆が入る。先程の冷たさはないが、代わりに毛束の感触が際立ってくすぐったい。

 高価なものが自分の顔面に触れているという緊張感。石のように身を固め耐えていれば、不意にドルジの手と筆が離れて行った。

 瞬きを繰り返し、目元の湿ったささやかな冷気に慣れようと努力する。緩い明滅を繰り返す視界の中、満足そうにドルジが微笑んでいる。

「力作だ」

 その言葉に嫌な予感が募る

「まさか、変な形にしてないよな」

 嫌に筆を丹念に動かしていたのはそう言うことか、と詰めようとしたとき、背後で噴き出すような音が聞こえた。

 慌てて振り帰れば、火にかけた鍋が白濁色の泡を出していた。慌てて調理台に飛びつき、鍋を火のともっていない場所に移す。先ほどまで鍋がかかっていた穴に蓋をし密閉する。

 鍋の蓋をあけ、中を確認する。大分煮立ってしまっているようだ。乳の表面に膜が張ってしまっている。ため息を吐き、その幕を掬いで端に寄せて取り除く。勿体ない。致し方ないので、その煮立ってしまった乳を椀に注ぐ。用意した二人分の椀に、なんとも言えない気持ちが募った。


「肉はないのか?」

 椀に入れた乳と、部屋に吊るして乾燥させていたチーズ。その二つだけの質素な食卓を前にして、ドルジは落胆したような声を出した。

「夏の飯みたいだ。もっとこう、精のつくやつとか……」

 私達遊牧民は、夏に乳製品をよく食べ、冬には家畜の肉を食う。恐らく、寒い時期を耐えるための先人の知恵であろう。

「無い。黙って食え」

 しかし、私の家に肉はなかった。

 椀の乳を啜りながら、兄の失踪と共に叔父に連れていかれた家畜を思い出す。やや老いた牡羊と、生まれたばかりの牝羊だった。牡羊の方はもう既に肉に加工されているだろう。子羊の方は、次の夏に向けてまだ飼育されているだろうか。

 少なくはあったが、去年の冬は兄と一緒に肉を食えていた。家事しかできない私にも、兄は自分と同じ量の肉を与えてくれていた。私がそれを食べているときの、兄の優しい瞳が忘れられない。

「これだけじゃすぐ腹が減っちまう……」

「恨むなら、行商に羊を二頭も渡した自分を恨むんだな」

 チーズを椀の乳で流し込み、自分の分の食器をさっさと片づける。いまだに不服そうにちびちびと乳を啜るドルジを尻目に、箪笥から布と針と糸巻きを取り出す。

 まだ半ば程しか縫い込まれていない刺繍。兄がいなくなってからの間、私は刺繍を行商に売ることで何とか凌いでいた。しかし、行商がこの集落に来るのは完全に不定期で、その際に刺繍が完成していることも稀な上、売りに行くとしてもできるだけ一族の目を避けるので、収入としては羊につくノミ程度のものだったが。それでも無いよりはましだったのだ。

 己の寝台に腰掛け、針に糸を通し、続きを縫い始める。今塗っている柄は、二年ほど前に兄に買ってもらった本に書いてあった花だ。着彩はされていなかったので色は分からないが、丸い小さな花が一本の茎にいくつも連なっていて、可愛らしかった。刺繍のモチーフには可愛いものや可憐なもの、美しいものが好まれる。

 花の色が分からないので、白色で縫い付けていく。色のついた糸は高価なので、必然的に私の刺繍は白色が多くなった。

 ふと、視線が刺さる。炉の前、こちらに体を向けて胡坐をかいているドルジが呆けた顔で私を見詰めていた。一瞬その視線とかち合い、気まずさに視線を落とす。男のくせに針仕事なんて、やはり妙に思われただろうか。

「あ、なあ、俺、ちょっとここほつれてて」

 ドルジを見る。唐突な申し出に少し困惑していると、ここ、とドルジが着ている藍色の服の袖を示してくる。裏地の毛皮と表地の布がほつれているらしく、その穴をわざと指で広げて見せられる。

「直せるか?」

 無邪気な目だ。まるで子供が寝物語に聞かされた蒼い狼を語るときのような。ため息をつき、刺繍から針を抜き出す。寝台に布を置き、糸巻きと針を持ってドルジの横に胡坐をかく。随分使い込まれたらしく、袖口から飛び出した糸が千切れている。

「……分かった。繕ってやるから脱げ」

「えっ」

「なんだ」

「いや……」

 そう言うと、ドルジはおとなしく帯を解き、服を脱ぎ始める。詰襟の肌着だけになり、少しだけ気恥ずかしそうに服を私に渡してくる。耳が若干赤くなっている。

「……変な意味じゃないからな」

「わかってる!」

 半ば叫ぶように答えたドルジの顔は、耳と同じように真っ赤になっている。少しだけ硬直した後、その赤面を誤魔化すように椀に入った乳を煽った。

 うろたえるその様が珍しく、少しだけ愉快な気持ちが芽生える。上がった口角を袖で隠し、預かった服を観察する。

 藍色に染め抜かれ、華美な装飾はされていないが袖口や襟口、裾には雲と太陽の刺繍がされている。服の開いている場所に施される刺繍も、魔除けの意味を持つ。この服は恐らく母親からのものだろう。ドルジがいかに愛されているかが伝わってくる。

 袖口から飛び出ている糸を一旦すべて抜き、最初から縫い合わせる。過去、服の刺繍と同じで開いている部分の縫製は一本の糸で仕上げるのが縁起としていいのだと、母から聞いたことがあった。

「なんか、いいな……」

 肌着だけになったドルジが言う。露出した腕が先ほどよりも太く見えて、目の錯覚を疑う。どうやら乳もチーズも平らげたらしく、こちらをぼんやりと見つめている。

「なにがだ」

「こう、なんかさ……。俺の服を俺のために繕ってくれてるのが」

「ばかなことを言う暇があるなら、さっさと食器を片せ」

 気のない返事が返ってくる。少しして調理台から食器の重なる音が聞こえてくる。

「バトヤバル」

「なんだ」

「今日さ、お前の家畜、取り返しに行こう」

 眉間にしわが寄る。

「……無駄だと思うぞ」

「なんで」

「私も何度か叔父に話をしに行ったことがある。だが、須らく門前払いだ」

「なんだそれ。もとはお前の家畜だろ」

 ため息をつく。理不尽に慣れていない、十全な反応だ。掌底で眉間を解す。縫い跡が少し歪になってしまった。

「私はきっと、次の移動についていけない」

 冬はそろそろ明けようとしていた。

 まだ寒さは厳しいが、雪はすっかり解け、そろそろ羊たちが青草を食める時期になる。そうなれば、一族は総出でこことは別の場所に移る。兄がいなくなってしまった今、私一人でこの家を解体し、馬に乗せ、移動し、また家を設営することは絶望的に思えた。

「私がのたれ死ぬのを待てなかったのさ」

 歪んだ部分の糸を解き、もう一度綺麗に縫い始める。最初から歪んだ事実などなかったように。

「……だめだ。やっぱり、取り戻しに行こう」

 肩に手を置かれる。危うく針が指に刺さりそうになった。横目でドルジを見上げる。その表情は真剣だ。きっと何を言っても曲がらないだろう。息を吐く。この男も、叔父の態度を見れば納得するだろう。

「縫い終わるまで少し待て」

 服を軽く持ち上げ、その目を見つめ返す。口を曲げたドルジはふん、と鼻を鳴らし、その場に胡坐をかいて座り込んだ。

 まるで子供だ。少し前は、こんなことを感じることはなかったのに。


「なあ、やっぱりやめよう」

 ドルジの服の袖を掴む。口布が付いた毛皮の帽子を深く被り直し、周囲の様子を伺う。私たちは今、叔父の天幕の前にいた。

 寒空の下、仁王立ちのドルジの背に隠れるようにして、私は慄いていた。天幕などどの家も同じような形なのに、叔父のそれだけは妙に威圧感があった。

「何言ってんだ今更」

 同じく毛皮の帽子を被ったドルジが私を見下ろす。その下から覗く目は固そうな光を宿し、決して意思を曲げない事実を再確認させられる。

「大丈夫だ。任せろ。言い負かしてやる」

 どこからそんな自信が来るのか、胸を張ったドルジは静止する間もなく、力強く戸を握りこぶしで叩いた。

 室内から、女性の声で返事がされる。反射的にドルジの背中に隠れた。扉が開く音がする。誰が出てきたのかは分からない。

「あら、ドルジくんじゃない。どうしたの?」

「どうも、おはようございます。タルカンさんいますか?」

 タルカンとは私の叔父の名前だ。かしこまったドルジに奇妙な感覚が募る。この男がこれほど丁寧な言葉を扱えるとは思っていなかった。

 ドルジの言葉を聞いたその女性、恐らく叔父の奥さんは室内に向かって声をかける。ややくぐもった声で男性の声が聞こえ、その足音が近づいてくる。ドルジの上着の背中を握る。膝の力が抜けて座り込んでしまいそうだった。

「どうしたんだ、こんな朝から」

 ドルジの足の隙間、叔父の爪先が見える。

「少し前にバトヤバルの家から奪った羊を返してほしいんです」

 沈黙。

 喉で空気がから回る。丁寧な物言いに感心している場合ではなかった。言い負かす、なんて大口を叩いたくせに。

「なんだって?」

 叔父の声が低くなる。あからさまに機嫌が悪くなっているのだ。今すぐにでもドルジの腕を引いて逃げ出したかった。

「家畜を返してください。牡羊と牝羊を一頭ずつ」

「何か勘違いしてないかドルジくん。うちにいる家畜は全てもともとうちのものだよ」

「嘘をつかないでください。返してくれるまで動きません」

 情報源が私しかないのに、何故そうも自信に満ちた態度でいられるんだ。腕を組んで叔父の家の玄関を塞ぐように立っているドルジの背中を見上げる。この男はなぜ、それほどまで私のことを無条件に信頼するのだろう。

 叔父とドルジの口論は続く。ドルジの態度は意外にも毅然としており、感情的になっているのはむしろ叔父の方だった。屁理屈や理路整然とした言葉で言い負かすのではなく、ただ真っ向から正論を放って言い負かそうとしているらしい。

「いい加減にしてくれ! 証拠もないのにそんな風に言われちゃこっちも心外だよ」

「証拠ならありますよ」

 嫌な予感。

 ドルジの翡翠の目が肩越しにこちらを振り返る。先ほどまでは毅然としていると思っていたが、それはどうやら勘違いらしかった。その目を見てそう気づいた。

 恐ろしく怒っている。どう見ても怒りが爆発する寸前だ。

「言ってやれ、さっさと返せハゲ野郎ってな」

 ドルジの肩越しに叔父と目が合う。ハゲ野郎、と口の中で繰り返す。確かに、私の視点からではよく見えないが、頭頂部の辺りがやや薄いような気がする。それどころじゃないのに、その事実を認めてしまうと、勝手に口角が引き攣った。

「お前の差し金か。バトヤバル」

 叔父の声がさらに低くなった。反射的な恐怖に身が竦む。叔父は昔から体も声も大きくて、それが恐ろしかった私は、いつも兄の後ろに隠れてやり過ごしていた。

 先程まで縋っていた背中を見上げる。ドルジは兄と全く似ていない。兄はドルジほど体格が良くなかったし、性格も快活とは言えなかった。声も男にしては高かったし、そして何より、この世界のだれよりも優しく笑う人だったのだ。

 兄はもういない。

 一歩、ドルジの影から出る。できるだけ胸を張り、毅然と叔父の顔を見上げる。毛皮の帽子を脱ぐ。叔父の後ろにいた奥さんが小さく悲鳴を上げるのが聞こえた。

「あの羊は、両親の形見です」

 叔父の視線が僅かに泳ぐ。私の目ではなく、この顔に走るあばたを見ているのだ。

「叔父さんに少しでも兄弟の情があるならば、私たちの両親の、あなたの兄の形見を、返してください」

 叔父の目を見つめる。父と、兄と、そして私と同じ黒い瞳。

 しばしの沈黙。視界の端に見える奥さんの不快そうな表情が精神を削る。

 徐に叔父の手が伸びる。それは明確に私の顔面を目指していた。動こうとしたドルジの帯を引っ張り制し、その手を待つ。

「……兄貴にそっくりだ」

 指先が目頭に触れる。その指はあばたをなぞり、私の前髪を掻き分ける。叔父は寂しさのような、悲しみのような、そんな表情をしていた。指先がまなじりに触れる。叔父さんは、目元を困惑に歪めたまま口角だけを吊り上げた。

「よく似合ってる」

 それに言葉を返す間もなく、その手は離れた。叔父の腕は奥さんに引かれ、信じられないと小言をぶつけられている。そんな彼女の声を制し、毛皮の外套を引っ掻けた叔父は、ついてこい、と私たちに言った。

 玄関から出て、さっさと歩いて行ってしまう大きな背中に、ドルジが振り帰って嬉しそうに笑う。その脇腹を肘で小突きながら、その後ろを慌ててついていく。帽子をもう一度被ろうかと思ったが、やめておいた。

 ずんずんと進む背中を追いかけていると、ふと家畜の独特の匂いが漂ってくる。思えば、口布と帽子を外して外に出たのはいつぶりだろう。その臭いは久しい鮮明な刺激だった。

「少し待ってろ」

 屋根だけの簡易的な天幕。その下に簡単な柵に囲まれた家畜舎があった。羊が多くひしめき、あちこちから鳴き声が聞こえてくる。天幕の側にいた茶色の犬が嬉しそうに尻尾を振ってこちらに駆け寄ってくる。叔父はそれをいなすと柵を跨いで白い海へと入っていく。

 置いて行かれた犬は人懐っこいのか、主人に袖にされたことも気にせず、私たちに興味があるようだった。犬は怖い。子供の頃羊と勘違いされて追いかけまわされたことがある。尾を振りながらこちらを見つめる犬としばし睨み合う。

 勇気を出して、人差し指を犬に差し出してみる。心臓が高鳴る。噛まれたらどうしよう、と子供の頃の自分が怯えた声を出す。

 犬の黒い鼻が私の指先に触れる。少し湿っていてひんやりとしている。くすぐったい。ぺろ、と犬の舌が私の指を舐めた。一舐めした後何かいい味がしたのか、犬は私の握った手のひらまで舐めつくし始めた。温かくてくすぐったい。

「はは、なんだ……」

 可愛いじゃないか、そう思えば、少しだけ視界が滲む。今になって、あれほど恐ろしかった叔父に立ち向かえたという事実が輪郭を持ち始める。恐ろしいからと、殻に籠っているだけではいけないのかもしれない。

「良かったな」

 ドルジの手が肩に乗る。今の私の情けない様を悟られたくなくて、顔を上げずに頷いた。

 不意に私の手を舐めまわしていた犬がそっぽを向く。どうやら叔父が戻ってきたようだった。傍らには若い牡羊と牝羊が一頭ずついた。

「牡羊のほうはもう解体した。変わりにこいつを連れて行けばいい」

 まだ角の小さな牡羊。蹄で地面をかいて、落ち着きのない様子だった。首輪についた鈴がちりちりと音を立てている。牝羊の方は、連れていかれた時よりもいくらか体が大きくなっていた。どうやら沢山餌をもらって大事にされていたらしい。

「ありがとうございます」

 受け渡された羊の首輪に指を通し、逃げられないように気を付ける。深々とお辞儀をすると、ふん、と鼻息が帰ってくる。

「お前は、お前の兄貴とちっとも似てない」

 ぶっきらぼうに叔父が言い放つ。確かに、私は兄とは似ていない。当たり前の事実だが、他人に指摘されるのは少し嫌だった。

「あいつは気持ち悪いガキだった。兄貴にも似てねえ」

「え、っと……」

「……同じ轍を踏むなってことだ」

 叔父の顔を見上げる。その黒色の目は私をまっすぐに見つめていた。

「お前の兄貴。あの死に方、どうにもきなくせえぞ」

 風が吹く。草原が揺れる。雲が流れていく。心臓が脈打つ。何か、大事なことを見落としているような気がする。

「あ!」

 不安が脳を浸す直前、ドルジの大声が響く。渦巻くようだった風が、霧散して消えていった。

「タルカンさん、もう解体したっていうんだったらその肉もバトヤバルのものじゃないですか?」

「なに? 代わりに若いのやっただろうが」

「ダメですよ、元々バトヤバルのものを勝手にどうこうしたのはタルカンさんなんですから、その肉も渡すべきです」

 目だけでドルジを見上げる。意外と知恵が回るものだと感心しかけたが、恐らく自分が肉を食いたいだけだろう。

 ドルジの言葉に叔父は面倒臭そうに後頭部を掻く。わかったよ、という言葉と小さな舌打ちを残し、不機嫌そうに奥さんの待つ天幕へと歩いていく。したり顔のドルジが片眉を上げて得意げに私を振り返った。

「今日は肉料理だな」


 その夜はちょっとした宴会だった。

 朝にも食べたチーズと乳をはじめ、貴重な水と肉を使ったスープ、挽肉を包んで蒸したボーズ、それと酒。宴会にしては品数は少ないが、それでも二人の腹を満たすには十分な量だった。

「魔除けの効果だな!」

 頬を上気させ、上機嫌なドルジがボーズを齧りながらそう言う。どうやら今朝差した紅のことを言っているらしい。

「そうだ、今朝聞き忘れてたが、どんな形にしたんだ」

「ん? いや、ちょっと尻を跳ね上げただけだよ。猫みたいで可愛いぜ」

「それが力作か?」

「俺にとったらな! いつも一発で引けないんだ、自分のやつ」

 とんとん、と自分のまなじりを叩いてドルジがはにかむ。なんでもそつなくこなす男だと思い込んでいたが、どうやらそうでもないらしい。

 酒を軽く飲み込む。二日も連続で酒を飲んだのは初めてだ。ちびちびとしか飲めない私とは対照的に、ドルジは早いペースで煽っている。自分の祖母が酒呑みだった、と他人事のように語っていたが、本人も相当な飲兵衛のようだ。

「今日はお前がいてくれてよかった」

「ん?」

 自分の盃に酒を注ぎながら零す。

「お前がいなければ、きっとまた門前払いで、話をする暇もなかった」

 酒を唇で啄むように飲む。もともと大して強くもなかったので、すでに視界がぐらぐらと回り始めている。

「バトヤバルの為だったら、俺はなんだってするよ」

 目の前のドルジを見る。胡坐をかいた自分の膝に頬杖をついている。編んだ髪が胸元に向かって垂れていて、酒を飲んで暑くなったのか、服は脱いで肌着だけになっていた。詰襟の肌着に袖はなく、丸太のようなドルジの二の腕が惜しげもなく晒されている。

「お前が欲しいというなら、太陽だって、月だって撃ち落として、耳飾りにして送ってやる」

 その言葉にふ、と笑いがこみ上げた。

「お前にかかれば、雲を枕に眠るのも夢じゃなさそうだ」

「もちろん。その時は草原の毛布もおまけにつけてやる」

「ははは!」

 胡坐をかいた自分の膝を叩く。盃の酒がゆらゆらと揺れる。こんなに声を出して笑ったのは一体何年ぶりだろう。

「お前、私が悪女で無くてよかったな。そうでなけりゃ、お前みたいな貢ぎ癖、とっくの昔に破産してたぞ」

「お前に貢いで破産するなら本望さ」

「はは! そら、この一族にお前のそのセリフを真にとらないやつはいない。その点、私はそれが冗談だってよくわかってるからな」

「冗談じゃないさ」

 盃を運ぶ手が止まる。笑っていた顔面から少しずつ力が抜ける。

「……ドルジ、お前のそれは勘違いだ」

「違う」

「よく見ろ。なんでわざわざ私を選ぶ? 顔はあばたまみれ、体だって骨と皮だけだ。それになにより……、男だ」

「関係ない」

 翡翠の目がきらきらと光っている。室内で、夜も更けたというのに、まるで日光を浴びているようだ。

「バトヤバル」

 ドルジを見つめ返す。薄々気付いていた。この男の抱える感情が、友人愛でも家族愛でもないことに。

「俺は、お前の為なら、人も殺せるよ」

 記憶の中のドルジは、泣き虫だった。

 転んだ、女の子にいじめられた、羊に顔を舐められた、仲間外れにされた。そんな些細なことで泣いては、決まって私に縋りついてきた。私たちの世代は女児が多くて、男児は私とドルジだけだったから、余計に私に引っ付いていた。昔は私のほうが背が高くて、ドルジが私の影に隠れていたのに。

 いつのまに、こんなに差が開いてしまったのだろう。

「飲みすぎたな」

 盃を置く。残った料理は、すでに冷え始めている。炉の中で火花が爆ぜる。

「また、そうやって逃げるのか」

 その言葉にドルジの顔を睨みつける。それに反して、ドルジの顔は穏やかだった。

 徐にドルジが立ちあがる。随分と酒が入っていたのに、しっかりとした足取りで私の側に来る。ほとんど意地で、逃げぬようにとその顔を見上げた。

 ドルジがしゃがむ。顔が近い。酒臭い息がかかる。

「見返りが欲しい」

 ドルジの手が私の肩に食い込む。逃げられない。本能が叫んでいる。肩を掴んでいた手が私の胸に置かれた。服越しにまさぐられる様に五指が連動する。

 ドルジの言う「見返り」が何なのか、わかってしまった。

 その顔を見つめる。明らかに冗談ではない。拒絶も逃走も、許してくれないだろう。瞼を閉じ、それでもこの状況から逃れる術を思索するが、それを邪魔するようについさっきのドルジの声が反響する。

 腹をくくるしかない。目を開けて、ドルジの瞳を見つめ返した。

「……準備をさせてくれ」

 胸に置かれたドルジの手に己のものを重ねる。

「……長くは待てない」

 その言葉に頷いた。


 料理も酒も食器も、すべて片付けられ、あとは眠るだけの室内。炉の火はとうに小さくなり、あとは自然に消えるのを待つだけだった。

 唇が重なる。カサついているが柔らかく、しばらくその暖かさを受け入れる。少しずつ自分の唇とドルジの唇の境目がわからなくなる。そっと熱い舌が触れる。差し出された舌に唇を寄せ、口内へと招き入れた。一度許されたそれは無遠慮に奥まで入り込み、中を荒らし回る。次第に息が上がり、鼓動が耳元で大きく鳴った。体格が違えばあらゆる部品の大きさも変わってくる。それに加え、ドルジの舌は肉厚で長く、限界まで差し込まれるとほとんど頬張るようになっていた。

 浮ついた腰がへたり込みそうになり、ドルジの顔が少し離れる。それに伴って舌が口からずるりと抜け出す。しかし、すぐに腰をしかと抱え直され、もう一度深く口付けられた。再び満たされた中に注がれる唾液を無抵抗に嚥下する。体中から力が抜けていき、ドルジの首に腕を回してしがみつけば、舌の動きも一層激しくなった。舌の裏に溜まった唾液を吸われ、曲線を描く歯茎をなぞられ、上顎を舌先でくすぐられる。暴れる舌に添えるように己のものを差し出せば、その形を確かめるように捏ねられた。決して大きいとは言えない私の舌を器用に外へと引き摺り出し、その唇で食む。頸から腰に向かってゾクゾクと電撃が走った。

 ふと思い立ち、顔を出したドルジの舌を前歯で甘噛みすれば、ドルジの口角から漏れる息が荒くなった。押し付けられた下腹部に硬いものが主張している。

「バトヤバル……」

 口を食われる。まさしくそんな表現のまま、口を塞がれ、背後の寝台に押し倒された。私の名を呼び、拙い指先で私の襟元をくつろげようとするドルジを見下ろす。

 苦戦している手を制し、自分で襟の紐を解く。一つ目、二つ目、三つ目。どんどん顕になっていく私の肌に、ドルジの喉仏が露骨に上下した。開いた服の隙間にドルジの手が滑り込んでくる。肉のない痩せぎすの腹を、何が楽しいのか温かい手が行き来する。

 鼻息荒くドルジの顔が私の首筋に埋まる。吸い付く音が響き、湿った感触がする。その間もドルジの息が私のうなじにかかり続け、少しくすぐったい。

「こんな体に興奮するなんて、お前も業が深いな」

 胸元に寄せられた豊かな黒い髪をかき混ぜ、編まれている髪の先を解く。手櫛で少し硬いドルジの髪を梳かし、その奥にある頭を小さく撫でた。

 私の態度に眉根を寄せたり、赤くなったり、表情が忙しいドルジ。大きな耳介を指先で擽れば、表情がとろける。ふと、腹を撫でていた手が上がり、私の胸元の飾りを摘む。柔らかいそこに舌も合わせ、舌先でくるくると刺激される。特に愛撫されても何も感じない場所だが、摘まれたり、舐られたり、吸われたりする内に少しずつ妙な気持ちになっていく。

 ドルジの唇が胸に吸い付き、なけなしの肉が持ち上がる。皮膚の下を流れる血がみんなドルジの口の中に吸い込まれるような感覚。堪らず、胸元の頭を抱きしめれば、唇が離れた。

「動けない」

「そんなところ弄らなくてもいい」

「ダメだ。男でも弄り続ければ快感を拾うらしいから、お前が喘ぐまでする」

「勘弁してくれ……」

 ドルジの手の甲に指を這わせ、それとなく下腹部に誘導する。何かを言おうとした口がそのままの形で止まり、見る見るうちに顔が赤くなっていった。

「バトヤバル……」

「帯くらいは、お前も自分で解けるだろう」

 そう聞くと、再びドルジの喉仏が上下する。胸に触れていた手が下がり、大ぶりな帯を解いていく。布の擦れる音がして、腰の締め付けがなくなる。ドルジの手はそのまま、まるで贈り物の包み紙を開けるような手つきで、私の服を開いていった。骨張り、見るからに固そうな腰周りを、ドルジは不思議と愛おしそうに撫でている。

 寝台の横の机に置いておいた肉の油を溶かして作った潤滑油を手に取る。足を開き、少しだけ尻を浮かせて潤滑油を纏わせた指先で己の窄まりに潜らせた。自分で解した方がまだ恥が無い。そう自分に何度も言い聞かせる。なのに、ドルジは食い入るようにその様を見つめている。鼻血でも出そうな勢いだ。

「おい、あんまり見るな」

 羞恥心が首をもたげ、寛げられた服を抱き寄せる。ドルジが残念そうな声を上げた。

 意を決し、指を小さく出し入れする。少しずつ奥まで進み、異物感に慣れるようほとんど祈っていた。重たい水音と後孔に空気が入り込む感触に背筋が震える。小さく息を吐き出しながら慣らし続けていると、ドルジが何やらごそごそとしているのが目についた。

 自分の服の前をくつろげ、手は下腹部に這わせているが、目線だけは食い入るように服に隔たれた私の尻を見つめている。それだけで何をしているのか容易に想像がつき、羞恥心が爆発しそうになる。

 裸足になった足でドルジの下穿の上からそれを捉える。予想外の刺激だったのか、うっ、と呻くような声が漏れた。上体を起こし、足の指でそれの形をなぞるように刺激する。

「そら、お前だって恥ずかしいだろ、この!」

「あっ、あ、バトヤバル……!」

 思わず、といった風にドルジが私の脹脛にしがみつく。力で私に負けることなどないあの大男が、急所を足蹴にされて、顔を真っ赤にして体を振るわせ、情けなく内股になって喘いでいる。優越感が胸に溢れて、嗜虐心が顔を出す。今度は足の裏全体で扱くように動かせば、追い詰められたようにドルジがか細く悲鳴を上げた。

 とぷ、と温かいものが足裏に触れる。びくびくと痙攣している布越しのそれに、何が起きたのかを悟る。足を離せば白濁色が糸を引き、寝台のシーツに垂れていった。

「早いな、お前……」

 思わずそう呟くと、余韻に浸っていたドルジがひどく傷ついたような顔になった。同じ男として今のは矜持を傷つける発言だったな、と思い直し謝罪する。ドルジからは事実だから、とか細く帰ってきた。

 汚れた足裏を寝台で拭うのは嫌だったので、すぐそばにある机上の手拭いを手繰り寄せようとする。しかし、僅差で手が届かない。精一杯体を伸ばそうとすると、ふと足首を掴まれる。熱くて大きな手は私の足首をしっかり掴み切り、力の入れ方を一つ間違えれば簡単に折れてしまえそうな薄らとした恐怖感があった。心臓が私の意思と関係なく早鐘を打ち始め、緊張しながらドルジの表情を伺う。

「ひっ」

 思わず声が漏れた。

 舌が足に触れる。足裏の細かな皺をなぞるようにゆっくりと這い回り、時折下品な音を立てて皮膚を吸われる。

 足を舐めている。あの無欠で、美しく、尊い男が私の足を舐めている。先程とは違う理由で心臓が速くなる。耳が燃えるように熱い。足の親指と人差し指の間から赤い肉がぬっくと顔を出す。あ、と思わず声が漏れ、その姿に釘付けになる。指の間を舐られ、親指を完全に口に含まれる。しゃぶるように口内で舌に舐めまわされ、尾骶骨がそわつく。口から短く断続的に悲鳴が漏れても、その様から目を離すことができなかった。

 余すことなく全て舐められ、足の甲に唇が落とされた頃、私はすでに満身創痍だった。足を内股に寄せ、反応しているものをなるべく隠す。しかし内腿は細かく震え、無理に暴かれてしまえば抵抗の一つもできないであろう有様だった。

 口から呼気が漏れ、草原に似つかわしくない湿度を感じる。濡れた足が冷える。不意に視界をドルジの胸が覆った。元からやや浅黒い肌なのか、健康的な小麦色が目の前で脈動している。胸筋は腕の筋肉に連れて歪み、ドルジが何かに対して腕を伸ばしていることをそこでようやく理解した。

 ようやくドルジが視界から消える。緩慢な動きでそれを目で追うと、その手に握られているものに目が止まる。それは、先ほど私が使っていた潤滑油だった。火照っていた体からすっと熱が引いていく。

「まさかそれ……」

「ああ。俺がほぐすよ。大丈夫、優しくするから」

 そう言いながら器からかなりの量の潤滑油を二本指で掬って笑うドルジ。嫌な予感しかない。

「待て、二本同時は絶対無理だ。少しずつ、一本ずつにしてくれ」

 思わずドルジの肩を掴んで懇願する。わかった、と満面の笑みを浮かべたドルジに、本当にわかっているのか心底不安になる。

 そうしていると徐に股座に手を差し込まれた。自分の意思とは関係ないものが急所に潜り込む感触に、思わずひ、と短い悲鳴が飛び出した。ドルジの指が陰嚢に触れ、そのまま会陰へと下がっていく。しかし、手探りで後孔を見つけることができないのか、ぬるついた指が会陰を無遠慮にまさぐる。時折押し込まれるような動きをされると腰が浮くような心地になり、堪らず私自身も自分の股座に手を入れてドルジの手を掴んだ。そうして後孔の場所へ誘導すれば、おお、と小さくドルジが声を漏らした。

 人差し指がゆっくりと私の中に入り込んでくる。潤滑油のお陰か、私が先ほど軽く慣らしたからか、引っ掛かりもなく比較的すんなりと挿入が進む。しかし、私のものより明らかに太く長いドルジの指による圧迫感は全く未知で、呼吸がうまくできない。添えていた手を離し、目の前のドルジにしがみつく。

「あっえっ、待って、えっ」

 既に私の指が解せる限界の深さに来ているというのに、その指はまだ奥に進もうとする。

 思わず困惑して静止する。素直に止まってくれたドルジの指を手で触れて確認すれば、まだ三分の一程指が余っていた。困惑が口から溢れ、事実をうまく飲み込めないでいると指が再び進行を始める。予想外なことに思わず口からだらしない声が漏れる。反射的に中が指を締め付け、その形をまざまざと脳に伝えてくる。

 腰が勝手に逃げ、指が少し抜ける。抜ける感触に背骨も一緒に引きずられる様な感覚が走り、下半身が震えた。ドルジのもう片方の手で腰を引き寄せられ、再び指が中に埋め込まれる。

「あっ」

 思わず声が漏れ、それが悔しくてドルジの肩口に顔を押し付ける。真横から堪えきれないと言わんばかりに笑う声が聞こえてくる。

「気持ちいい?」

「……全く、異物感がすごい」

「そうか。もう全部入ったけど、動いてもいいか?」

 腹の中で指先がぴく、と動くのがわかる。小さく頷けば、指が抽送を始める。私の指の動きを見ていたからか、それをなぞる様な緩慢な動き。このくらいなら耐えれないことはない、と少し安堵していたら、ドルジの指先がある箇所を掠る。

「あっ!?」

 中が締まる。腹の方にある、小さな場所。そこに触れられるとビリビリとした感触がした。私の反応を見た指は的確にその箇所を探り当て、今度は意図的に擦り始める。

「ひっ、だめ、だめ……!」

 差し込まれた腕を掴み、内腿で挟んで静止する。しかしそれで指が止まるわけもなく、ぐりぐりと押し込まれれば、視界に白い火花が散った。逃げる様に膝立ちになって腰を浮かせても、手はいつまでも追いかけてくる。嫌だ、逃げたい、といくら思っても指は執拗にそこをいじめ抜いた。

 気づけば私は膝立ちになった上で腰を引き寄せられ、股間をドルジへと突き出す形になっていた。既に緩く立ち上がったそれは細く先走りを垂らし、目の前の男を見上げている。溶け始めた頭でなんとなくこれはまずい気がする、と考えたのも束の間、赤い舌がちらりと見えた。あ、と思う間もなく、その大きな口で私の陰茎はすっぽりと隠されてしまった。

 一瞬あらゆる思考が停止する。我に帰りドルジの額に手をかけたのとほとんど同時に、陰茎に熱い舌が触れた。

 眼球が裏返る。未知の感触だった。自慰に耽ることは人並みにあったが、それらを絶する心地。手とは比べ物にならないほどに熱く、柔らかく、湿って滑らかに動き回る。口からは勝手に嬌声が溢れ出す。逃げようとすれば腰を支えている手と、挿入されている指、陰茎を咥えた口で一斉に咎められる。茶でも啜る様に下品な音を立てて陰茎を吸われ、内腿の筋肉が激しく痙攣した。

「だめ、だめっだめ! 離して! ドルジ!」

 額に置いた手を精一杯突っぱねるが、陰茎と中を同時に刺激されれば、力など入るはずもなかった。中の特に刺激を感じるところは、ちょうど陰茎の裏側辺りにあるようで、同時に刺激されると前も後ろもわからないほどぐちゃぐちゃになってしまった。背を丸めて藁にもすがる思いでドルジの肩にすがりつく。犬の様に口で息をすれば、口角から唾液が垂れ、ドルジの肩を濡らした。

 そうしていると、後孔の淵に二本目の指先が触れる。自分でも意外なほど冷静に、ああ、入れられるな、と悟った。蕩けた下半身では抵抗も満足にできない。

 二本目の指先が浅く出たり入ったりを繰り返す。まだ硬いその口がじんじんと疼き、含まれた陰茎が痙攣にも似た細かい刻みで震える。

 とうとう二本目が本格的に侵入を始め、無意識に息が詰まる。肉を掻き分けるように指が入り込み、淵が今までの人生で経験したことがない大きさにまで広がった。圧迫感と異物感が更に増し、世辞にも気持ちがいいとは言えない感覚だ。しかしそう思うもすぐに陰茎の愛撫が一層激しくなり、尻の違和感などすぐに頭の隅に追いやられてしまう。とうとう限界が見えてくる。息が詰まるほど体温が上がり、身体中が収縮するように強張っていく。沸々と湧き上がるような性感が、次第に絶頂へと到達しそうになる。早く、早く、と腰が勝手に前に突き出ていく。もう自分が何をされているのか、どこを向いているのか、何に縋っているのかもわからなくなっていく。

「出る、出る……!」

 果てる、頭が真っ白になる様な、あの絶頂が来る。そう期待して、身を縮こまらせた。

 しかし、それは訪れなかった。

 息を短く吐き出し、信じられない様な心持ちでドルジの顔を凝視する。その男はしたり顔で、湿った口角を舌なめずりで拭った。宙ぶらりんになってしまった陰茎が震える。なんで、とか細く聞けばドルジはその笑みを深めた。

「ちょっと早いんじゃないか?」

 ぐり、と中がえぐられた。肺の中の空気が全て飛び出し、はくはくと呼吸ができない口が喘ぐ。さっきのことをやはり根に持っているらしい。

 二本指で中の最も感じる場所を挟む様にして刺激される。視界にバチバチと火花が散り、奥歯を食いしばった。

「ドルジ、ドルジ! それだめ、だめだ! 変なの来る! おねがい、だめ、やめて……!」

 懇願しても指は止まらない。視界に散る火花が次第に激しいものへと変わっていく。感じたことがない、怖い、気持ちいい、逃げたい、もっと。どろどろに溶けていく。何もわからない。痙攣、過呼吸、無音。

 ぱちん、と弾けた。

「あっ」


 気付いたら、私は寝台に寝転がっていた。体中が脱力している。指先一つ動かすことさえ億劫で、呼吸しようと肺を膨らませればどことない疲労感が小さく邪魔をする。耳鳴りで周りの音が何も聞こえないが、ぼやける視界が小刻みに揺れている様な気がする。だんだん感覚がはっきりとしていき、腹の辺りに違和感を感じ始める。寝ぼけ眼に身じろぎをすれば、暖かい自分以外の体温を感じることに気がつく。緩慢に手を動かしていると、大きなもう一つの手がそれを受け止める。指が絡まり、隙間なくぴったりと深く繋がれた。

 ぼやける視界の中、暗い影が私を見下ろしている。あたたかい。私はこのあたたかさをしっていた。

「兄さん……」

 乾いた唇でそうこぼす。自然と笑みが溢れ、視界の黒い影に手を伸ばした。ぴたりと揺れが収まった。

「バトヤバル」

 名を呼ばれる。伸ばした手を握られ、その温かさに心から安堵する。これは夢だろうか。きっとそうだ。兄はもういない、そう飲み込んだばかりだ。ただ、夢の中ならば、兄に甘えてもいいのではないだろうか。握られて手に頬擦りをする。働き者の、硬い手だ。

「他の男を呼ぶな」

 目を見開く。体が急激に冷えていく。

 明瞭になった視界には、険しい表情のドルジがいた。

 突如、体が大きく揺さぶられる。同時に内臓を殴られた様な衝撃。体の中の空気が全て押し出され、息を吸うこともできなくなる。揺らぐ視界を己の下腹部にずらせば、そこにはドルジのものが深々と突き刺さっていた。

「あ、え……?」

 知覚すれば急激に感覚が事細かに浮かび上がってくる。陰嚢と会陰に当たる陰毛、ドルジの太ももに乗り上げた自分の尻、指とは比べ物にならない胎内の圧迫感。呆然とそれを見つめれば、ドルジがくっく、と喉を鳴らした。

「どうした、お前の兄貴に抱かれる夢でも見てたか」

 ドルジらしくない、意地の悪い笑みと台詞。困惑のままに名を呼べば、聞きたくないと言わんばかりに口を唇で塞がれる。掴まれた手は頭上で一纏めに拘束され、空いた方の手を私の首に巻き付けた。緩く絞められただけで容易に呼吸が困難になる。そんな確信は恐怖に繋がり、冷や汗がうなじを伝った。

 口内に埋められた厚い舌が暴れる。唇を吸われ、舌を舐られ、唾液を啜られる。その間にも下は加減などまるで無く、力任せに奥を突かれた。そこに快感などはなく、ただ鈍い痛みが走るだけだった。

「バトヤバル、バトヤバル……!」

 唇が離れ、譫言のように名を呼ばれる。首に回った手にじわじわと力が入っていくような気がした。

 何度も腹を抉られ、奥が鈍い痛みを訴えだす。肉のない尻も、同様に強く打ち付けられて骨が軋むような感覚があった。

 気を失う前の蕩けるような熱に浮かされた心地はどこにもなく、ただ恐怖と痛みで身動きが取れなかった。至近距離にあるドルジの顔が歪む。高い鼻に汗が伝って私の肌に落ちた。嫌な緊張が肉を強張らせ、神経を麻痺させていた。

 不意に、ドルジの頭が首筋に埋まる。すぐに呻くような声が聞こえたかと思えば、挿入された逸物とドルジの背中がぶるりと震えた。結合部から尻の間に向けて熱い何かが垂れる感触。脈が首に回された手に反響して高らかに鳴る。少しだけ柔らかくなったそれを、押し付けるように奥へと押し込まれ、その分行き場がなくなったであろう液体がもう一度どろりと溢れ出した。

 敗北感。

 この十七年、私を苛んできた劣等が、私の胎の中に注がれている。結実しない白濁が、私の中に擦り付けられている。お前は雄として負けたのだと、まざまざと突きつけられていた。

 涙が勝手に溢れ出る。ほとんど声になっていない声で、ドルジの名を呼ぶ。反応はない。ただ胎内のそれが少しづつ硬さを取り戻し始めている気がした。これ以上は無理だ。本能が叫び、喉に張り付いていた緊張を無理やり剥ぎ取った。

「ドルジ……!」

 すぐ近くにあるドルジの頭がぴくりと動いた。半分脱力していたドルジは、背を曲げ頭を私の胸元にまでずり下げた後、長い前髪の隙間からこちらを見上げた。異国の血が混じった翡翠色のそれは、不服そうな、まるで拗ねた子供のような目つきだった。

 その目を何も言わずに見つめ返していると、首に回されていた手からふっと力が抜ける。視線も外され、バツの悪そうな沈黙だけが残った。

「……怖い」

 そう言うと、再び緑色がこちらを向いた。先程の剣呑な、咎めるような視線ではない、どこか困惑したような色があった。手を少し動かせば、拘束が緩くなる。手のひらから抜け出し、少し痺れた手で体を後ろに引き摺る。中に収まっていたそれが半ば抜け、息が詰まった。

 顔が伸びてくる。唇が再び触れ、今度は優しく触れるだけの接吻をされる。力の入らない腕でドルジの肩を弱々しく押し返せば、それも許さないと言わんばかりに抱きすくめられた。

「ごめん」

 掠れた声だった。離れ、湿った唇に温かい呼気がかかる。雨に濡れた犬のような、そんな表情を浮かべたドルジに感じなくても良いはずの罪悪感がくすぐられる。おずおずと、肩に置いていた手を首に回し、抱きしめ返せば、ぐ、と腰を押し付けられた。

 汗ばんだ肌が密着する。私の骨と皮だけの胴とドルジの豊かな体が湿気の助けを借りて溶けるような感触だった。もう一度深く挿入された異物に反射的に中が収縮し、それの形がまざまざと脳に伝達される。ともすれば腹がその形に変形しているのではないだろうか、と疑うほどの圧迫感だった。ドルジの鎖骨に額を寄せる。意思とは関係なく勝手に蠢く胎内にそうして耐えていれば、私の背中を支えていた手のひらが少しずつ下に滑り出した。思わず頭の上にあるドルジの顔を睨み上げれば、その頬は上気し、瞳は熱っぽく揺らいでいた。

「あともう一回だけ……」

 尻を撫でられ、耳元で囁かれる。その殊勝な「お願い」に対して拒否権があるかどうか怪しいところだが、私の尻はそろそろ限界を訴えていた。拒否したところで聞き入れてもらえるだろうか、と答えあぐねていると、首筋にちくりと小さく痛みが走った。その後も甘えるように何度も同じ場所に唇を落とされる。首筋の刺激に紛れて、少しずつドルジの腰が動き始める。先程の力任せな抽送とは違う、ゆるやかな動きだ。

 まだ答えてない、と叱ろうと思い口を開けた途端、ぐり、と陰茎の裏を強く抉られる。言葉の代わりに飛び出た嬌声に、視界の端でドルジが嬉しそうに微笑んだ。

 味を占めたのか、ドルジの腰の律動が早くなる。尻を撫でていた手に腰を持ち上げられ、体が勝手に揺さぶられる。その度に指で散々いじめ抜かれたあの場所が暴力的に抉られ、押し出されるように嬌声が溢れ出た。

 

 橙色の光が揺れている。瞼を開ける。暗い室内、ほとんど虫の息の蝋燭がちらちらと揺らめいていた。

 体は横に向いていて、腹のあたりに思いものがのしかかっている。それに触れれば、ドルジの腕であることがわかった。どうやら後ろから抱え込まれるようにして眠っていたようだ。意外と手触りが良い。先程は気が付かなかった。

 先程。

 気を失う前の惨状を思い出す。視界いっぱいのドルジ、逃せない快感、何を言っても止まらなかった律動。溶けた脳にかまけて随分色々なことを口走った気がする。

 首をひねってドルジの顔を見上げる。瞼を閉じ、あくまでも安らかに寝息を立てている。その顔にため息が溢れた。あれだけ好き勝手振る舞っておきながら、呑気なやつだ。

 腹にまだ違和感がある。身動ぎをすれば鈍痛が走るほどだ。尻の間に手を当て、散々好きにされた穴の淵を確認する。どうやら切れてもいないし、出血もしていないようだ。安堵に体が脱力する。

 これが「見返り」になったのだろうか。

 自分の腹を撫でる。痩けている。肋も浮いて、病の痕も少なからずある。肌だって白くはあれどきめが細かいわけでもない。こんなものでドルジは満足できたのだろうか。そもそも、何故私にここまで執着するのだろうか。何がこの男の琴線に触れたのだろう。幼少期にこの男に何かしたのだろうか。

 悶々と思考が回る。あれでもない、これでもないと、過去の記憶を掘り起こしては放り出す。だんだん、その堂々巡りに疲労が伸し掛かった。緩くかぶりを振って、拉致の開かない考えを追い出す。

 今すぐにでも眠ってしまいたかったが、疲れているはずなのに一向に眠気がやってこない。しかし、ただ目を瞑っているだけでは不毛な考えに囚われる。仕方なく、私は机に手を伸ばす、立てられた二つの本を手に取った。一つはドルジが買ってきた本、もう一つは兄が随分前に買ってくれた辞書だった。

 辞書は東の国の言葉で西の言葉を翻訳している、分厚いものだった。東の言葉も堪能というわけではないが、発音や読み方が私たちの言語に似ている部分もあり、理解しやすかった。ドルジの買ってきてくれた本の表紙は、どうやら「解剖学」と記されているらしかった。

 二冊の本を枕元に並べる。蝋燭をできるだけ引き寄せ、その中をよく見えるように調節した。うつ伏せになったところで、腕の中で勝手に動くのが気に入らなかったのかドルジが私を抱き寄せる。目を覚ましてはいないようだ。

 解剖学の本のページをめくる。最初はできるだけ挿絵が多くて文章が少ないところから翻訳して読みたかった。

 あるページで手が止まる。そのページは人骨の全体像が二体並べられて描かれており、どうやら男女による骨の構造の違いを示しているようだった。このページは文字がほとんどなく、翻訳するにも疲れなさそうだった。

 早速、文字を目で追う。鎖骨や肋骨、骨盤などに違いがあるそうだ。中でも興味深いのは骨盤だった。鎖骨も肋骨も、男性より女性の方が小さかったが、骨盤だけは男性よりも女性のものの方が広いそうだ。

 子供が通るからだろうな、とぼんやり思う。もう一度自分の腹を撫でる。そこから少し手を下げて骨盤に触れた。狭い骨だ。私は男だ。子を孕めない。なのに、飽きずに何度も精を注がれた。ドルジの貴重な子種が、きっと一族の女がこぞって欲しがるそれが、私の中で死んでいく。結実することなく、終わっていくのだ。

 本を読む気も失せてしまった。本を閉じ、二冊重ねて机の上に置く。蝋燭も吹き消してドルジの腕ごと毛布にくるまった。それでも裸のままでは肌寒く、不本意ではあったがドルジの体に身を寄せる。額を胸に寄せれば、心臓の音が聞こえる。それは案外、この男に似合わずゆったりとした調子だった。その鼓動を聞いていると、自然と瞼が重くなっていく。私はそれに抗うことなく、眠りについた。


 鍋を火にかける。ぱちぱちと火花が跳ねる音がする。昨日の残りの肉のスープとボーズを温めなおすだけの、簡単な朝食だ。とっくに日は登り、どの天幕でもそろそろ朝の支度が始まる時間だった。

「ドルジ、朝だぞ」

 調理台から声をかける。その声に僅かに反応してその大きな体が身じろぐ。まるで冬眠中の熊のようだ。その腕が己の体の横をまさぐっている。もしかして、私を探しているのだろうか。まだ寝ぼけているようだ。

 鼻から空気の一塊を吐き出し、火の具合を確認してから寝台に歩み寄る。ドルジのつむじを人差し指で押す。

「起きろ」

 うつぶせに枕に押し付けられていた顔が面倒くさそうに起き上がる。瞼が開いておらず、しょぼくれた羊のような顔になっている。ドルジの前髪を掻き分け、その瞼に唇を落とす。朝の挨拶だ。

 がば、と急に腕が毛布から生えてくる。急な動きに驚いて、反応できないままその腕に捕まった。

「おい!」

 そのままずるずると毛布の中に引きずり込まれ、強く抱きしめられる。足をばたつかせても全く抵抗にならない。

「ふふ……」

「何を笑ってる! 離せってば!」

 昨晩のことが頭によぎる。今同じことをされてもろくに抵抗できない。それはまずい。

「夢じゃない」

 思わず硬直する。目だけでドルジの顔を見上げる。

 その目は既に開いていた。未だ眠そうではあるが、その瞳はしかと私を見つめている。本当に幸せそうに、微笑んでいる。

 ぎゅう、と心臓が締め付けられる。この感覚はよく知っていた。罪悪感だ。私は、この男のことをどう思っているんだろう。それさえも分からなくなっているのに、ドルジの気持ちを弄んでいる。

「よく寝た!」

 ドルジがいきなり起き上がる。抱きかかえられたままだったので、急な動きに心臓が奇妙な音を立てた。

「急に動くな」

 緩くなった両腕から抜け出し、ドルジの眉間を軽く小突く。いて、と思ってもいないことを口走るドルジから離れ、調理台に戻り鍋の中身を確認する。焦げてはいないようで、安堵した。

「なんだよ、俺より料理の心配か?」

 背後にドルジが立つ。大きな手が私の腰を撫で、こめかみに唇が落ちる。

「その料理を一番食うのはどこのどいつだろうな」

 皮肉を込めてそう返すと、快活な笑い声が室内に響いた。

 背後の体温がふと離れる。身支度をしているのか布の擦れる音が響く。火を消して配膳しようと皿を広げたところで、ドルジが足早に玄関に向かうのが目に入る。

「もうできるぞ」

「あっ、悪い。ちょっと待っててくれ。先に羊たちに餌をあげてくる」

 振り帰ったドルジは随分簡単な身なりだった。服は袖を通しただけで前を締めていないし、肌着も着ていないから素肌が露出していて寒そうだ。髪も簡単にまとめただけで、いつものような三つ編みじゃない。

 餌をあげに行くだけとはいえ、その恰好では凍えそうだ。手を拭いながらドルジに近付き、服を閉める。

「身だしなみはちゃんとしろ」

 ぽん、とドルジの胸に軽く手を付く。腰に手を当てドルジの顔を見上げれば、なんともだらしない顔をしていた。

「わかったよ、へへ、すぐ帰ってくる」

 そういうと、ドルジはさっさと外に出て行った。走る足音が天幕の周りを忙しなく動いているのが聞こえてくる。

 今のやり取り、少しだけ既視感があった。両親が似たような会話をしていたような気がする。薄着で外に出ようとする父を、いつも母が嗜めていた。

 温かい気持ちが沸き上がる。しかし、直後それではまるで自分とドルジが夫婦のようであることに気づき、辟易とした。かぶりを振ってそのおぞましい考えを追い払い、ドルジが帰ってきたらすぐに朝食が食べられるように、食卓の準備に取り掛かった。


「私にも家畜の世話を教えてくれないか」

 朝食、昨晩の残りのボーズを齧りながらドルジに言う。肉のスープを啜っていたドルジが目を丸くしている。

「いいけど、大丈夫か? その、体のこととか」

「平気だ。いつまでもお前に頼り続けることもできない」

 そういえば、ドルジが奇妙な表情を作る。嬉しそうな、悲しそうな、妙な顔だ。

「わかった、少しずつやっていこう」

 ドルジは、その奇妙な表情の上に無理やり作ったような笑顔でそう言った。

 以降朝食は静かだった。何か妙なことを言っただろうか、まさか生涯私を養うつもりでもあるまい、ならば何故?先程口走った自分の発言を丁寧に振り返るも、やはりこの重い沈黙の理由を見つけることはできなかった。

 朝食を終え、食器を片したあと、ドルジに声を掛けられる。毛皮の帽子と上着を被って、その後に続く。同じ格好をしたドルジが、一瞬複雑そうな顔をした。

 家の外に出る。朝日が顔を撫でた。空はすっかり青くなり、千切れた羊のような雲がいくつも空に浮かんでいる。あのような雲はこの時期に珍しい気がした。

 ドルジの後をついていき、昨日新しく設営した小さな家畜舎を覗く。そこには二頭の羊と、一頭の馬が干し草を食んでいた。

「まず、糞を集める。これを乾燥させて燃料にしたりする。知ってるよな?」

 ドルジの言葉に頷く。それを見たドルジが簡単な箒を手渡してくる。これで糞を集めろということだろう。確かに、よくみれば家畜舎の中には既にころころとした黒いものがまばらに落ちている。大した量ではないが、練習としては丁度いいかもしれない。

 ちら、とドルジの方を盗み見る。柵にもたれていて、動く様子はなさそうだ。箒を握りなおして意を決し、柵を開けて中に入った。

 いまだに干し草を食んでいる羊の後ろを忍び足で通り抜け、寝床として用意していた藁の周りを箒で掻く。ころころとした糞が思っていたより勢いよく地面を転がっていく。覚悟していた簡単に集まりそうだった。

 その調子で家畜舎の中を隅々まで掃いていく。掃除は嫌いではなかったので、この作業はもしかしたら自分に向いているかもしれない。少しだけ自分を認められるような、そんな淡い気持ちが湧く。

「おい、ドルジ!」

 ちょっとした万能感に浸っていると、急に知らない声がする。驚き、咄嗟に羊の陰へとしゃがみ込む。いまだに干し草を咀嚼している羊に、いぶかし気な目で見られているような気がした。

 羊の毛皮からそっと様子を伺う。一つか二つ上の青年だ。今時珍しい辮髪だった。ドルジとの会話を盗み聞くに、どうやら重いものを運びたいらしい。力があるドルジに応援を頼みに来たのだろう。しかし、本人はどうにも動きたくなさそうだ。ちら、とこちらを見るので、大丈夫、の意味を込めて何度も頷いた。正直、何でもいいのでその辮髪をどこかにやってほしかった。

 私の様子を見たからかは分からないが、ドルジが動く。二人で小走りに視界から消えていった。

 ようやく、安堵の息がつけた。羊の横に尻を付き、脱力する。

 少しは成長できたと思っていたのに、自分の予想できない範囲で何か起これば、この様だ。己が情けなかった。ふと悪い考えが頭をよぎる。私が変わったとて、周囲が変わらなければどうしようもないのではないだろうか。

 ここで、この思考に嵌るのは良くない。掃除を続けなければ。そう自分を奮い立てる。ふと、私の隣にいた羊が私の顔を舐めた。ざらざらとしていて、少しくすぐったいが、不思議と優しい気持ちになれた。

「もう食べたのか? 美味しかったかな」

 羊の耳の下を軽く掻くように撫でる。気持ちがいいのか、その瞼が閉じる。動物にも案外表情があるのだと、初めて気が付いた。

 暗い気持ちが随分ましになる。動物は怖いものだと思っていたが、落ち着いて接すれば可愛いものだ。ゆっくり立ち上がる。掃除の続きをしなければならない。

 軽く家畜舎を見渡す。黒い糞の姿を探していると、ふと白い毛皮が妙なところにあった。

 二度見すれば、もう一頭の羊が柵の外に出ていた。よく見れば柵が開いていて、施錠ができていなかったのだと気が付く。

「えっ、あ」

 情けない声が口から洩れる。柵の外にいる羊は、足元の草を食んでいた。箒をその場にそっと置き、羊を刺激しないようにゆっくり近づく。柵の外にいる羊は、咀嚼しながらも私から目を離さない。開いた柵の間に身を滑らせ、更に接近する。羊は幸いにもまだ動かない。

「よし、よし、いい子だ、おいで……」

 ゆっくりと手を伸ばす。あと少しで届く。冷や汗がこめかみを濡らす。

「お前、何やってんだ!」

 肩が跳ねる。羊が驚いて走りだした。

「あっ!」

 声がした方を一瞥する。先程の辮髪だ。鬼のような形相だ。

「その羊どこから盗んできた!」

「ち、ちが……!」

 横目で羊の姿を確認する。もう既に手が届く距離にはいない。今追いかけないと追いつけないだろう。うろたえる私に大股で近づいてくる辮髪。男と羊を見比べる。先程とは比類できない量の汗が流れる。

 身を横に滑らせ、急いで柵の鍵を施錠する。これで家畜がさらに脱走することは無いだろう。そして、辮髪に背を向け、羊を追いかける。責任逃れに逃走したようにしか見えないが、ことの説明をドルジがしてくれることを願うしかない。

 怒号を背に受けながら走る。羊はもう随分遠くまで逃げてしまっている。

 兄がかつて口笛で羊を呼んでいたことを思い出す。走りながら何とか試みるが、ただ呼吸が苦しくなるだけで何の音も出なかった。

 羊の白い尻をがむしゃら追いかける。いつの間にか集落を出ており、周りは草原だった。既に脇腹が痛み、呼吸も苦しくなってきた。しかし、こんな草原の只中にあの羊を置いていくわけにもいかない。何よりも、せっかく叔父が返してくれた羊なのだ。必ず連れ帰ってやらないといけない。

 尚も羊を追いかける。音は聞こえず、自分の荒い呼吸の音だけが鼓膜に響く。足も疲れ切って、ほとんど引きずるようだ。視界も軽く明滅しだしている。日頃の運動不足が明らかに祟っていた。

 とうとう、私の足は何かに躓き、顔から草原へと突っ込んでしまった。幸い、鼻はぶつけなかった。気道の奥で空気がから回る。霞む視界で白い羊を探す。ぼんやりしてよく見えないが、どうやら羊も疲れたのか、立ち止まっているようだ。

 急いで追いつかなくては。転んだ状態から立ち上がる。膝の下で何か異物が引っかかった。反射的に、その異物の正体を探った。

 それは死体だった。

 獣に荒らされ、骨が露出した遺体。息が止まった。慌てて遺体の上から飛びのく。その遺体が着ている服を見て、更に心臓が締め付けられた。

 この遺体は兄だった。

「あ……」

 途端、どうしようもない悲しみが胸を満たした。

 今までも、兄はもういない、と自分に言い聞かせていた。しかし、その遺体を直視してしまうと、巨大な寂寥に抗えなくなる。肉らしい肉はほとんど獣に貪られたようで、荒らされた骨だけが力なく散らばっている。着せていた服も破られており、生地でようやく自分が作ったものと判別できるほどだ。

「兄さん……」

 声をかけても返事は返ってこない。記憶の中で優しく微笑む兄が、目の前の頭蓋骨に上書きされていく。

「……ドルジとさ、仲直りしたんだ」

 破れた服をできるだけきれいに見えるように整える。声が震えた。

「まだちょっと怖いけど、ぼく、頑張るから。頑張ってみるから、見ててね」

 熱いものがこみ上げる。視界が歪んで、撓んで、落ちていく。涙が止まらない。

 風が吹く。兄の服がめくれ上がる。下半身の骨が露出した。袖で目元を拭い、めくれた服を掴む。これを直したら、羊を追いかけよう。そう考えながら、兄の体を覗き込んだ。

 違和感。

 強烈な違和感があった。無視できないほどの大きなしこり。目を凝らして、その違和感の正体を探る。服ではない、顔ではない、横たわっている体勢でもない。ふと、骨盤に目が止まる。つい昨晩、本で読んだ内容が頭に蘇る。器のような広い骨盤。股間に繋がる部分の穴が大きい。ちょうど、赤ん坊の頭が通れそうなほど。

 この死体は、女だ。

 動機がする。違う死体だろうか。いや、確かにこの服は私が繕ったものだ。何かの間違い。どう間違えれば女が兄の服を着ることがある。

 今までの記憶をすべて掘り返す。叔父の言葉が頭に反響する。どうにもきな臭い。確かにそう言っていた。私はその時、何を思い出そうとした?

 雲の隙間から太陽の光が注ぐ。流れる雲が重なっていき、辺りが薄暗くなっていく。夜。ドルジの声。

「それは、お前の兄ではないよ」

 季節外れの雨が降り始める。辺りは雨雲で薄暗くなっていく。勢いの強いそれが、私の上着を重くしていく。

 ふと、頬に温かいものが触れる。ざらついた舌。顔を向ければ、横長の瞳孔と目が合った。追いかけていた羊だ。戻ってきたらしい。

「……帰ろう。確かめなくちゃ」


 集落に戻る頃、稀に見る豪雨に、住人が慌てて家の補強に走り回っていた。頭の片隅で自分の家も、とぼんやり考えるも、思考が覚束ない。

 家畜舎に戻って羊を柵の中に入れる。ドルジの姿も辮髪の姿も見当たらない。

 ドルジに、話を聞かなくては。

 足がふらつく。奇妙な脱力感があって、思うように体が動かない。水を吸った帽子と服が重い。帽子と上着を地面に投げ捨てる。冷たい雨が髪を濡らしていく。

 私の家の裏にはいない。叔父の家の裏、前、ドルジの実家、他の家の家畜舎。どこにもいない。風雨が激しくなる。人と何度かすれ違ったが、どんな顔をしていたのか、何か言われたのか、覚えていない。

 ある天幕の前を通りがかった時、音が聞こえた。奇妙な音だ。風が吹く。その家の玄関が、風にがたがたと揺れている。私は、その戸を開けた。

「え?」

 間抜けな声。

 驚いた様子のドルジが、こちらを見ていた。草原色の目を、これでもかと見開いて、私を凝視している。

 その顔に、赤色が迸っていた。

 顎から滴るほど大量の赤。左手には服の襟。その襟は、床に寝転がっている男に繋がっていた。その男の顔面は赤く濡れて歪み、豪雨の中でもはっきりと聞こえる程、変ないびきをかいている。まるでうがいをしているような。

「バトヤバル」

 ドルジの声。明るい、極めて平素な声。こめかみに汗が伝う。ドルジの顔を見上げる。

 笑っていた。

 今朝、家畜に餌をあげてくると家を出た時のように。昨晩、美味いと言いながら肉を食べていた時のように。一昨日、私に本を送ってくれた時のように。

 襟を掴まれて軽く持ち上げられていた男が無造作に床に落とされる。鈍い音が響いた。辮髪が散らばる。

「戻ったらお前がいなくてさ」

 何事もなかったかのように、ドルジがこちらに歩いてくる。動けない。声も出ない。ただ、いつものように笑っている、血に濡れた幼馴染の存在を、脳が受け入れることが拒んでいる。

「そしたらこいつ、お前が羊を盗んだっていいだしてさ。失礼だよな。ちゃんとタルカンさんから返してもらった羊なのに」

 右手の親指を立て、後ろで横たわる男を指す。その拳が、特に血に濡れていた。

「さあ、帰ろう。今日は雨だし、久々に水を補給できるな」

 ドルジの手が伸びてくる。ひ、と声が漏れる。それに気づいたドルジは、笑いながら汚いよな、と言ってその手を引っ込めた。

「なに、なにして……」

 歯の根が合わない。声が震えていて情けない。私の言葉に、ドルジはもう一度笑顔を浮かべた。

「言っただろ。お前の為なら人も殺せるって」

 体がようやく動きはじめる。踵を返して、逃げようとする。一刻も早くここから、ドルジから逃れたかった。

 しかし、それは叶わない。腕を掴まれる。思い切り後ろに引っ張られて、床に転がった。強かに脇腹をうち、一瞬息ができなくなる。背後で扉が閉まる音がする。閉じ込められた。

「見返りはもう貰ったからな」

 ドルジが振り返る。

 不思議と、恐怖を押しのけてふつふつと怒りが湧きあがった。折角、信用できると思えたのに。床に転がっていた湯呑を掴み、ドルジに投げつけた。

「兄さんも殺したのか!」

 湯呑は軽く避けられる。ドルジから目を離さずに、手探りで攻撃できそうなものを探す。

「……やっぱり覚えてたか。お前は頭がいいもんな」

 ぼりぼりと無造作にドルジが後頭部を掻く。

「あの時、お前が泣いてたのが可哀想で。つい口が滑ったんだ」

 指先に金属が当たる。目の端で確認すれば、それは蝋燭たてだった。それを握りこむ。

「何で殺した、兄がお前に何をした?」

 叫ぶ。喉が痛い。疑問が尽きない。脳味噌から火花が出そうだ。目の前に立っているのは、本当にドルジなのか。

 ドルジの顔を見つめる。

「お前を肉欲の目で見ていた」

「……は?」

「俺は知ってるぞ。お前の兄貴が毎晩、お前の寝顔をネタに発散していたのを」

 吐き気。手で口を押える。

「嘘だ」

「嘘じゃない」

「嘘だ! 兄さんがそんなことするわけない!」

 握りこんだ蝋燭たてを投げる。それも避けられる。焦燥と怒りが私の心臓を炙る。

「でも安心したよ。その反応。兄貴とはやってないんだな」

 心底嬉しそうにドルジが微笑む。気持ちが悪い。吐き気が止まらない。

「じゃあ、初めては俺かあ。よかった!」

 胃のものがせりあがる。腹がじくじくと痛んでいるような気がする。

 ドルジがへたり込む私の前にしゃがむ。顔が近い。鉄の匂いが立ち昇る。優しい表情のドルジが、私の手を取る。そして、何かを握らせた。視線を落とす。

 包丁。先が尖った、紛れもない刃物だった。

「はい、それじゃあ」

 私の手に包丁を握らせたドルジが、それを己の首元に向けた。

「俺から離れたいなら、俺を殺して捨てろ。殺さないなら生涯お前から離れない。殺されるまでお前の側にいる。お前が逃げても地獄の果てまで追いかける」

 選べ。包丁の刃先がドルジの喉に沈む。赤い雫がその切っ先に浮かんで垂れていく。ドルジの手は既に離れ、引くも押すも私の自由になった。少しでも刃を押し込めば、ドルジを殺すに足る傷を与えられるだろう。

「なんで」

 視界が歪む。熱いものが頬を伝う。

「なんで、こうなったんだ」

 昔はそれなりに幸せだったはずだ。病さえなければ、私も、ドルジも普通に生きられたのではないか。

「ん……。ガキの頃、俺は泣き虫でさ。チビで、頭も要領も悪くて、よく馬鹿にされてたよ。でも、お前だけは友達として一緒にいてくれたよな」

 翡翠が昔日を思い出して揺らめく。

「初恋だ。ずっとな」

 あ、ちょっと待って、とドルジが声を上げる。包丁を構えた私の手を下げ、ドルジの顔が近づく。

 温かい感触。

 ふ、と顔が離れて、遠くなった体温に、唇が震えた。

 ドルジがもう一度、私の手を首に誘導する。

 幼馴染は、ただ穏やかに微笑んでいた。


 聞けば、あの日、亡くなったのはドルジの祖母ではなく、天涯孤独だった独り身の老人だったらしい。

 ドルジの祖母は、人知れず私の家族を蝕んだ病にかかり、家族が迫害を恐れて秘匿。そのまま息を引き取ったそうだ。そして、隠されていたその遺体が消え、代わりに兄の遺体が現れたのだという。思えばあの日、ドルジが言っていた「忘れ物」は祖母の遺体のことだったのだろう。

 家畜舎の中、馬の毛を毛櫛で梳かす。足元の親羊たちは仲睦まじく、生まれた子羊の面倒を甲斐甲斐しく見ていた。

 日陰になった家畜舎の下から、何もない草原を見渡す。季節は夏になっていた。

「あとちょっとしたら、お前たちも放牧に行こうな」

 そう言いながらじゃれる子羊たちの頭を撫でた。

 家畜たちの飲み水用のバケツを両手に持ち上げ、隣の天幕へと向かう。扉を開け、水瓶のそばにバケツを置いた。その一つ一つに水を入れる。かつてよりは筋肉が付いたが、それでも重いものを持つにはまだ慣れていない。

 バケツ一杯に水を汲み終えた後、寝台へと速足で寄り、そこに寝そべる大きな背中を蹴飛ばした。

「起きろ」

 ぐう、と呻いたそれは、熊のようにのそりと起き上がった。

「暑い……」

 小麦に焼けた肌。長い黒髪。豊かな体。そして何より、夏の草原を切り取ったような、緑色の目。

 寝癖のついたドルジが、大きな口で欠伸をした。


 結局のところ、私はあの時包丁を刺すことができなかった。私には人を殺す度胸が無かったのだ。

 殺されないと悟ったドルジは、私を抱え、足早に私の家に戻った。そして私の家に乗り込んできたときに持っていた荷物だけを掴み、家畜を連れて豪雨に紛れて一族を去ったのだ。

 そうして、私たちは一族から完全に孤立し、たった二人と家畜数頭で生活を始めたのだった。

 今になって、ドルジが言った兄の「悪癖」の真偽や、本当の兄の遺体の場所を知る術はなくなった。


「慣れるものだな」

 行商から買った煙草を蒸かしながら、水が入ったバケツを運ぶドルジの背中をぼんやりと見つめる。

 あれから季節が二度巡った。私は背が少しだけ伸び、不思議と集団で生活していたころより肉付きが良くなった。ドルジは更に愉快なことに、年を重ねるほど膨張していく筋肉に恐怖さえ覚える有様だった。

「あいつら、めちゃくちゃ力強いな」

 上裸の腹にくっきりと蹄の跡を付けたドルジが帰ってくる。大きさからみるに子供たちのものだろう。

「子羊だからと油断するからそうなる」

 包丁で東の国から買い付けた林檎の皮を剥く。夏では果物で水分を取るのが最も効率がいい。

 包丁を掴んだ右手に手が重なる。切った林檎の欠片にその切っ先が沈む。そのまま持ち上げられた一切れはドルジの口へと吸い込まれていった。

「美味い」

 噛みしめて咀嚼するドルジの頭が肩に乗る。左腕が私の腹に回って、背後から密着されている。暑苦しい。

 くすくすとドルジが笑う。右手は解放されない。横目でドルジの顔を睨みつければ、更に楽し気に笑みを深めた。

「いつか殺せると良いな」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

拘泥の人 @mochimochi_pm

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ