美々しき悪食
巡ほたる
美々しき悪食
まあ、人間運が悪ければこういう状況に立たされることもあらぁな。
俺の思考は遥か彼方へと飛行する。
そうでもしないと正気を保っていられないからだ。
思い返せばないない尽くしの人生だった。
金もない。学歴もない。愛想もなければそれを補える外見的特徴もない。
努力することを嫌い、忍耐などできず、バイト先で態度の悪い客にイラつき、大声で怒鳴ってきたためキレ返したら運悪くその客は反社会的組合の構成員だった。俺には運も人を見る目もなかったようだ。
客にキレたことによりクビを言い渡された後、荒んだ気持ちでバックヤードを出て下宿への近道になる裏路地を抜けようとしたら、黒服だったりカラフルで目が痛くなるようなシャツだったりの兄ちゃんたちに囲まれて、気付いたときには地面と恋人同士のようにキスしていた。
口の中にあるのが砂利なんだか血なんだか歯なんだかわからないまま、俺はまた腹を蹴られて地面を転がる。兄ちゃんたちはゲラゲラ笑う。
何度目かになるかわからない謝罪の言葉を口にしようにも、生憎口の中にはついさっき少し大きめの石を複数詰め込まれていたので不可能だった。石を吐き出すこともままならず、当然声も出ない。ただ涙がボロボロと零れ、顔の傷口を伝って血と混じり流れていくだけだった。
どうしてこうなったんだかな。
惨めな気持ちで回想しようにも、大した過去もない。
いじめられたわけでもなければ、幸せな家庭からどん底に突き落とされたというような悲劇的な過去があるわけでもない。
友達と呼べるほど深い関係の他人がいるわけでも、愛くるしい恋人が家で待っているわけでもない。
空虚な回想は少しも現実逃避の役に立たなかった。
遠くで女の下卑た笑い声が聞こえる。そう言えばこの辺りはラブホテルやら風俗やらが軒を連ねる通りが近いのだったか。
あまりにも自分と無縁の世界だったから忘れていた。
段々と女の笑い声が近くなる。
知らない奴であろうと知っている奴であろうと見下されるのは大嫌いだが、誰彼構わず肌を摺り寄せ股を開く下品な女に見下されるのは殊更嫌いだった。
現れたのは想像通りの下品な女だった。
露出できる肌は全部見せ、肩には和彫りが覗き、髪は何色と表現できないほどカラフルだ。
意外だったのはその女が現れると俺を甚振っていた兄ちゃんたちが、急に俺を虐げるのをやめたことである。
最初に地面に転がる俺をじっとり眺めて、それから嘗め回すように兄ちゃんたちを見回す。そして「ねぇ~え」と甘ったるい声で言葉を発した。
「パパが呼んでるの。こんなところで油売ってないで、早くパパのところ行きなさいよぉ」
「オジキが?」
「うん、パパが」
「でもお嬢」
「なに、パパが呼んでるってアタシがせっかく教えに来てあげたのに、その態度」
見てわかるほどに女は不機嫌になった。
そして同時に、この女が兄ちゃんたちより立場が上のやばい女であることを認識した。
女に凄まれた兄ちゃんたちはそそくさと立ち去っていく。俺のことなど置き去りにして。
いや……この女が残っているのでは、俺は助かったとは言えない。
「…………っ」
とりあえず口に詰められた石を吐き出すため咳き込もうとするが、息を吸った途端気道に石が入り込んで呼吸どころではなくなる。
声にならない呼吸が激しく繰り返される。
呼吸? そんなものできていない。絶息だ。
涙がまた溢れてくる。胃液が逆流している気がするがそれも石で詰まっている。鼻から呼吸できるかと思えばそんなわけがない。
えずく。できない。
咳き込む。できない。
吐く。できない。
――あ、これ。
死ぬ。
混乱する身体と反して、思考は明瞭だった。
「馬鹿か、手前は」
女はそれだけ言って、俺の口に乱雑に手を突っ込んだ。
俺の涎と胃液でたっぷりコーティングされた石を、丁寧に取り除いていく。
最後に気道を詰まらせていた石を、俺の喉奥へと手を突っ込んで引き抜く。瞬間、求めていた空気を得て俺の身体が打ち震えた。
えずき、咳き込み、吐くという人体としてはあまり歓迎できない生理現象が巻き起こる。だがそれが生の喜びであるかのように俺は感じた。
「――さて」
俺の身体がとりあえずの平安を取り戻した頃を見計らって、その声は響く。俺はその声に言いようのない圧迫感を覚えて硬直する。
だってそうだろう?
さっきまで下品で裏社会のやばい女だと思っていた奴のいる場所から、男とも女とも言えない恐ろしい遠雷のような響きの声が聞こえたのだから。
「――助けてやったから俺様の頼みを聞いてくんねェか、人間」
「あ、う……」
「安心しな、殺したりしねェよ。ただ俺様の頼みを聞いて、ほんのちょっと手伝ってくれるだけでいい」
恐ろしくなって四つん這いで俯けた顔を上げることができなかった。
目の前にいるのは俺の忌み嫌う下品な女じゃない。
もっと、もっとおぞましい――出会ってはいけないなにかだ。
「俺様の頼みを聞き入れるなら早くしな。さっきの連中を騙すために奴らが一番言うことを聞かなければならない人間に化けたが、戻って来るのも時間の問題だぜ。戻って来たときにそのまま手前が残っていたら、手前はどうなっちまうのかねェ」
殺される、と思った。
どちらに転んだところで、目の前の化け物か、さっきの兄ちゃんたちか――俺の進退は選ぶ間もなく決まっていた。
◆◆
化け物はまた女の姿になっていた。
先ほどの下品な女ではない、黒髪にセーラー服の巨乳の少女だった。「手前はこの姿が一番好みかと思ったんだがなァ。お気に召さないなら別の姿を取ろうか」と、遠雷のような声はそのままに気さくに話しかけてくるので、俺はなお一層混乱した。
「そんな姿が俺の好みだと思ったのか」
「思った」
「セーラー服の巨乳が好きなんてまるで俺が変態みたいじゃないか」
「まだ清純な方だろ。俺様の見込んだ人間が意外と初心で安心したぜ」
「どこに連れてく気だ」
「まァそう焦んな。……いや、焦ってんのは俺様の方かな。なんせ時間がない」
「…………?」
「まずは風呂に入れ。そして服を替えろ。そんな体液塗れの奴が給仕なんて、あちらさんに面目が立たねェ」
「ま――待て」
「あん?」
「給仕だって?」
「おう」
「なんで」
「なんでってそりゃァ……手前、バイトはなにしてるよ」
「ファミレスで接客だけど……あ、いや、さっきクビになった」
「じゃァ適任だな」
言って、化け物は俺の手を握って先導する。傍から見て援助交際だと思われないか気がかりだったが、俺もそこまで年がいっているわけではないから究極兄妹と説明してやり過ごそうと思った。
道を右に曲がり、左に逸れ、横断歩道を渡って、……やがて、一軒の建物に辿り着いた。
とっくに廃業になったホテルだと聞き知った、悪趣味に荘厳な建物だ。こんなところに連れ込まれて、俺に給仕をやれと? ファミレスで接客している経験があるだけで?
「廃屋じゃないか。なんだ、金持ちのままごと遊びか? あんたのその声とか変身とかも、金持ちだけ持ってる最先端技術だとか」
「理論がガキじみてて馬鹿丸出しだぜ、クソガキ。今時金持ちだけ持ってる最先端技術なんてありゃしねェよ。平均化の時代だぜ」
だが――と、付け加える。
「ままごと遊びはその通りだな」
「はぁ?」
「風呂入って着替えたらその辺は教えてやる。さっさと済ませてこい」
化け物の手が触れると、塀に巻き付いていた鎖はバラバラになって辺りに散らばった。
◆◆
廃屋に風呂なんてあるわけがない――と俺は思っていたわけだが、何故だかシャワーから熱いお湯が出るしバスルームにはしっかり湯が張られていた。
ああまさか俺は反社会の兄ちゃんたちに殴られ蹴られをされている内に死んでいて、これは死に逝く直前の幻覚なのではないかと何度も思ったが、頬を引っ張ればちゃんと痛い。
夢の可能性はまだ捨てきれないが、意外と楽しい夢かもしれないと割り切った。
風呂を済ませると脱衣所に服が用意されている。化け物が給仕と言った通り、格式高いレストランのボーイがこんなの着てたなあと言った感じの服だった。靴も用意されているという周到さだ。サイズがすべてピッタリだったことに、もはや驚きも感じない。
着替えて、先ほど化け物が「ここで待っている」と言っていた部屋に入る。別にここで逃げても良かったが、化け物が「ままごと遊び」と言ったことで大した仕事じゃないかもと思い始めていた。
未だに金持ち説は捨てていない。金持ちに気に入られてお小遣いをもらえるかもしれないという下衆な考えもある。
部屋に入ると化け物は黒髪巨乳セーラー服の姿で固そうなソファに座り、書類を片手になにやら悩んでいるようだった。
俺の気配に気付きこちらを見ると「おお、俺様の見込んだ通り、手前は整えればそれなりに見えるな――」とつまらない世辞を言った。
「……で、ままごと遊びってのは」
「俺様はこれからとある高貴な御仁に料理を振る舞わねばならん」
「高貴な御仁?」
「俺様の命も、手前の命も簡単に握り潰せるほどの高貴な御仁さ」
「ふうん」
「で、手伝ってほしいことが給仕のほかにもうひとつあってなァ」
「……まあ、助けてもらったし、やるよ」
「なんだ、えらく素直だな」
化け物は意外そうな顔をした。高貴な御仁と聞いてあわよくばのお小遣いを狙っていることは話さないことにした。
懸命な判断だろう。欲は隠した方がいいことの方が多い。
「で、だ。料理と言っても普通に肉や魚を捌くんじゃない。お客人の要望は『美しい食事がしたい』だ。……ここへ来てこの質問も無粋かもしれんが、手前、これから歓待する高貴な御仁が普通の人間とは思っていないだろうな」
「え」
「思っていたのだなァ――まあ、それも仕方ないか。普通の人間が急にそんなイレギュラーに対応しろなんて、無茶振りもいいところだ。あのな、人間、これから手前が給仕し、俺様が料理を振る舞うのは――神だ」
「かみ?」
まぬけな声が出た。そして俺は夢説を再び心に浮かべた。もしくはドッキリか。
俺にドッキリなぞ仕掛けて得する奴がいるかどうかは不明だが。
「魔神さ」
しかし目の前の化け物は大真面目に淡々と説明を続ける。俺が仕掛け人ならたまらず吹き出しているところだ。この女は演技力がすごい女優なのではないか。
「美しさを喰らう魔神だ。生半な美しさでは足りない――以前の薔薇御膳は気に入ってくださったが、その次のダリアのフルコースは二番煎じとひっくり返された。そして次はないと脅されてしまった。俺様にはもう次がない。今回の料理で俺様の進退は決まるも同然なのさ」
「今回失敗したらどうなるんだ」
「さァねェ――死ぬのは確実だろうが、俺様の故郷が焦土と化す可能性も捨てきれない。魔神という存在は何故か手加減というものを知らない者が多いからなァ――」
「……美しいものなら、なんでもいいのか」
「ああ――手前には、そのアイディアを賜りたい」化け物は言った。「取柄も過去も大切なものもなにもない手前でも――美しいと思うものはなんだ?」
◆◆
俺が美しいと思うもの。
目の前の化け物の姿か?
いや、これは好みであって美しいと思っているわけではない。
よく表現するなら宝石とかか?
いや、花の前は宝石を出していたとその後付け加えていた。
絵はどうだ?
化け物は首を振った。
夜景。
化け物は首を振った。
孔雀のようなカラフルな生き物。
化け物は首を振った。
夕焼け――ステンドガラスに光が入って、オレンジ色だった景色が様々な色に変化して、俺はそこで――誰かと――。
――くん。
おままごと、しよ――。
「ん――なぁ、あんた」
「なんだ」
「その魔神って、記憶も食べたりするか?」
――美しいもの。
美しいものは美味しいもの――。
「あァ――召し上がるな。……待て、手前、まさか――」
「ああ」
俺はなんだか誇らしく思って、胸を張って答えた。
「俺の虚無な人生で唯一美しい思い出を、魔神サマに召し上がっていただこう」
◆◆
「嗚呼――ワクワクしてしまうわ。わたくし、この日を待っていたのよ、ずっと、ずっと。ラピスラズリの欠片を食んで、繊細な文士の綴りを舐めて――でも今日は、それよりももっと美しいものを食べさせてくださるのでしょう――ねえ、天竜」
「そこまで期待していただき、恐悦至極に存じます」
天竜と呼ばれた男は遠雷の声で受けて恭しく頭を下げた。俺の好みの女の姿から一転、化け物はダンディな男のそれへと姿を変えている。それをドアの隙間から見て、俺はようやくあの化け物が天竜という名前なのだと知った。
意外と普通の名前だ。
「でも珍しいのね、いつもは夜にあの寂しい廃屋での食事だと言うのに、今日はまだ陽が沈みきっていない時間の、こんな寂れた駅に呼び出すなんて――無礼者だと、あなたを断罪してもよくってよ?」
化け物の前に相対する幼気な少女がたおやかな指先を彼に向けた途端、周囲の空気がぐっと重くなるのを俺は感じ取った。ドアの影から覗き見ている俺がこんななのだ。目の前で指先を突き付けられている化け物が受けている圧迫感など、想像しただけで失禁しそうになる。
しかし化け物は圧しかかる重圧など感じていないかのように平然とした営業スマイルを浮かべていた。
「わたくしを無礼者と断罪します前に、まずはお食事を召し上がってください。そのためのこの場なのでございます。お食事を召し上がってからわたくしを断罪しても遅くはないはずです」
「……それもそうね」
そう言って、少女は指先を収める。
するとあんなに重かった空気が一気に軽くなり、安堵感がどっと押し寄せてくる。
ああ、俺はまだ夢から覚めないのか。目覚めたら下宿のベッドの上か、この際暴行を受けて裏路地の地べたで気絶していた――というオチでも、現状よりもすっと受け入れやすい気がしてくる。
寂れた駅だ。
かつて赤かった屋根は経年劣化でくすんでしまい、寂れた印象をより強める。この駅には秘密がある。駅員なら知っているかもしれないが、子供たちの遊びの場を奪ってはいけないと、大人たちが見て見ぬふりしている公の隠し部屋。
外から見ると普通の駅なのだが、駅の裏へ周ると巨大な林檎の木に隠れるようにして、錆びた鉄の螺旋階段がある。その階段を上りドアを開けると、まるでシンデレラの屋根裏部屋のような空間が存在しているのだ。唯一の光源は、駅舎の表側から見える地元名物をあしらったステンドグラスの、窓から差し込む夕焼け。
「まあ……」
少女は感嘆の声を漏らした。
俺は化け物に教えられた通りの言葉を並べる。
「いらっしゃいませ、お席へご案内いたします」
ぎこちなくなっているだろう。自分でも右手と右足が同時に動きそうになっているこのままならなさに気付いている。だが取り繕ってなんとかする。そうしなければ死ぬのは俺だ。
優美な仕種で席に着いた少女は、ワクワクとした表情を隠そうともしない。
しきりに「素敵ね、素敵だわ」と声を漏らしている。
やがて、遠雷の声で化け物が少女に声をかけた。
「本日ヴィニア様に召し上がっていただくのはこの給仕――」そこまで言って、化け物は俺に自身の隣に来るよう指で合図した。
俺が前に進み出ると、少女はあからさまに顔を不満で埋める。
「この男の子が今日の食事? ねえ天竜、わたくしあなたへの依頼を間違えたかしら。わたくしは確かに人間も食べることが出来るけれど、人間は食べ飽きて食傷気味だし、第一この男の子は美しくないじゃない」
「いいえ、間違ってなどおりません。本日ヴィニア様に召し上がっていただくのは、この給仕の記憶でございます」
「記憶――」
――いいか、人間。記憶を食べられるということはな。
化け物は再三それでいいのかと確認して、それでも念を押すように俺に言いつけた。
それでも俺は、自身の記憶を魔神に食べられることに抵抗はなかった。
――その記憶をそっくりそのまま失うということなんだぞ。
――もう思い出すことも、欠片を見つけても懐かしさを感じることもできなくなるのだ。
いいよ。
俺にとっては確かに美しい記憶だ。――でも。
同時に、悲しい記憶でもあるんだ。
最前俺は、この部屋のことを公の隠し部屋と呼んだ。だが、もう今の子供たちはこの隠し部屋のことを知らないだろう。
ものには寿命がある。
玩具は壊れるし機械は劣化する。建物もそうだ。駅だって老朽化する。
俺がまだ足し算引き算はできても掛け算割り算ができなかった頃に、この部屋に寿命が訪れた。
みんなで宿題をしたり本棚の本を読んだり、ただいつも通り隠し部屋で遊んでいるだけだったのに、俺がかけっこで障害物を飛び越え、着地した瞬間に床が抜けたのだ。俺は全治一ヶ月の怪我を負い、少しの間入院した。
入院中の俺は気楽なもので、足が治ったらまたあの隠し部屋でみんなで遊ぶのだとワクワクしながら退院を待ち侘びていた。そして退院して隠し部屋に訪れると――誰もいなかった。
子供がジャンプしただけで床が抜けるような危険な場所で子供を遊ばせるなんてできない――と、今まで黙認していた大人も子供たちに、あそこに行ってはいけないと言い聞かせていたことを、俺はしばらくして友達から聞いた。
それでも時間が経てばみんなこんな楽しい場所を忘れることなんてできないだろうと思って、俺は禁じられたにも関わらず毎日通い詰めた。
そして誰も――戻ってこなかった。
諦めの悪かった俺は、それでも通い詰めた。
そんなある日――誰も来ない隠し部屋でまた、宿題をして隠し持ってきた漫画でも読もうと隠し部屋を訪れると、珍しいことに先客がいたのだ。
俺は歓喜した。
もう誰も来ないと思っていた場所に人が来たのだ。
俺よりも幾分年上の少女だった。
見たことのない女の子だったが、彼女は俺の名前を知っていて名前を呼んだ。きっと今までここで一緒に遊んでいた誰かだ。
「――くん。おままごと、しよ」
こんな年でおままごと――なんて思わず、俺は彼女に促されるまま、旦那さん役を引き受けた。
料理を作るふりをしながら、少女は言葉を漏らす。
「あのね、美しいものは美味しいものなの」
「美しいもの?」
「ええ、美しいもの――美しいものは、美味しいもの――」
いつの間にか少女が俺ににじり寄って来ていた。大して違和感も覚えず、俺は近付いてくる彼女の顔を見つめ続けていた。
「あなたの一番美しい記憶を、食べさせて」
唇と唇が触れた瞬間の、甘いときめきを俺は忘れられない。
彼女から漂ってくる香り、触れ合った箇所の柔らかさ――うっとりとした表情で俺を見つめる、夕焼けに染まった少女の顔。
あれより美しいものを、俺は見たことがなかった。
「ねえ」ひとしきりおままごとで遊んだ後、俺は彼女に問うた。「明日も来る?」
少女は肯定も否定もせず、曖昧に微笑んで去って行ってしまった。
そして二度と――隠し部屋に来ることはなかった。
俺の初恋は、始まることもなく終わった。
俺の唇から唇を離した少女――ヴィニアは、恍惚とした表情で笑んだ。少女の外見にそぐわない、妙に艶めかしい色香を醸し出していた。
「……あなただったのね」
「……?」
おそらく俺の記憶を食べたであろう少女は、俺の頬を何度か愛しげに撫でた。まるで可愛らしい子犬を撫でているかのような手つきだ。食べられた俺は恐らく記憶を失っているのだろうが、なにを食べられたのか思い出せない。
喪失感すら、なかった。
「ヴィニア様」
成り行きを見守っていた化け物が、一段落着いたのを見計らって声をかける。その手には美味しそうなスイーツが盆に乗っていた。
「デザートのステンドグラスの夕日でございます」
オレンジ色のソースがかかったアイスクリームに、この駅のステンドグラスを再現した飴細工が刺さっていた。そのスイーツを味わうようにゆっくりと食べると、少女は
「ありがとう天竜。とても美しいものを食べさせてもらったわ」
「恐悦至極にございます」
少女が来店したときと同じ言葉だったが、化け物の中の緊張ももうないようだった。
出口まで見送り、高級そうな車に乗って去っていく少女を見届けると、俺と化け物は揃って腰を抜かしてその場に座り込んだ。
「九死に一生――だなァ」
「怖かった……」
化け物はいつの間にか姿を変え、黒髪巨乳のセーラー服になっている。そして懐から煙草を取り出すと火をつけた。
「未成年が煙草を吸うなよ」
「あァ? 俺様の実年齢はとっくに成人してんだ。細けェこと言って水を差すんじゃねェよ――吸うか?」
「……もらう」
「――人間、手前何歳だよ」
化け物は美味そうに煙草をふかしながら訊ねる。よくよく考えるとそんな普通の世間話もしていない化け物のために、助けられたとはいえよくもまあ協力しようと思ったものだ。
「二十五」
「バイトクビになったって言ってたな」
「言ったな」
「俺様のとこで働くか?」
「は――?」
「さっきの御仁レベルはレアケースなんだが、世の中には普通の食事じゃ満足できねェ奴らがたくさんいる。俺様はそういう奴ら相手に料理を振る舞う。だが給仕が不足しててねェ、俺様だけのワンオペじゃそろそろ限界を迎えてたところなんだよ。で――だ、人間、手前が不自由しないよう手配してやるから、俺様のところで働かないか」
なにを言っているのだろう。そりゃあありがたい限りの申し出だが。
「なんでそんな、ほとんど初対面の奴に至れり尽くせりの提案……」
「ほとんど初対面の、ナニモンなんだかわかんねェ奴に自分の中の美しい記憶を差し出した奴に言われても説得力がないな」
ケヒヒ、と笑う。
「で、どうだ。俺様のところで働くか」
「…………」
悩む――ふりをする。
バイトはクビになり明日の路銀にも困って実家も頼れない――そんな人間が、こうして目の前になんとかなりそうな材料をずらりと並べられて、否と言えるわけがない。
「わかった。あんたのところで働かせてもらう」
「そう来なくっちゃ! よろしくな……えーと」
「江戸川だ。名前はいいや。名前より江戸川って苗字で呼ばれる方が好きなんだ」
「そうか、江戸川。俺様は天竜。ただのしがない人外の料理人さ」
遠雷の声がご機嫌に自己紹介する。もうその声に恐ろしさを感じることはなかった。
「ようこそ、レストラン『evil eat』へ」
俺のないない尽くしの人生は終わりを告げて――波乱万丈な、人外を相手取る人生が始まった。
了
美々しき悪食 巡ほたる @tubakiya
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