では、スタートです

縁代まと

では、スタートです

「では、スタートです」


 俺、花巻祥太はなまきしょうたの最古の記憶はそんなエコーのかかった言葉から始まっていた。

 周りの風景はまったく覚えていない、というより見えていなかったように思う。あれはきっと俺が生まれた瞬間の記憶だ。

 初めはまったく気にしていなかった。全員あの声を聞いて人生をスタートさせている、そう思っていたのである。しかし成長するにつれ「皆にはそんな声は聞こえていなかった」と理解するようになった。


 ということは後付けの記憶違いか、聞き間違いをそう解釈したか、頭のおかしい医者がいたか、母のセンスが変わっていたかのどれかだろう。

 できれば最後のは外れてほしい。


 中学に入学してすぐの頃、そんな一心で母さんに訊ねたことがある。

 俺が生まれた時にこんな声はしなかったか、と。

 返ってきたのは「また何かの漫画に影響された?」という理不尽な一言だった。失礼な、俺が漫画に影響されたのは一昨年の暮れに必殺技を真似て襖に突っ込んだ時が最後だ。


 しかしこうして一番身近で確かめやすいところから確証を得られなかったことで、この件は『今更どう調べたところで何もわからない事柄』に再カテゴライズされることとなった。

 お手上げだ。

 さすがに当時の産院で母さんを担当した医者を探し出し、こんなことを訊ねるわけにはいかないだろう。取り上げた子供が変人に育ったと医者に誤解させるのは申し訳ない。


 そんなこんなで諦めた俺はいつも通りの日常をいつも通りに過ごすことにした。

 多少「スタート」とそれと対になった「ゴール」という存在に対して敏感になったものの、ただそれだけなので日常を過ごすことに支障はない。


 日常の中には様々な人がいる。

 その中でもとびきり元気で、とびきりやる気に満ち満ちているポジティブな人間が俺の幼馴染である柳沢晴加やなぎさわはるかだった。

 艶やかな黒髪は俺と同じ安売りシャンプーを使っているとは思えない。

 視力が良く席はいつも真後ろで、同じクラスになるとよく俺の背中の感想を休み時間に伝えられた。「今日の祥太の背中は、シャツにここ十年で一番の芳醇でおっきいシワがついておりましたなぁ」とかだ。ボジョレー・ヌーボーか。


 たまに落ち込んでいることはあったが、黙って隣にいるだけで自分の中で折り合いをつけて立ち直っていた。

 こんなことしか出来ない幼馴染なのに、傍にいてくれるだけで安心するからいいらしい。もう少し贅沢なこと言ってもいいと思うんだがな。

 だというのに俺がヘコんでると具体的な解決策を見つけようと奮闘してくれたり、代案を考えてくれた。

 そういう支え方の方が俺には向いてる。

 つまり晴加には俺のことなんて筒抜けってことだ。


 ある日忘れ物をして先生に叱られた。しかも友達の前で、だ。

 ついでに弁当の好物であるソーセージを落とし、掃除時間にはロッカーを開けるなりホウキに襲われ、野良猫には謎のフレーメン反応を起こされ、ドブに足を突っ込み、鳥にフンを落とされた。俺が何をしたって言うんだ。

 そうしてここ十年で一番の芳醇な落ち込みを見せていた俺を晴加がいつものように励ましてくれる。

 その前向きさが眩しい。


「――なあ、どうやったらそんなに前向きになれるんだ?」


 気がつけばそんなことを訊ねていた。

 俺だってべつに自覚するレベルで暗い性格をしているわけじゃない。

 そして晴加も落ち込む日だってある。それでも眩しい相手だったからだろうか。

 晴加はしばらくきょとんとした後「うーん」と考えるそぶりを見せてから答えた。


「いつ自分の人生がゴールに辿り着くかわからない。そう思うことで、今やれることをやろうって気持ちになるんだ」


 予想していた答えとは違っていた。

 つまりいつ死んでも後悔のないように生きようと常に考えてるのか。


 ……そうだよな、あの時俺の人生が『スタート』したなら『ゴール』は死だ。

 当たり前のことを再確認しつつ、俺は晴加が買ってきてくれたフランクフルトを齧った。


     ***


 二十歳を過ぎる頃には様々な経験を重ね、色々な思い出ができていた。


 その中でも特筆すべきは晴加と交際を始め、そして結婚したことだろうか。

 幼馴染、しかも異性とはいえ兄弟姉妹のように思っていた相手だ。こんな関係になるとは思ってもいなかったが、晴加は違っていたらしい。

 そうして告白された時に不快感や違和感はなかった。

 ということはそれが答えだ。


 結婚した俺たちは同じ表札の家に住み、そして特筆すべきことが更新された。子供が生まれたのだ。

 自分が親になるなんて奇妙な気分だったが、やっぱり不快感も違和感もない。

 つまりこれも答えだ。


 だが晴太せいたと名付けた第一子は二歳になる前に病でこの世を去ってしまった。


 ――こんな形でもう一度特筆すべきことが更新されるとは思っていなかったが、これは俺の想像力不足だろう。

 小さな子供は命を失いやすい。

 それは最初からわかっていたことだ。


     ***


 二年経って、晴加はようやく立ち直ったようだった。

 我が子の生きた時間よりも長い間悲しみ続け、その時間を無駄にしてしまうことが嫌だったと晴加は語ってくれた。


 晴太を失った当初はとても見ていられない状態で、俺も辛かったが寄り添うだけでは立ち直れない晴加が心配で色々なことを試した。なるべく話を聞いたり、行きたいところへ連れて行ったり、料理は下手だったが晴加の好物を作れるように練習したり。

 少しずつ笑顔を見せてくれるようになったことが俺は嬉しかった。

 そしてそれが俺にとっての救いでもあったのである。


 俺たちは結婚後に東京へ引っ越していたが、一度自分たちの思い出の場所を巡ってみようという話になり、気分転換の意味も込めて故郷に顔を出すことにした。

 観光目的で故郷に足を運んだのは初めてのことだ。

 普段とは違う目線で地元を楽しむのはそれなりに楽しく、そして少しばかり気恥ずかしい。それは晴加も同じだったようで時折はにかんでいた。


 故郷に滞在する最後の夜。

 俺に想いを伝えてくれたのと同じ丘の上で晴加が言った。


「前に人生のゴールの話をしたでしょ。あれ、少し考えが変わったんだ」

「変わった?」


 晴加は風に髪を遊ばせながら頷く。


「ゴールじゃなくってスタートだと思いたいなって」


 あの子の存在が、死んで終わりじゃないと思いたい。

 そう晴加は俺を見てしっかりとした声音で言った。

 亡くなった後もこの世に生まれた意味があってほしい。そしてそれをより確固たるものに出来るのは、生きている俺たちだけだ。

 晴太の人生は本当なら長かっただろうし、その分も生きるなんてことは叶わないが、それでもあの子の分も俺たちで生きていこうと自然と口に出ていた。


 そうすればあの子はあそこで終わった――ゴールしたわけじゃないと思えそうだったから。


     ***


 その考え方は俺にとっても支えになった。

 晴加のことばかりを心配していた気がするが、だからといって俺が精神的に何もなかったかというとそうじゃない。一時的ではあるものの円形脱毛症になったし眠れない日も多かった。

 それでも晴太はあれで終わりじゃなかった。

 そう思えるようになって大分心が軽くなったように思う。


 だから晴加は共に頑張るパートナーであり、恩人だ。

 そんな彼女との間に次男、長女が生まれ、家族が増え、それに寄り添うように思い出もまた増えていく。

 クラウドには山ほど写真を保管しているが、本として手元に置いておきたくてフォトブックとしても家に残し、その重さはあっという間に晴太の当時の体重を追い越した。


 沢山の、沢山の時を重ねていく。


 ある時晴加が先にこの世を去り、俺は娘や息子夫婦のいないところで何日も泣いたが、いつか終わる涙だと心のどこかで理解していた。

 晴加もまた、ゴールしたわけじゃない。

 そこからまた始まったんだ。


 だから悲しんでばかりじゃいけない。俺がここで悲しみ続けるのはスタートもゴールもしない歩みを止めるような行為だ。

 立ち上がれるくらい泣き終わったら――また進み始めよう。

 そう心に決めて、桜が散り始める頃によく外へと出るようになった。


 そんな俺ももう年だ。

 生きている中で日本の平均寿命は徐々に延びていたが、まあその一歩手前くらいまでは来た。

 ……幼子が命を失うのはあっという間だが、老いた人間が命を失うのもあっという間。

 軽く転んで骨折した俺はそのまま入院し、治るのを待つ間にリハビリが追いつかず筋力が衰えてほとんど寝たきりになってしまった。

 ものを飲み込むのもよく失敗し、何度か肺炎を起こして体力が削られていく。


 そうして俺は家族に見守られながら肉体を手放す瞬間を迎えた。

 名残惜しいが、長引かなくてよかったとも思う。子供たちにこれ以上苦労をかけるのは本望じゃない。

 死ぬことが恐ろしくないかと問われれば首を縦に振ることなんてできないが、今はそれよりも怖いことがひとつあった。


 初めの子のことも、先に逝った妻のことも、ゴールしたのではなくスタートしたのだと思いたい。

 だから最後に「ゴールです」とは聞こえないでほしいなと俺は真っ暗になった視界の中で考える。


 始まりのあの日にスタートですと言われたのだから、命潰える日にゴールですと聞こえてもおかしくはないだろう。

 ただそれは今の俺の考え方と相反するものだ。

 だから聞こえてほしくない。

 できるなら、そう、もう一度「スタートです」と言ってほしかった。


 ……。


 ……。


 もう体感時間はあてにならない。

 しかし随分と長い間、何も聞こえてこなかった。聴力も仕事をしなくなったため家族の声もすでに聞こえず、静寂だけが続いている。

 ならば、と俺はもう動きもしない口で、しかし確かに言った。


「……では、スタートです」


 晴太も晴加もあれからまたスタートしたのだ。ゴールなんかしていない。

 そう信じるために、自分の口で、はっきりと。


     ***


 いつしか真っ暗だった空間は赤黒くなり、無音だった空間には耳に直接届くような鼓動の音が響いていた。

 そこから押し出され、ひんやりとした世界――外の世界へ出た瞬間、俺が直前まで口にしていた言葉が頭の中で反響する。


「ではスタートです」


 ――昔、遥か昔に聞いたあの声も、じつは俺のものだったんじゃないだろうか。

 記憶が急速に失われていく中でそう思う。

 ああ、じゃあ信じた通りあれはゴールじゃなかったんだ。終わったと思ってもスタートだった。かつての家族はあれで終わりじゃなかった。あの後も続いていた。

 それが嬉しい。

 嬉しくてたまらない。

 そうして俺が大きな声で泣くと、薄ぼんやりと見える周りの人間が笑った気がした。


 俺もあれで終わりじゃない。

 きっと記憶はもうなくなる。けれど終わりじゃない。

 新しく始まった晴加たちにまた会えるとは限らないが、けれど、終わりじゃない。


 そう満足感に包まれながら次の人生を見据え――そして、俺は再び『スタート』した。

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