第41話 腐敗と凍結。
「うん……強いね。とっても」
王都から遠く離れた、フーゴ大平原王都前にて、ローズウィスプは眼前の悪魔を強敵と認めた。
銀髪の悪魔、アビゲイル。
銀髪は洒脱に波打っており、瞳は深い海のような群青色だ。
翼は六枚。二千年と生きた悪魔だけあって、その凛々しい面貌にも貫禄がある。生物を殺めることに、なんの抵抗もない冷徹な顔容だ。
悪魔の顔や手には皺がなく、老いとは無縁の生物であることが見て取れる。
生きた年数もあって、魔力量は天災に匹敵する。ただ魔力を放出しただけで、街も建物も藁屑のごとく吹き飛ぶだろう。
「女。お前の権能はなんだ」
ローズウィスプは唖然とした。
いまから戦う相手に、得手とする能力を聞くやつがいるか。
あまりにも荒唐無稽で、内心の落胆を禁じ得ない。
「君、悪魔たちの親玉だと思ったんだけどさ」
「いかにも、この俺こそが、二千年と生きた大悪魔、アビゲイルだ」
「知性は……低くないよね。どうして、私が教えると思ったの?」
アビゲイルは瞬きした。
目の前の女が、何を言っているのか分からないと言った風に。
「楽に、死にたいだろ?」
「……え?」
そして今度は、ローズウィスプが困惑する番だった。
「俺は、千年前の大戦に出たことがある。力なき者どもが、己の些末な力に妄信して、挑みかかってくるのだ。その度に、奴らは涙しながら散っていく。勝手に勝てると思い込んで、勝手に絶望するのだ。まったく理解が及ばんが、俺なりに情けを考えた。――あらかじめ、俺が能力を把握しておけば、俺が絶対の有利をもって、戦闘が開始される。その状態でなら、絶望も何もないだろう?」
何と傲岸な理合いだろうか。
価値観の違いという言葉では収まりつかない傲慢の限りで、ローズウィスプは大前提の問いから始めた。
「戦う目的は、人それぞれ。プライドを、第一にしている人もいるだろうけど、家族を大切にしている人だっている。愛する故郷や、子供のために戦う人だっていると思う」
「何が、言いたい?」
「涙を流す理由は、その人によるってこと。なにも、君が強すぎるだけで、泣いているわけじゃないと思う」
「では、他に何がある?」
「だから、残されてしまった家族のためにとか、故郷を守れなかったからとか――」
「なぜ、そんなもののために泣く?」
ああ……と、ローズウィスプは分かり合うことを諦めた。
これが、悪魔。
邪悪という概念すら理解していない、ただそこに存在する純朴な魔。
殺すことが生業であり、苦しめることが当たり前。
もはや押し問答をするだけ、時間の無駄である。
「いや待て、分かる気もするな。最近、生まれた悪魔の中には、この退屈な毎日を嫌っている者が多い。フィームが、その内の一体だ」
「可哀そうって、気持ちが……分かるの?」
アビゲイルは、自信をもって首肯した。
「これは大戦時の話だ。俺たちは人間の村を襲い、身籠った人間の母を見つけた。母は『どうかこの子だけは』と、突然涙を流し始めた。『どうか』とお願いされたのだ。だから俺は、母の胎盤から赤子を引きずり出して、目の前で喰らった。母は感謝のあまり、血涙を流していたな。きっと、自分で喰いたかったのだろう。母の
「ばくん」
ローズウィスプによる〝暴食〟の魔法が、アビゲイルの右腕を食い千切る――はずだった。
しかしローズが右手を閉じても、アビゲイルは無傷のままだ。
代わりに大悪魔の前で、氷の結晶がピシリと咲いた。
防衛魔法? あるいは、自動探知式の何かか……。
ローズが分析を進める中で、アビゲイルは首を傾げている。
「攻撃した? ……なぜ?」
答える必要はない。既に対話の時間は終わり切っている。
この隙にもローズは暴食の霧を生成し、霧を練り固めて暴食の右腕や、暴食の化身としてアビゲイルへと猛攻を仕掛けている。
けれど、氷の結晶が舞うだけだ。試しに、暴食の権能ではなく、火球の魔法を放ってみるも結果は同じ。アビゲイルへの攻撃を無効化するような領域が、展開されているとしか思えない。
「俺なりに理解しようとしているのだが……いや、無駄なことだな。そもそも、これから殺す命を、なぜ理解する必要があるのだろうか?」
たった、一歩。
アビゲイルはそれだけで、ローズウィスプの背後を取った。
加速の域を超えた移動術に、ローズは瞠目しながらも、防衛手段として暴食の霧を展開する。
「っ!」
だが、意味がなかった。ローズの右腕は凍結され、反撃に出ようと思った次の瞬間には、また背後を取られている。今度は左腕をやられた。指をかざすだけで、アビゲイルは暴食の守りを突破して、ローズへと有効打を叩き込む。
「あ……ああああああああああっ!!」
ローズは、風魔法と暴食の権能を融合させた一撃、〝暴食性〟の颶風を展延する。
この風は、草木も、大地も、血肉も、魔力も、問題無用で喰らい尽くす。魔力消費は激しいが、有無を言わさぬ広域攻撃だ。近くにいる敵なら、必中は免れない。
アビゲイルは骨すら残らぬ芥子粒になるであろうと顔を上げたローズだったが、再三の驚愕に息を呑んだ。
「警戒し過ぎたか。幹部でこの程度なら、フィームの言う通り、さっさと仕掛けて良かったかもしれん」
暴食の颶風ですら、アビゲイルにはかすり傷ひとつ与えられなかった。
どころか、ローズを無視して歩き出す始末。
ローズが「待て」と声を上げたが、身体を氷漬けにされてしまった。
圧倒的、強さ。戦いの埒外にある、一方的な蹂躙。
さて、それでは人間共を虐殺しようかと、アビゲイルは王都へと首を向けた。
「ごめん、みんな――」
その刹那、
「使うなって、約束。ちょっと、守り切れなさそうだ」
ローズを支配していた氷は割れ砕け、腐血じみた色の瘴気を纏い始めた。
「……なんだ? その、力は」
先ほどまでの〝暴食〟の濃霧とは、明らかに違う。
饐えた血の匂い、芬々と沸き立つ血潮の邪気、侵食されていく腐敗の大地。
魔法でも、剣技でも、霊魂でも、罪法でもない、何か。
二千年と生きた大悪魔の本能が、アビゲイルに警鐘を鳴らした。
「死んで」
ローズの動態もまた、見違えるほど強化されていた。
ぬるりと滑るように、アビゲイルの懐に入り込んできたローズ。
血と暴食の渦を巻いて、悪魔へと右腕を掛け放つ。
これを脅威と見て取ったアビゲイルは、一歩で大きく間合いを開け、指を翳す。
それだけで前方の草原全てが凍土と化し、少女もまた氷塊と化した。
だが、死には至らない。
たちまち、ローズを覆っていた氷は割れ砕け――いや、氷は〝腐敗〟していた。
魔法で強化された氷や冷気は、ローズの腐れによって溶け落ちていく。
「こいつは……何だ? 腐敗の魔女……いや、そんな罪はなかったはず」
ローズが右腕を薙ぎ払うだけで、直線状の物体は腐敗と暴食に荒らされる。
「……なに?」
アビゲイルが魔力を練ろうとすると、その魔力すら溶け落ちた。
散っていった魔力や物体は、暴食の渦を展開しているローズに全て呑み込まれ、彼女からまた新たな腐敗と暴食が吹き荒れる。
「よかろう――なれば、神髄を見せてやる!!」
魔力操作を妨害されるのであれば、妨害されないほど膨大な魔力をもって叩き潰すのみ。
「ああっ……ああああああああああああああっ!!!」
それは暴走と言うべきか、発狂と言うべきか。
両手で頭を抱えるローズの総身から顕現された腐敗の大竜が、悪魔を喰らい殺さんと驀進する。
これに渾身の一撃を込めて迎え撃つ、アビゲイル。
真なる氷属性魔法が、この世ならざる腐敗の竜と激突した。
「一般的に、絶対零度は-273.15℃とされているが、それは凡夫共の領域だ! 魔力によって絶対温度の閉じ込めスケールを反可換することで、絶対零度を超えた〝真なる冷気〟を獲得する! 物体はおろか、魔力さえも凍て付かせる奥義は、魔法との衝突時に、エルド状態空間を形成するのだ! 魔法は凍結し、貴様は、何も出来ない! ただの風景の一部となるがいい!!」
声を張り上げて、いっそうと魔力を放出させるアビゲイル。
それこそが、彼がローズウィスプの〝暴食〟を無力化していた神髄だ。
大悪魔の魔法にかかれば、敵からの魔法そのものを凍て付かせる。
さらに、絶対零度を超えた物体の挙動は、量子効果の不確定性を招く。悪魔はこれを利用し、超過凍結と解凍の間に生じるエネルギーを使って、擬似的な瞬間移動を可能とさせた。
二千年と生きた、大悪魔の最終奥義だ。
後は魔力を注ぎ込むだけで、万物が超過凍結のマイナス数百度の世界へと閉じ込められる。条理に反した、永久凍結だ。
「ふははははははは! 天地万物、氷の奥底へと眠るがいい! 王都も、人間も、エルフも、何もかも! 弱者は、悉く淘汰される結末なのだと――」
アビゲイルは、昂揚していたのか。それとも、大陸に舞い込む雪の嵐で、単に視界が悪かったのか。あるいは、慢心していたのか。
「……あ?」
腐敗の竜は、アビゲイルの魔法を突破し、奴の眼前にまで迫っていた。
竜鱗はない。爛れた皮膚を持ち、前脚は骨まで剥き出しになっている。
穴だらけの翼、覇気を失った眼光には、竜たる威光を感じない。
「お前、は――この世界の、住人なのか?」
だがそれでも、腐敗の竜はアビゲイルの氷を腐り溶かしていく。
ジュクジュクと、魔力も魔法も腐っていく竜は、ついぞその口を開けた。
「っ……や、やめて!!!」
アビゲイルは肉体を乗っ取っているだけで、元は人間である。
彼が喰われてしまう寸前で、正気を取り戻したローズウィスプ。
彼女が張り叫ぶと、竜はさらさらと血の瘴気になって帰っていった。
「良かった……能力を、中断したんだ」
器に致命的な被害が及べば、アビゲイルの本体もダメージを受ける。
これを嫌ったアビゲイルは、器との同期を中断。
殺してしまう前に、ローズは彼を取り戻したのだ。
しかしアビゲイルは、同期を解く直前に、空に向かって何かを撃ってた。
どんな置き土産かは知る由もないが、まだ警戒して然るべきだろう。
「直ぐに、戻らなくちゃ……でも……身体が……」
上手く身体に力が入らず、ローズは苦渋に眉根を寄せた。
三年前、〝聖霊樹の根〟で手にしてしまった力――腐敗は、未だ制御できない。
一歩間違えれば、王都を滅ぼしかねない力だ。
首尾よくやった……とは言えない。
今回、上手くいったのは、ただの偶然だったのかもしれない。
それでも、アビゲイルの同期から解放された人間――ラッセは、ミリアの恋人だ。彼が無事に帰ってこれたことに、ローズは心から安心した。
「意識が……ううん、まだ倒れちゃダメ。なにか、ヒントは……」
ローズは、アビゲイルたちの悪魔が、どうやって人間の器を依り代にしていたのかを探る。
元は人間たちだ。なにか、悪魔たちを招いてしまう触媒があるはず。
「ブレスレット……? そうだ。三人とも、この
委細はまだ掴めないものの、ローズは王都へと向かって駆け出した。
彼女の愛する仲間たちを守るため、覚束ない足取りでも走り出した。
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