第35話 シルヴィア・エストホルム
『まもなく、剣舞祭、第三部、準決勝が開始されます。観戦されている皆さまは、今しばらくお待ちください。繰り返します――』
多額の税金を投資して作られた広大な会場は、ほぼ満員だ。
いかにお子さま専用の第三部といっても、栄華ある王都の剣舞祭。
未来の騎士団長候補たちを一目しようと、何十万人という観客たちの声援が鳴り渡っている。次はいよいよ準決勝、残り二回で若き王者が決定する。
「ほう、ヘレニウス家の長男か。あいつは、いい目をしている。将来は、世界に名を馳せる剣豪となるに違いない」
「はい、私もそのように思います、お兄さま」
「しかし、ダールベック家もなかなかだ。あそこの長女は、女のくせになかなか剣筋が冴えている。魔力操作は……ヴェランデル家の三男だな。あいつは巧い」
「はい、私もそのように思います、お兄さま」
東の都市国家、王族エストホルム家の兄妹は、完全個室の豪華スイートルームで、ああだこうだと高みの見物を決めている。
「完全に、場違いだな」
その隣の小さな小さな補助席では、シグが置物になっている。
どうしてこの性悪兄妹のスイートルームに、シグも招かれているのか。
それは、彼がシルヴィアの彼氏(仮)だからである。
「あら、どうしたの、シグ君? 随分と、顔色が悪そうだけれど?」
嘲るように、ひょこっと顔を覗き込むシルヴィア。
「そうかな? 病気と思うくらい、白化粧をしている君よりかはマシだけど?」
カウンターで飛んできたシグの皮肉も、シルヴィアはぷっと嘲笑ではね返した。
「残念でした~。この通り、地肌よ、地肌。冴えない陰険男子のシグ君には、分からなかったかしら?」
「最近、美人を見過ぎていてね。微妙なラインの美人を見ると、肌がくすんで見えるんだ」
子供離れした口喧嘩の強さで、シグはシルヴィアの怒りを買うことに成功した。
「あら、これは何のための剣かしら? いくら駄犬でも、剣の錆落としくらいにはなるわよねえ?」
シルヴィアがシグに剣先を突き付けるも、シグは全く動じない。
「剣の錆びは落とせても、剣士の腕は錆び塗れだね(笑)」
「私は、学園の一級剣士なのよ? シグ君は、頭の中まで錆びてるようね」
「どれだけのお金を積んだの? 剣筋は銅でも、賄賂は金貨かな?」
「実力よ、実力! チッ……本当に、試し切りしてやろうかしら」
白い歯を剥き出しにして、シグの首に凶器を添えるシルヴィア。
そんな二人の光景を、兄のヴィンセントが微笑まし気に眺め入っている。
「妹に彼氏が出来たと聞いた時には、驚いたものだ。……ふふっ、なかなかお似合いだな、シルヴィア」
「はい、私もそのように思います、お兄さま」
兄の前では、シルヴィアは絶対服従の姿勢だ。顔にも怯えがこびりついていて、身体は小刻みに震えている。
「ふふふっ……ヘレニウス家の長男が勝ったか。見ろ、シルヴィア。大衆たちは、勝者の名を叫び、敗者になど眼中にない。負け犬だ。失敗作だ。存在する価値のない凡夫は、誰の記憶にも残らない。勝ち上がり、名を上げることこそが、人間としての価値なのだよ」
優雅にワイングラスを揺らし、目下の闘技場を見据えるヴィンセント。
その眼光には、他者を見下すような色が漂っている。
無価値な、下等種どもめ。
なんてキザな台詞も、なかなか彼以外では聞けない台詞だ。
「お兄さんは、勝つことが全てなのですか?」
シグの問いかけは、彼をいっそうと饒舌にさせた。
「この世界には、二種類の人間が存在する。――勝者と敗者だ。勝者は、地位も、名声も、力も、金も、女も、何だって手に入れることができる。何だって、だ。そこに際限はないし、世界の覇王となることだってできるだろう。ふふふっ……それに比べて」
ヴィンセントが視線を移すと、シルヴィアは目に見えて怯えだした。
「敗者には、何もない。何も持っていない無価値な肉塊に、いったい誰が、関心を持つ? 力もなければ、金も集まらない。金がなければ、名声は勿論、誰だって寄ってこない。無意味で、無価値な人生さ」
シグは、内心の落胆を隠しきれなかった。
兄は冗談とかたとえではなく、本気でそう思っている。
揺るぎない眼差しでそう断言したヴィンセントは、余りにも愚かだった。
「友達は?」
「はっ……友達?」
キョトンとした顔で、ヴィンセントはシグを見やる。
「知人や友人、仲が良くなったら、交際関係にだって、発展することもあるかもしれない。親姉弟だって、絆はあるよね。自分を支えてくれる大切な人だって、生きていたら出来ると思う。人と人との関わりに、お兄さんは興味ないの?」
ヴィンセントは沈黙した。
シグの言っていることが、まるで分からない。
彼の口にした言葉が、自分の理念とは乖離が大きすぎて、結局それを理解するには、一分ほども時間がかかった。
「は? 人間関係……そんなものに、価値があると、そう言いたいのか?」
「家族、兄妹、友人、恋人。いつだって、人は人に支えられて――」
シグの持論は、ヴィンセントの爆笑によってかき消された。
「あはははははははははははっ!! 本当に子供だねえ、シグ君! 絆、信頼、人間関係? そんなもので、何か買えるのかい? お肉ひとつ食べれないさ! いい酒を飲むことも、女を抱くことだってできない! 何も持っていない弱者がこぞって捨て吐く、薄っぺらな言葉さ!」
ああ……と、シグはひとつの確信を持った。
この兄がいるから、妹も歪んでしまったのだろう。
しかしシルヴィアは、完全に兄の思想には染まり切っていない。
いまも愉悦の哄笑を轟かせている兄と比べて、シルヴィアは、苦しそうに沈黙しているのだから。
「ではお兄さんは、友人のひとりもいないのですね」
「なぜそうなる? お友達なら、いっぱいいるさ! さっきだって、ウルマン家の父君が、俺に頭を下げてきたぞ?」
「可哀そうな、人ですね」
「……ああ?」
「金があるのと、金しかないのでは、雲泥の差があります。彼らはお兄さんに、惹かれているのではなく、貴方の権威を目当てにしているのです。そう……光に集まる虫のように。いや、腐肉に湧く蛆と言った方が、適切――」
「お兄さま!!」
ヴィンセントはシグの胸倉を掴んで、持ち上げた。
「いったい何を言っているんだい、シグ君? 君はまあ、多少は名の知れた貴族だ。それも全て、姉のオリヴィエ・エルランデルのおかげだろう? 他人の功績にあやかってご高説とは、面白いじゃないか」
「仮に僕がただの平民でも、同じことを口にしていますよ」
「……何が言いたい?」
「貴方は孤独だ。その内心の空虚さを、金と権威で誤魔化しているだけ。信頼もない。絆もない。自我を持っただけの歩く肩書きに、何の価値があるのですか? あなたは、誰からも愛されていない」
「……ああ」
ヴィンセントは満足気に頷き、シグを解放する。
「じゃあ、死ね」
彼は自分の腰へと手を伸ばし、その凶器を容赦なく振り抜いた。
「っ!!?」
だが、シグの前に立ち塞がったシルヴィアがその一撃を止める。
流水の如く足捌きと、腰の入った受け流しだ。
彼女の剣技は、一か月前と比べると見違えるほどに研ぎ澄まされていた。
「シルヴィア……いったい、何の真似だ!!」
妹は泣き出しそうな顔をしながらも、剣に込める力は緩めていない。
「お兄さま。すみません……どうか、ご容赦ください」
「誰に、ものを言っている!! 俺に逆らうと言うのなら、お前も――」
「……ッ!」
魔力を駆使して、圧巻の高速移動を果たしたヴィンセント。
妹の背後を取った彼は、迷いもなくその一刀を振り下ろした。
「おい」
「あ? ……はあ?」
ヴィンセントは、目を疑った。
次に剣撃を防いだのは、一三歳に過ぎないシグで、しかも七級剣士の無能だ。
どうあがいても、こんな底辺剣士が反応できるわけないのに。
「そうか、そうか。ふふふっ……怒りに呑まれて、剣筋が鈍ったというわけか」
「そんなことは聞いていない。弁えろよ、道化。次はないぞ」
「貴様……誰を相手に、そんな口を利いている!!」
「お兄さま、もうおやめください!!」
「知ったことか!! こうなれば、お前も、こいつも、徹底的に嬲り殺して……っ!」
鬼の形相をしていたヴィンセントは、新たな入室者が見えたと共に、豹変したかのように笑顔になった。
「やあ、マイハニー。元気にしていたかい?」
「えっと……お取込み中だった?」
「ううん、そんなことないよ」
「でも、怒鳴り声が聞こえたような……」
「じゃあ、ちょっと場所を変えようか。いやいや、エルランデル家の長男が、僕に剣を教えてほしいって言ってきてね」
「え!? あのエルランデル家の方から!?」
「そうそう、姉とは比べ物にならない無能の弟だ。けれど、僕の指導によって、一気に腕前が上達してね――」
兄と恋人と見られる女性は、そんな会話をしながら部屋を後にした。
「……」
シグが席に着くと、シルヴィアもその隣に座った。
シルヴィアは手で顔を覆いながら、悲愴な嗚咽を漏らしている。
身体の震えも収まらない。
彼女はきっと、生まれて初めて兄に反抗したのだろう。
「怖がらせてすまない」
シグの言葉に、シルヴィアは頭を左右に振って否定した。
「ごめんなさい。こんなつもりじゃ、なかったの」
「喧嘩を売ったのは僕だ。シルヴィアに非はない」
「それでも……私、どうしたらいいか、分からなくて……」
シルヴィアはさっき、何をどう感じたのだろう。
シグは、彼女を知らなければならない義務を感じる。
高慢になってしまう前の少女は、きっと純粋無垢だったはずだから。
「どうして、僕を助けてくれたの?」
「だって……ううん。あんたは、仮の彼氏だもん。大切な人でも、命を懸ける相手でも、ないって思う」
「そうだね」
「それでも、殺されていいはずがないでしょ。目の前で、誰かが殺されるのに、どうして……どうして、知らないふりができるの?」
シグはとても腑に落ちて、彼女に懐いていた人物像を塗り替えた。
「助けてくれて、ありがとうシグ」
「ううん、シルヴィアの言う通りだ。僕も、そう思ったから。僕の方こそ、助けてくれてありがとう」
「うん……分かった」
暫くの間、シグは彼女が泣き止むのを待った。
すっかり涙も落ち着いた頃、シルヴィアは独りでに語り出す。
「一年前くらいかな。お兄さまは、いまほど酷くなかった……と思う。婚約相手のヘレーナ・リネーさまとも上手くいかなくて、毎日荒れ果てていたの。不運も重なって、お母さまが殺されちゃって……お兄さまは、どんどん力に溺れていったんだと思う。私は怖くなって、祖国を離れちゃったんだ。お兄さまとも疎遠になって、いまは一人で暮らしてる。久しぶりに再会したら、ああなってた」
「それでも、実の妹を殺そうとするのは、どうなんだ?」
「分からない。私には、お兄さまが何を考えているのか、分からない。一年ぶりに会ってみたら、お兄さまの考えは、もっと酷くなってた。けれど、強くもなっていた。私が強くなれたのも、お兄さまのおかげだし……」
シグは、憤懣やるかたなさそうに息を吐いた。
あんな兄でも、妹の支えにはなっているわけだ。
もしもあのまま戦闘に発展して、最後を迎えていたら、シルヴィアは絶望していたかもしれない。
「私はこんな性格だから、友達もいない。付き合ってくれるのは、あなただけ。だけど、お兄さまの影響だなんて思っていないの。だって、お兄さまは、いつも私を導いてくれた。昔も、今回も、いつだって……」
「だけど、いまのままじゃいけないだろ。シルヴィアは、どうしたいんだ」
彼女は自分の胸に手を当てて、この気持ちに自分なりの答えを見出した。
「強くなりたい。誰よりも……お兄さまよりも」
彼を変えるためには、力でねじ伏せる他ない。
勝利こそが人の価値だというのなら、それが一番手っ取り早いのだろう。
勝者からの説示なら、ヴィンセントも耳を傾けるかもしれない。
「気掛かりではあるが、いまは王都の警戒が最優先か……」
第三部の全試合が終了し、人々の歓声が王都中に響き渡った。
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