スタート号令

桁くとん

スタート号令





 『位置に付いて』

 『よーい、ドン‼』



 突然声が聞こえた気がした。


 俺は、何だ? と疑問に思ったが、俺の体はその声に反応していた。


 仕事をしていた机から立ち上がり、部屋の出入り口に向かって走る。

 同じ部署で働いていた上司や同僚たちも同じく一斉に席から立ち上がり、出口に向かい駆け出している。


 俺よりも出入口に近い座席の同僚が、後に続く俺達を阻もうとしたのか思い切りドアを閉める。

 競走だから、少しでも自分の順位を上げるために後続の俺達の邪魔をしようとしたのだろう。

 力いっぱいの全力で閉められたドアに、真後ろを走っていた事務員の女性の体が挟まれる。


「ぎゃっ」


 と言って事務員は一瞬立ち止まるが、後から来た社員が事務員を突き飛ばしてドアを開けて外に駆け出す。


 俺もすぐに続き、ドアが閉まる前に部屋から飛び出す。

 事務員を踏まないように飛び越え、左に曲がって玄関を目指す。


「きゃー、止めて!」


 ボニュッ、バキッ


 後ろから事務員の悲鳴と何かを踏みつける音。


 皆、事務員を避ける余裕は無いようでおそらく踏んづけてしまっており、骨でも折れたのだろう。


 後ろを気にしている余裕は無いからあくまで想像だ。


 俺はビルの玄関を目指す。


 上階のフロアからも大勢の社員が階段を駆け下りてきており、玄関ホールは出口を目指す社員が大勢走っている。

 エレベーターなんてまどろっこしいものは誰も使っていない。


「うわあ」「痛い」「押すな」「ぐえっ」


 階段は誰かがつまづいたのか、多くの社員たちが将棋倒しに倒れ、玄関フロアになだれ落ちて来る。


「ぐふっ」「ぶほっ」「げはっ」「ぎゃあっ」


 ぼむっ、どすっ、ばきっ、みりっ


 更に階段を駆け下りて来る社員たちはフロアに倒れている社員たちを避ける余裕も無く、踏みつけながら玄関に殺到している。

 阿鼻叫喚とはこのことか。


 その光景を横目に見ながら自分のオフィスが1階のフロア所属で助かった、と思いつつ 俺はその人混みに飲まれる前に玄関を抜ける。


 会社の建物の前の道路を、車道も歩道も関係なく大勢の人間が一定の方向に向かって走っている。


 俺も皆の走るその方向に躊躇なく駆け出す。


 車道は道行く車が全て止まっており、乗っている人間は皆、車から降りて俺達が走っている方向に向かって駆け出している。

 車の走行中に追突したのか、車のエンジンを切らずに運転者が駆け出したのか、あちこちで車がぶつかっているが、誰も怒鳴り合ったりはしていない。

 皆、俺と同じ方向に走っている。


 信号交差点の信号は赤だが、俺の前を駆ける人間は信号なぞ無きがごとく無視して駆けている。

 当然俺も後に続いて駆け抜ける。

 その道の両脇から出て来た人間たちも俺達が駆けている道路に合流すると、俺達と同じ方向に曲がり駆けている。

 脇道から全力で走ってくる人間は曲がり切れず、俺達と同じ道を駆けている人間にぶつかり互いに倒れる者も大勢いる。


 どんっ


「ぐえっ」


 俺の目の前を走っていた奴が、脇から来た奴にぶつかられ、バランスを崩して横に吹っ飛ぶ。


 ばきっ、ごきっ、ぐもっ、べきっ。


 そいつは俺の横に並ぶように走っている大勢の人間に踏まれたようだ。


 俺の前は、もう他の建物から出て来た人間たちが道一杯に同じ方向に走っている。

 左右を見渡すと、俺の左右も人で一杯だ。

 後はどうだろうか、と思って無理やり首を捻じ曲げて後ろを見ると、後ろにも道を埋めてびっしりと同じ方向に走っている人間で溢れている。


 俺と同じように後ろを振りむきながら走っている奴もいたが、そいつは何かに躓いて転び、あっという間に後続の人間たちに飲み込まれ踏まれ、パキパキッと言う音だけを残して消える。


 俺も同じ目には遭いたくないので、視線を前に戻す。


 周囲は様々な業種の人間が大勢走っている。


 俺と同じくスーツ姿のサラリーマンが圧倒的に多いが、事務服を着た事務員や、コンビニの制服を着たアルバイトの姿も目立つ。

 その他には警官が、銀行員が、宅配の運転手が。

 白衣の医者が、看護師が、薬剤師が。

 皆同じ道を同じ方向に走っている。

 ビルの屋上から見下ろしたなら、この街中の人間がうじゃうじゃと同じ方向へ水に流されているように見えるだろう。

 だが何となく、ビルの中に残っている人間はいないような気がした。


 老人施設の前に差し掛かると、脚が弱り走るのがやっとの老人が、俺達の走る方向に合流しようとよたよたと敷地から出て来て、合流した瞬間に走る速度の違いから突き倒され、パキパキと踏まれていく。

 老人施設の敷地内に目をやると、ゆっくり這いながらも俺達の走っている道に合流しようとしている老人たちが何人か目に入った。


 車道に停車している車のなかに、幼稚園の送迎バスが止まっているのが遠目に見える。

 その前を走る奴らは皆少しだけ小高い丘を登るように走っている。

 俺は疲れるため、その小高い丘を避けるように人込みをかき分けて進路を取る。

 幼稚園の送迎バスの前の小高い丘の横を走り過ぎる時、地面に大量の黒い染みと、赤茶色に汚れた中で、まだわずかに黄色さを残した小さな帽子や水色のスモックが見えた気がした。


 どれくらい走っているだろうか。

 段々と足元で倒れている人間が増えてきており、それを避けるのも大変になってきた。

 最初の頃に倒れた者はもうかなり踏みつけられていてぐちゃぐちゃに引き延ばされた状態になっているが、少し前に倒れた者は、まだ形が残っていて走る足をしっかり引き上げないと、引っ掛かって俺も転びかねない。


 俺の前を走る奴が、走り続けて暑くなったのかスーツとネクタイを脱ぎ捨てる。

 俺は脱ぎ捨てられた汗でびちゃびちゃになったスーツとネクタイを上半身を曲げてどうにか避ける。


「ぶわっ」


 俺の右後ろの奴が、荒い息をしていた顔面にもろにびちゃびちゃのスーツを被ったのか、見えないままに取ろうとしてバランスを崩す。


「ぐわっ」


 そいつは後ろを走っている奴に突き飛ばされたようで、俺の右足にそいつの腕が当たったが、俺はどうにか崩れそうになったバランスを保って走ることを継続する。


 ぶちゃ、ぶにゃっ、ばきっ、べきっ。


 そいつも後ろから来た人間に踏みつぶされたようだ。


 日頃の運動不足が祟り、俺も既に息が荒い。

 肺が焼けるようだ。

 空気を求めて大きく息を吸い込むと、自分の唾液を吸い込んでむせそうになる。

 

 つらい。


 そして、そんな俺と同様の人間がそろそろ力尽きているのか、段々と地面には倒れ踏みつけられている者が多くなってきた。


 俺はそいつらを踏みつけないように注意しながら走っている。

 踏みつけたらバランスを崩しやすいからだ。

 バランスを崩して転んだら、俺もそいつらのようにされてしまう。


 だが、もう既に道は倒れて踏みつけられている人間で一杯だった。

 もはや踏まずには前に進めない。


 腕や足、頭を踏むと、バランスを崩す。

 なるべく足がしっかり載る背や腹を踏んでいく。


 もう足元を見ながらでないと走れない。


「うわっ」


 俺の前を走っていた奴が、躓いて転んだ。


 俺は飛び越えようとしたが、へろへろになった俺の脚には飛び越える力が残っておらず、仰向けに転がったそいつの腹を踏んだ。


「ぐえっ」


 そいつは普段から筋トレでもやっていてくれたのか、腹筋は固かったため、俺はどうにか前に進めた。


 ぶちゅっ、どかっ、ばたっ、ぐにゅっ。


 後ろの音からそいつが立ち上がってまた走ろうとしたのはわかったが、後続が次々にそいつを踏んで行っているようだ。


 倒れたくない。


 尚も前に走る。


 もはや走っているとは言えない程の遅さだが、それでも前に走る。

 周囲を走っているやつらも俺と同様の、ようやく走れているような遅さで尚も前に進んでいる。


 苦しい呼吸で酸素が脳に回らない。

 だんだんと俺は意識が朦朧としてきた。


 ボーッとした意識で、それでも下を見ながら倒れている人間を避けられる時は避け、避けれない時は踏める場所を確認しながら走っていると、突然道路が真っ黒に絶ち切れており、巨大な断崖となった大穴が空いている。


 俺は一瞬立ち止まった。


 俺の左右の人間は止まらずにその穴に落ちていった。

 

 真っ暗で光が届かず、深さの見当もつかない広大な穴の奥底から、生暖かく生臭い風が立ち昇っている。


 ここがゴールなのか。


 と思った瞬間に、俺は後ろから来た奴に突き飛ばされ、その穴に落ちた。

 俺は落下しながら空中で一回転し、穴の中から見上げる体勢になる。


 俺を後ろから突き飛ばした奴もそれに続く奴に突き飛ばされ、次々に人間が、数えきれないほど大量に、巨大な穴の全周から、それこそ雲霞の如く落ちて来るのが目に入った。

 俺を突き飛ばして落ちて来る奴の表情は、満足気に歪んだ笑みを形作っている。


 俺も、怖くはなかった。


 俺は、これでもう走らなくていいんだと安堵しながら、立ち昇る生暖かく生臭い空気の中を、どこまでも落ちて行った。














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