Ready……
瑛
この時間が本当に嫌だ。
この時間が本当に嫌だ。
心の中で悪態をつき、
ここは、
だだっぴろい部屋に横長ベンチがいくつも並べられている。
周りでは、雨音と同年代の女子が、柔軟をしたり、スパイクのピンを付け替えたりしている。
今日は、中学体育連盟の地区大会。
同じ地区の中学生達が、己の学校のユニフォームを着て競い合う。
雨音は、女子百メートル走の選手としてエントリーしていた。
部屋の中からトラックの方を見やれば、百メートル走のスタート位置に並べられたスターティングブロックが見える。コース上に、等間隔に置かれた器具達は、地に伏せるトカゲのようにも見えた。
雨音は、十五分ほど前に、選手専用の通路を通ってこの部屋に来た。
スパイクのピンを確認し、柔軟をする。
あと十五分ほどで自分が走る時間になる。
時間が近づくにつれ緊張も増す。
去年の中体連にも出場したし、記録会にも何回も出ている。
それでも、何度経験しても、この時間は緊張する。
だから、この時間が嫌だ。
水を一口だけ含む。
係員がやってきて、予選に出場する選手達の最終点呼を始めた。
やっと来た、もう来た。両方の気持ちの狭間で、係員の声を聞く。
部屋に入る前にトイレは済ませたはずなのに、下腹がきゅうと締り、もう一度トイレに行きたくなる。
でも、いつ呼ばれるか分からないのに行けるわけがない。
大丈夫、緊張でトイレに行きたいような気がするだけ。
そう自分に言い聞かせる。
係員が抑揚なく出場選手の名前を読みあげていき、その度にあちらこちらから返事が聞こえ、声の主達が指示された場所に並んでいく。
「次、第三組目」
百メートル走の競技人口は男女問わず多く、今日の予選でも一組八人、全部で十数組が走る。
第五組目までの点呼が終わる。名前を読みあげていた係員の先導で、呼ばれた選手達はトラックに出て行った。
息を吐く。
「雨音先輩、緊張してますか」
付き添ってくれている後輩が、雨音の手を見て言った。
髪を結びなおす手が震えていた。
「かなり」
肯定して、へにゃり、と笑う。
別の係員が来て、先ほどの係員と同じように抑揚なく名前を読みあげ始めた。
雨音は第八組目。もうすぐ呼ばれる。
後輩に小物ポーチとタオルを渡し裸足になる。
スパイクバッグから愛用のスパイクを取り出し、ピンの確認をしてから足を入れる。かわりに、今脱いだランニングシューズをバッグに入れ、後輩に手渡した。
騒めく室内の中でスパイクのピンが床に当たり、カツン、と音を立てる。
靴紐は、まだ締めない。
「第七組目」
ピリピリとした空気の中、係員の声と、それを邪魔しない程度の騒めきが続く。この待ち時間が本当にじれったい。早く呼ばれてしまいたい。
「第八組目」
雨音の組の走者が次々名前を呼ばれていく。
一回、息を吐く。
「
自分の名前が呼ばれた。
返事と挙手をし、係員と目を合わせる。雨音いますよアピール完了。上着を脱いで後輩に渡し、直前に呼ばれた女の子の隣に向かう。足を踏み出す度、カチカチとスパイクが鳴った。
「第十組目」
係員の声が淡々と続き、第十組目までの点呼が終わった。
係員の先導で、周りの選手と一緒に、透明な扉を通り、雨音は外に出た。
ちらりと控え室を振り返ると、後輩達が手を振ってくれていた。
手を振り返し、進む。
皆のスパイクの音と共に、六段の階段を上がり、トラック脇に出る。
トラックには、伏せたトカゲのようなスターティングブロックを踏みつけて、第一組の選手達が、スタートの調整をしていた。
場内アナウンスが競技名を読みあげる。一コースから順番に、選手の中学名と氏名が紹介される。そして、スタートの合図、銃声。
次の組の選手が準備し、アナウンスがあり、スタートの合図と銃声。
自分の組の番になるまで繰り返されるそれらは、言わばカウントダウンだ。
雨音は靴紐を足先から順番に丁寧に締め、結んだ。指が少し震えていた。
まだ六組目。
一組終わるごとに前に進みながら、前に進みたくないと思い、同時に早く自分の番になれと思う。
自分の番になるまでの、待つしかない時間が苦痛で仕方がなかった。
七組目の選手がスタートの調整を始める。
観客席を見る。色とりどりのジャージがひしめき、ところどころから歓声があがっている。私服の大人の姿もちらほらと見える。きっとここにいる誰かの家族なんだろう。
そういえば、親には今日が大会だとは言わずに出てきた。
日程は伝えたけど、プログラムまでは見せてなかったな。
七組目が走り終わり、コースに入ることを許される。
ああ、やっと自分の番が来た。
自分のコースのスタートラインに立ち、スタートラインから足裏一つ分と半のところに左足のブロック、そこからさらに足裏一つ分のところに右足ブロックを置く。
半身を返し、しゃがみ込み、スタートラインに手をつく。
そして片足ずつブロックにはめていく。
一度地面に膝をつけてから、腰だけを上にあげ、ブロックを蹴って走り出し、五メートルほどで止まる。
うん、いい感じ。
引き返して、スターティングブロックの後ろに立った。
体が冷えないように動かしながらアナウンスを待つ。
アナウンスが終われば、あとは走るだけ。
もう余計なことは何も考えなくていい。
時間があるから余計なことを考えてしまうし、余計なことを考えてしまうから緊張するんだ。
『Set』
無機質な男性の声を合図に、第八組目の全員がスタートラインに手をつき、スターティングブロックに足を掛ける。
照りつける太陽が、トラックに敷かれたゴムの匂いをさらに強くする。
静寂の中、耳を澄ませ、待つ。
『Ready』
腰を上げる。響く銃声。
雨音は、思いっきりスターティングブロックを蹴り、走り出した。
Ready…… 瑛 @ei_umise
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