第5話 月夜

食事が終わると、十蔵は寝転んで刀を抱き、寝息を立て始めた。


もっと話をしたかった荒木は一人、取り残されてしまった。


(本当に子どものようなお方だの……)


荒木はそっと障子をあけ、厠に立った。廊下を歩いていくと、裏手の方から水の音が聞こえてきた。


格子戸の隙間から覗くと、井戸の前でおキヌが行水をしていた。月明かりで白い背中が見えた。そして、それは荒木の目を釘付けにした。目を見開いたまま、まばたきもできなくなったのである。


「!」


それは荒木のスケベ心をくすぐるようなものではなかった。おびただしい数の傷が女の細い体を覆っていた。深い刀傷、鞭打ちの痣、そして火傷のあと──


(想像を絶するほど恐ろしい拷問を受けたに違いあるまい)


荒木は忍びの過酷な人生を垣間見た思いだった。


──ミシッ


と、うっかり床を踏み鳴らしてしまった。


「誰!?」


おキヌははだけていた胸を押さえて、夜の空気をつんざくような声で言った。


荒木は戸を開けて、庭に出た。


「すまぬ。覗き見するつもりはなかった。許してくれ」


荒木の姿を認めると、おキヌは少し表情をゆるめた。


「まだお食事中かと。旦那、穢らわしいものをお見せしてしまいましたねえ。見なかったことにしてくださいな」そう言うと、桶を井戸の横に置き、髪を上げて、立ち去ろうとした。


「待て」荒木は呼び止めた。


「……」おキヌは立ち止まった。振り返りはしなかった。


「穢らわしくなど……ない……」荒木は絞り出すように言った。それが精一杯で二の句はつげなかった。本当は何か言いたかった。声をかけてやりたかった。しかし、荒木の短い人生経験からは、どこを探してもふさわしい言葉は見つからなかった。


おキヌはただ黙って、軽く会釈をして去っていった。荒木はおキヌが行水していた場所の水たまりに反射する月を見ていた。


月あかりの下でそんな出来事があったちょうど同じ頃、竜義隊の面々は町外れで野営していた。暗闇に目を凝らす見張りが三人、あとの連中かがり火の前で酒盛りをしていた。


「飲め飲め〜!化け物退治の前祝いじゃあ!!」源田は上機嫌に酔っ払っていた。他の者もだいたいが出来上がっている。


「おい!どこに行く?」源田に呼び止められたのは、最年少の男だ。まだ顔立ちにも幼さが残っている。


「飲みすぎて小便が近うなっておりますゆえ」と笑いながら答えた。


「ハハハ、はよすませてこい。まだまだ酒は残っておるからの」


男は源田の言葉に笑顔でうなずくと、かがり火から離れ、膝丈の草が茂る場所で用を足した。ふと見ると、見張りの姿がない。


(どうしたものか? 俺たちが騒ぎすぎてヘソを曲げてどこかに行ってしまったのか。いや、そんなはずはない。竜義隊は隊長の命は絶対だ。たとえ死んでも持ち場を離れぬはず……)


男は、暗闇の中、月明かりを頼りに見張りがいるはずの場所に向かった。そこは奥にある森が見渡せる小高い丘のようになっていた。


「高木さん? 行橋さん? ……下平さん?」名を呼んでも返事がない。


「!」何かを踏んだ。そろりと足を上げてみると、握り飯だった。ぐちゃぐちゃにしてしまった。


(さっき交代するときに高木さんは握り飯を持って行ったはず……)


よくよく見てみると、草がここだけ倒れている。三人が座っていた証拠だ。


(はて、持ち場を離れて何をしているのやら。隊長に見つかったら、どんなことになるか、考えただけでも恐ろしい)


「高木さーん! どこにおられるのですかぁ!?」


と、言うや否や、男は滑って転んでしまった。


「いてて」と身を起こしながら気づいてしまった。


「うわあ!!」手にべったりと血がついていた。そして、そこら中の草に血がべったりと付着し、土の上は血だまりとなっていた。さらに──


「下平さん!!」血だまりの中に、生首が転がっていたのだ。しかし、それは一人分に過ぎなかった。と──


フシュー、フシュー、フシュー


何かから空気が漏れ出るような音を聞いて振り返った。しかし、何の姿もない。

漆黒の森に目を凝らすと、また何か踏んだ。


今度は、胸から腕にかけて、体の半分がちぎれている死体だった。誰かは判別がつかない。


「ひぃ」小さく悲鳴を漏らしてしまった。仲間の酒盛りの声が遠く聞こえる。叫んでも届かないだろう。ここは別世界だった。


後ろ歩きでそろそろとその場を離れながら、男は刀を抜き、身構えた。依然として姿は見えない。しかし、男は気づいていなかった。暗闇の中、いつしか赤い光がレーザービームのように自分の体にまとわりついていることを。


フシュー、フシュー、フシュー


声が近くなってきた。


「何者だ!?」男は全神経を集中させて暗闇と対峙した。


視界の端に人間、いや人間らしき者をとらえたような気がした。見間違いなのか、その陰は妙に巨大に思えた。しかし、男は迷わずにそこに目掛けて渾身の一撃を叩き込んだ。


「おおおおりゃあああああ!!」


覚悟を決めた男の凛々しい眉間の間にあの赤い光が差した。次の瞬間、男の頭は無惨にも吹き飛んでいた。声を上げる間もないほど、あっという間の出来事で、夜の気配はすぐに男の死を包み込んだ。


月明かりを背負ったその陰は、男の首無しの胴体を抱え上げると闇に紛れた。


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