胡蝶の現

洞貝 渉

胡蝶の現

 清潔という単語を具現化したような部屋でぼんやりと窓の外を眺める。

 突然のことで、暇をつぶせるようなものが手元に無くて、というかあってもたぶん手につかなかっただろう。

 なにをしていいのかもわからず、ただぼんやりと窓の外を眺めることで時間をやり過ごす。


 ケンサニュウイン、ネンノタメ、ダイジョウブ。


 何度唱えたのかもわからない言葉が、その意味も半ば崩壊させながら頭の中をくるくると回っている。

 私は今、怖がっているのか、ようやく頑張らなくてもいい理由を見つけてほっとしているのか。

 温かな日差し、優しい鳥のさえずり、とりどりな色の花壇の花。

 日常から切り離された窓の外の穏やかな風景が、なぜだか私の心には逆に作用して不安な気持ちになる。


 ケンサニュウイン、ネンノタメ、ダイジョウブ。

 

 何度目になるかわからない呪文を脳内で唱えてから、いい加減気分を変えようとベットから抜け出した。

 とにかく外の空気が吸いたいと思い窓の外から見えた院内の花壇を目指す。白い壁、消毒の匂い、弱った人間が醸し出す独特の雰囲気。それらを振り払わんと大股で歩いていたら、ものの数分で目的地に着いてしまった。

 窓から眺めていた時の柔和な印象とは違い、狭い空間に間に合わせでそれっぽくしつらえた安っぽい花壇を前に、私は白けた気分になる。

 それでも、病室で呆然としているよりは幾ばくかはマシだ。

 花を愛でる為か、古びたベンチが一つ設置してあった。病院の服を着た中学生くらいの子が先客として座っているが、少し距離を開けて座れば煙たがられることもないだろう、たぶん。


 まったく胸のモヤモヤが晴れない。

 不安が募りすぎて、もはや私が何に対して不安を感じているのかさえ分からなくなってきた。何か見つかって、今後の生活が一変してしまうこと? それとも、何も見つからず、今まで通りの日々が戻ってきてしまうこと?

 気持ちを持て余し、ふと隣を見ると中学生が真っ青な顔で俯いている。

 着衣からしてこの病院に入院していることは間違いないだろう。入院しているということはどこかしらが悪いのだろうが、虚ろな目の下にはくっきりと隈が出ているし、あまりにも辛そうで、おせっかいとは思ったもののつい声をかけてしまった。


 大丈夫かと問う私に(明らかに大丈夫ではないのだが)、中学生は青い顔のまま大丈夫だと答える。

「ちょっと、寝てないだけなので」

「寝てないって、眠れないの?」

「いえ、眠れます。ただ、眠りたくないんです」


 眠りたくないとはまたどんな事情だろうと首をかしげると、その子はゆっくりと話して聞かせてくれた。



 昔から、よく夢を見るんです。

 というか、眠れば必ず夢を見る。それも、いい夢ばかり。嫌な気持ちになったり怖い思いをしたりといった、悪夢というやつは今まで生きて来て一度も見たことがありません。


 いい夢しか見たことが無いなんて、羨ましい。

 私は体調が優れなかったり嫌なことがあった日など、つまりほぼ毎日悪夢ばかり見ているというのに。

 内心そんなことを考えつつ、いい夢ばかりなら、なぜ眠りたくないのだろうとますます首をかしげる。


 夢の内容は、例えば気に入ったお菓子を食べて至福の時間を過ごすだとか、仲のいい友人と海やテーマパークなんかで楽しく遊ぶだとか、本当にたわいないものばかりだったんです。ちょっと得をした気分になれるから、一日の終わりと始まりの区切りで夢を見られるのが毎日とても楽しみでした。

 

 でも、ここ数年、夢の内容に変化があったんです。

 今までは経験したことのある楽しかったり嬉しかったりすることが夢に現れていました。ある時、フェンリルという大きな犬が出てくる異世界ものの本を読んだんです。大きくて誇り高いのに、主人公にはすごくなついていて、すごくかわいいなって。それで、こんなでっかい犬に抱き着いてみたい、なんて思って。

 そしたら、夢にそのフェンリルが出てきたんです。思い描いていたような、大きくて綺麗でかっこよくて、よくなついてくれる理想の犬でした。毛並みも最高で、もう夢中になりましたよ。


 それ以降、夢に出てくるのは気にはなるけれど経験したことのないことや現実では実現が不可能だけどやってみたいことなんかばかりになりました。

 写真で見かけた今は存在しない綺麗な場所へ行き、ゲームで出会った面白いキャラクターと友だちとなり、本で読んだ存在しない食べ物に舌鼓を打ち、映画で観た迫力満点の魔法を操って……。

 眠ることはもともと好きでしたが、ますます眠りに、夢に、のめり込みました。

 同時に、起きている時間が徐々に苦痛に感じ始めたんです。代り映えしない毎日、やりたいことも思うようにできず、心躍るような出来事なんてなにもない。


 自分なりに、どうしてこんなにも現実はつまらないんだろうかと考えてみたんです。それで、起きている時にやりたいことなんて何もないんだと気づいてしまって。

 でも、夢は結局、夢でしかない。頭ではわかっているつもりなんです。あまりのめり込み過ぎてはいけない。そう、自分を戒めてきました。


 なのに先日、やってしまったんです。

 空を飛ぶ夢はしょっちゅう見ていたのですが、その日、寝坊をしてしまい夢の感覚が残ったままで、うっかり二階の自室の窓から飛び降りてしまって。みんな心配して、別に悩みがあったとかそんなことじゃないのに、信じてもらえなくて。そんなつもりはなかったんです。ただ、空を飛びたかっただけで……。


 だから、もう夢を見たくない。眠りたくない。みんなに心配かけたくないし、なによりこれ以上夢を見てしまっては、戻ってこられなくなる気がするんです。



 率直な感想として、羨ましいと思ってしまった。

 濃い隈をつくり、真っ青な顔をした中学生は真剣に悩んでいるというのに。

 思ったそのままがつい口をついて出てしまったらしい。

 中学生が怪訝そうに私を見る。

「いや、失礼。本気で悩んでいるのにそんなことを言われても不快なだけだろうが、正直、こことは違う世界に住む選択肢のある君が羨ましいと思ってしまって」


 私の言葉に中学生は少し考えるような様子をみせた。

 それでどのくらい眠っていないんだいと問うと、今日で三日目になります、と力なく笑う。三徹となると若者とはいえここが限界というものだろう。

 話を聞いてくれてありがとうございました。もう病室に戻りますね。中学生は礼儀正しくわざわざお辞儀を一つしてから、ベンチから去って行った。

 私はいつの間にか胸のモヤモヤが消えていることに気が付く。



 あの中学生は、今夜眠るだろう。

 中学生の夢は夢のままで在り続けるのだろうか。

 いつの日か現実の方が中学生の中で一時を過ごす夢となり、夢を現実と受け入れる日が来るのではないか。

 それも、そう遠くない未来に。

 

 少し冷えてきたので、私も病室に戻ることにした。

 夢という選択肢のない私には、どうしたって現実と向き合うことしかできないのだが、これを機に少し、生き方を変えてみたいと思った。生きなおしとでも言おうか、それとも人生の再スタート、とでも言ったらさすがに大げさだろうか。

 写真で見かけた今は存在しない綺麗な場所へ行くことも、ゲームで出会った面白いキャラクターと友だちとなることも、本で読んだ存在しない食べ物に舌鼓を打つことも、映画で観た迫力満点の魔法を操ることもできはしないのだが、もっと慎ましやかで小さなところから。

 まずは、この体調不良の一番の原因になっているものから離れるため、異動願いでも書いてみるか……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

胡蝶の現 洞貝 渉 @horagai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ