結婚前夜
曇戸晴維
結婚前夜
結婚前夜
今月末に結婚を控えている。
およそ三年の月日を掛け、やっと籍を入れる。
周囲から急かされることもやっかまれることもなかった のは、私たちの生き方がとても平穏で理にかなっていて、 決意と責任が確かであると理解してくれているからだろう。
そうして紆余曲折あって、遂に籍を入れようというとき、今、彼女はいない。
何のことは無い。
ただ帰省しているだけだ。
それでも私は自分を疑うほどに寂しくて、頭が回らない。
そう感じる今がどれだけ彼女から受け取っているものが多いかを証明していて、一種の幸福を感じている。
だから、言葉にしてここに残す。
恋の始まりは偶然だった。
私と彼女との出会いは今どきよくあるものだった。
ネット上のコミュニティで日々雑談を繰り広げていた所にたまたま彼女がやってきた。
たまたま同じ市に住んでいて、たまたまオフ会をしているというので顔出しがてら見に行った。
オフ会といってもコミュニティの長の男と彼女だけでのカラオケで、私も顔出しとは言ったが長があまり素行のよろしくない男だったので様子見がてらだった。
私は倫理道徳にうるさい性格をしているが、当人同士で問題が無ければ何があろうと関与しないつもりでいたが、どうにもそういう雰囲気でもなかった。
長と先に落ち合い、金がないというので貸してやった。
彼女は伏し目がちに私たちを見てゆっくりと階段を降りてきた。
なぜかその姿に、私は心を打たれた。
特に何事もなく三人でお茶をして、解散した。
最初の印象とは違い、彼女は影があって、それを隠すこともなくただ笑う女だった。
無邪気に笑う顔は年相応とは言い難い、子どもの笑みだった。
周囲に影響を及ぼすでもなく、周囲から影響を受けるでもなく夜の海のような女だった。
ただそこにいる、というのが似合うような、通りすがりの猫とでもいうような女だった。
それでいて時折、迷子のように不安げな素振りがちらちらと見えた。
彼女と私は昼夜を気にせず、話した。
話題は主にこれまでの人生についてだった。
彼女は多数の稀有な問題を抱えていた。
私も少しばかりのどこにでもあるような問題を抱えていた。
私は人生上の問題には知識を付け、向き合い続けるしかないと信じていたし、事実それで解決するものが多かった。
だから、私の問題などさておいて、彼女の問題を紐解くことに躍起になった。
それが私より十一も歳が若い子に向けてできることだと思った。
と、言っても、実際は私の問題を彼女が簡単に答えを出していくので助けられたのは私の方だった。
彼女の問題は、とても難しかった。
どれだけ知識が蓄積しようと、行動として起こすのも考え方を変えるのも難しいものだった。
人生の先輩として私はありったけの知識を彼女に与えることにした。
喜ばしいことに、彼女はどんどん知識を付けて問題に向き合い、答えを見つけていった。
彼女は私に多大な恩義を感じるようになった。
だが、それは彼女が今まで努力し向き合ってきたからで、その芯には絶えず輝く光があったからだ。
最後の欠片を私が与えたにすぎなかった。
たまたま私が、最後の欠片を与えた。
これが他の誰かでも、きっと彼女は答えを導き出した。
そう思える聡明な女性だった。
たかだか出会いから二ヶ月、彼女は変わった。
いつ死んでも構わないというような素振りはなくなっていって、子どものような笑みは変わり、太陽のように心の底から笑う。
夜の海に日が登り、季節を巡るようになった。
果たして出会いから四ヶ月経ったころ、彼女は過去を乗り越え、独立した魅力的な一人の女性となっていた。
私は彼女が好きだった。
彼女も私が好きだった。
だが、私に恩義を感じている彼女とは付き合えなかった。
ある日、私はこの世の終わりかというほど落ち込んだ。
私の哲学という宇宙旅行は否定され、粉々に砕けちってしまった。
そんな出来事が立て続けに起きた。
何もかも嫌になって、何もかもどうでも良くなった。
多少の希望は夜空の星々のようで、綺麗ではあるが手は届かないように思えた。
遥か宙に向かっていた私は、火が潰えたように暗闇に囚われていた。
暗闇の中に囚われていたかった。
彼女はただ、そばに居た。
輝く光のような彼女は私には眩しかった。
だから、彼女も手放してしまおうとした。
私から離れて欲しかった。
彼女はそうはしなかった。
自らの芯にある光すら手放して、私と一緒に暗闇に囚われようとした。
見えるのは慈母の笑みだった。
彼女をこんな暗闇においてはいけないと思った。
そこからは簡単だった。
恐ろしいほどに思考は巡り、身体には活力が漲り、行動は早かった。
火のついた心は、私をまた遥か宙へ打ち上げてくれた。
そして、拐うように彼女も連れて行くと決めた。
宙ばかり見上げていて気付かなかった、私を受け止めてくれる大地のありがたみに気付けた。
そうして、私は彼女と付き合い始めた。
この時、既に愛は始まっていた。
それから三年。
怠惰とも平穏とも言えるような日々を過ごした。
私たちは時間をかけることになんの疑問も抱かない。
二人で、ときには三人、四人と誰かを交えて、お互いを知っていく。
それはこれからの人生を共に過ごすための下準備だ。
まだまだ長い人生に問題は付き物だから、どうなっても共にあるための時間だ。
お互い、独りでも幸せに生きていける。
でも、願わくば離れずに済むように。
離れる気が毛頭なくても何があるかわからない。
共にあるということが特別なことでなくなるように。
そうして時を重ねた。
彼女は慈母のように、太陽の昇る海のようになった。
私は変わらず、宙を見ていた。
でも、たかだか四泊五日の帰省で、思い知った。
一人でも見ていられるはずだった。
出会う前と同じことをすればいいはずだった。
それなのに、この体たらくだ。
食事は疎かになり睡眠時間はばらばら。
煙草の本数が増え、思考が纏まらない。
彼女のありがたみなどわかっているつもりだったのに。
まるで空洞なのだ。
宙が見たくても空がない。
狭く感じていた部屋が寒くて広い。
大地を踏みしめる足がおぼつかない。
私は彼女と出会う前、こんな世界に生きていたのかと疑いたくなるほどに。
自嘲するほどに彼女を愛していて、彼女から愛されていることを、一日目にして自覚した。
されど、人間は慣れるもので三日も経てば寂しさも耐えられないほどのものではないと思うようになった。
この寂しさを感じられたことは幸福なのだろう。
別離など、いくらでもある。
それを前もって知れた。
彼女は帰ってくるのだ。
私の元に。
それがどれだけ幸福か。
そう思うと、この寂しさでさえ彼女が与えてくれた喜びだ。
だから、噛み締め、誰にも渡さない。
そしてまた、気付いたことがある。
私は、帰ってきた彼女にまた恋焦がれるのだろう。
長い人生の中でこういうことを繰り返し、火は延々と燃え続け、焦がれていく。
確信めいたものを胸に秘めながら、私は彼女を待つ。
そして何度も始まるのだろう。
恋も、愛も。
惚れ直すのではなく、惚れるのだ。
今日、彼女は帰ってくる。
友人と、家族と、仲間たちとの楽しい土産話を携えて。
さて、一緒になにを食べようか。
疲れ果てた彼女は眠い目を擦りながら、話すのだろう。
言葉の雨に打たれれながら、一緒に眠ろう。
結婚前夜 曇戸晴維 @donot_harry
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