100m先のゴールのために

セントホワイト

100m先のゴールのために

 スタート地点に立つのは鍛え上げられた健脚の持ち主たち。

 その人数は8人。目の前には一本ずつ道があり、足元には調整したスターティングブロックがある。

 何度も使ったことのある道具であり、短距離走100mにおいて最も重要な器具である。


「ふぅ……」


 深く、深く、息を吐く。

 目の前に広がるレーンで分かれた一本の道。それはどこまでも続いてるようにも思えるほど遠く、されど間違いなく100m先にゴールはあった。


「緊張してんのか?」

「……してねぇよ。むしろ、興奮してるぐらいだ。ワクワクしてる」

「ああ……そうだな。俺もだ」


 隣で入念に準備体操をしているのは幼馴染の男だ。小学時代には随分と遊び、俺が転校してから何となく疎遠になっていた。

 スマホのアプリにこいつの連絡先が消えたことはなかったし、あっちも連絡先を消したことはなかったという。

 それでも連絡を取り合うことがなかったのは、本当に理由なんて特にない何となくだった。

 険悪な関係だった訳でもなく、何だったら小学時代の運動会ではクラス対抗リレーで選手として一緒に走った仲だ。

 俺とこいつが組めば負けなしだった。俺は走るしか能が無かったが、幼馴染のこいつはスポーツ万能なタイプだ。

 何でも卒なくこなすタイプだからか、周りと合わせて遊ぶのは難しい。サッカーにしろ野球にしろバスケにしろ周りよりも高い水準でやってしまうから周りが付いていけない。

 だからこいつは、ただ独りで走る道を選んだ。本当は誰かにバトンを渡す時が、一番好きだと語ったことのある男がだ。


「ひとつ、訊いていいか?」

「ああ。何だ?」


 スターティングブロックに足をつけて位置を確認しながら幼馴染は答える。

 綺麗なクラウチングスタートのフォーム。数を忘れるほどに練習した前傾姿勢の格好は走り出したが最後、風の抵抗を受けて段々と身体を浮き上がらせる。

 風を切るには前傾姿勢こそが最も速度が乗るが、空気抵抗によって飛行機が宙へと舞い上がるように上半身が上がってしまう。

 だからこそ最初のスタートが肝心であり、そしてスピードを乗せる最初の走り出しが後の何十mの勝敗を左右する。

 普段であれば全く気にも留めない一秒が絶望的なほどの距離となって表れ、そして勝ち抜く者にはコンマ数秒の戦いを強いるため呼吸すら止めるのが短距離走という競技だ。

 少しの歯車がかみ合わないだけで勝利という結果が得られない競技の中で、話をすることなど不可能だから始まる前に確認したかった。


「お前は、どうしてこの道を選んだ?」


 向かう先は一本道。僅か100ⅿの距離を全ての身体能力を駆使して走る競技の道を選んだ理由が知りたかった。

 陸上競技のほとんどは個人で戦うものばかりだ。多彩な幼馴染には単純な競技に面白味など感じないと思っていた。


「……走ってるとさ。忘れられるんだよ、色んな面倒事が」


 ガンッと力強く蹴ったスターティングブロックが揺れる。

 ブロックの部分が外れて後方に飛んでいってしまいそうなほどの力強さによって僅か数歩で十ⅿは進んでいるだろう。

 起き上がった後ろ姿は小学時代に比べて男らしく、しっかりと筋肉がついて引き締まっている。

 それでもその後ろ姿に小学時代の面影を感じるのは彼が何かに捕らわれ続けているからか。


「お前はどうなんだよ?」

「どうって……そんなの決まってんだろう」


 同じようにブロックに足を乗せ、同じように身体を屈めてスタートラインに手を乗せる。

 体を起こした際に肩がスタートラインと一直線になる程の前傾姿勢。知らない者が見れば前にそのまま転がってしまいそうなほどだが、風の抵抗によって体が転がることはない。

 スタート地点に戻ってくる幼馴染に顔を向けることなく、ただ100m先のゴールだけを想って腰を上げる。


「風を切って走る。それが、面白いからだろ?」


 そして、力の限りブロックを蹴り出して身体を前に押し出した。

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