終わりの始まり

つばきとよたろう

第1話

 終わりの終わりは終わりでしかない。しかし、異世界転生風に言うならば、ここから新たな人生が始まる。だから、何もそんなに悲観することはない。それは概ね希望に満ちた世界なのだ。目が眩むほどの校舎の屋上に立って、高校生のぼくは小さくなった地面の景色を見下ろす。ちょっと待て。今死んでそんな事が保証されているとは、何の担保もなく信じられるのか。 死んだ先のことは誰にも分からない。生死をさまよった人はいても、完全に死んで生き返った人はいないはずだ。いやいるのか。ぼくはもう一度下を見た。高さに足がすくんで決心が鈍る。佐藤瑞は、ここから飛び降りて死んだ。

「あなたそんな事して、何の意味があるの?」

 不思議だ。誰もいないはずの屋上に、髪の長い涼しげな顔の女の子が立っている。着ている制服は、この学校の物だ。その子が言ったのか。ぼくは急に体が熱くなって、女の子に反論した。

「意味などない。ただぼくは、ぼく自身に憤りを感じているだけだ。こうしなければ気が済まない」

 その時、ぼくは木の葉がやがて散るのと同じに考えていた。ぼくは、落ちて消えてなくなる。

「あら、そう」

 女の子は、ぼくがしたように下を見ることはしない。きっと下を見るのは、飛び降りる時だ。

「君はこんな所で、何をしているんだ?」

 愚問だった。ぼくこそ、何をやっているのだ。やっていい事と、やって悪い事の区別は付く。

「あなたこそ。でもあなたがここで何をしようと、別に私には全然関係ないことだけど」

 聡明な顔は無表情のまま冷たく、ぼくに向けられていた。ぼくは誰かに助けを求める場面なのだけれど、それが彼女ではないことは、はっきりと分かった。彼女ほどその役に相応しくない人物はいないのだからだ。風が彼女の黒髪を巻き上げるようになびかせた。艶のあるさらさらとした美しい髪だ。ぼくはじっと見る。どうしようもない成り行きから逃れるように彼女を見詰めると、頭の中が眩しい光で照らされたみたいに真っ白になって、一瞬でも現実から逃避できる。

「斉藤、人生には三つの袋があることを知っているか? 辛いことがあったらこの袋を肝に銘じればいい。分かるだろ」

 先生はぼくを助けたいのか、それが義務だからなのか、濁声で訴えた。

「それは結婚式のスピーチで言う言葉だろ」

 二人は同時に叫んだ。先生は何が言いたかったのか、ぼくには一ミリも理解できなかった。取り敢えず注意を引きたかったのだ。先生は問題を起こす生徒を毛嫌いする。いや親身になって相談に乗ってくれる先生もいるかも知れない。しかし、何の問題も起こさない生徒には気付きはしない。例え心が病んで腐っていたとしても、心の病気は異臭は放たない。ぼくは、何も問題を起こさなかった。ただ今、問題を起こそうとしている。それでは手遅れなのだ。

「真人くん。やっぱり何でもない」

 ぼくに向けられたクラスメートの同情、いや忖度を考えたのだ。それはぼくを引き止めてくれる訳でもなく。ぼくは教室の喧噪の中で、或いは授業中の静寂の中で、ぽつんと席に座っていた。そうして意味不明な、言葉とは言えない文字の羅列をノートに書き殴っていた。似通った文字が乱雑に並んでいる。ぼくの心の余白を黒く塗り潰していく。小さな闇が段々とぼくに近づいてくる。それでも、ぼくは手を止めない。止める必要がない。ぼくは闇にどんどん吸い込まれる。

「あなた、それで何か変わったの?」

 何も変わらない。化学反応は起こらなかった。兎と亀は確実にゴールに向かっていた。ぼくはね。兎でも亀でもなかったんだ。暢気な兎と真面目な亀。ぼくは暢気でも真面目でもない。みんなとは違う。ゴールには向かわない。でも歩き続けている。どこへ向かっているのか。なぜ歩き続けているのか。ぼくの足は勝手に歩いている。兎はね。諦めずにゴールに向かったんだ。そうしないと勝ったか負けたか分からないだろ。

「あなたは駄目ね」

 駄目という言葉に付け入る隙間はない。集合写真の時にみんなが並んで、ぼくだけ入る場所がなかった。後で写真に撮って、右上に載せましょうかと写真屋は言った。冗談のつもりらしいが、ぼくはそれはいい考えだと思った。ぼくはそこにいても、存在しなかったんだ。透明人間みたいにね。透明人間という言葉は、ちょっと憧れる。でも本当は寂しい存在なんだ。

「おい、真人。何やってるんだよ。そんな所に一人でいてよ」

 何をやっているか。それは、ぼくにも分からない。なぜぼくは何も考えずに学校に来ても、計画された通り授業が行われ、学校生活の一日がこともなく進められていくのか不思議だった。だが、誰もそんな事に疑問を抱くことはない。先生が決めたことだ。学校が決めたことだ。生徒はそれに従うだけだ。従う。従ってきたのだ。何も考えずに。そうする事が正しいと判断することもなく。ただただ過ごしてきた。

「そんな事、当たり前だろ。何でそんな事一々考える訳、意味が分からないよ」

 当たり前のこと。当たり前とはどんな事だろう。ぼくは、そこに疑問を持ってしまった。持ってはいけないことだと分からずに、そうしてしまった。朝起きて出来立てのご飯を食べる。トーストなのだが、ご飯に変わりはない。二分で歯を磨き、制服に着替えて登校する。歯磨きするのは、朝起きてすぐにか、朝食を食べた後なのか。それとも二回するのか。二回するのは無駄ではないか。学校では昼食の後に歯磨きをしないのか。もし学校へ制服ではなく、私服で来たならば、みんなどんな反応を示すだろう。まあ、変わり者を見るような目で視線を飛ばすと想像は付く。どうしたのとわざわざ尋ねてくれる、クラスメートがいるだろうか。それならまだ増しだ。

「決まりを乱す奴は誰だ?」

 先生の言葉。委員長の言葉。クラスメートの言葉。誰が言ったか分からない言葉がある。もしも決まりがなかったら、無秩序が訪れるだろうか。否、決まりがなくても、ぼくらは常識からは逃れられない。誰が始めるともなく、自然に互いに合わせて目立たないことをするのが落ちだ。仮定が間違っているのだ。決まりがないと言う仮定は有り得ない。どうして? 仮定なのだから有り得るだろう。

 それは仮定であって、決して家庭科の話ではない。さしすせそ。さりとて、知りぬるを、すれば、せめて、空言である。佐藤瑞なんて子は最初からいない。そうかも知れないが、そうではないかも知れない。確率は二分の一。いや正確には、そうかも知れなくも、そうでないかも知れなくもない、不確かな選択肢が存在するかも知れないのだ。むしろその可能性は無限にあって、確率では決して計り知れない領域に達している。

「あなた、さっきから誰と話しているの? まるで誰かと話しているよう」

 最初から誰とも話していない。ぼくに話してくれない。全てぼくのただの妄想だ。ぼくの頭の中で勝手に考えたことだ。誰も冷たい眼差しすら投げ掛けない。

 いつの間にか彼女とぼくの間におかしなルールが出来上がっていた。詰まるところ、

「君はぼくの頭に張り付けられた言葉を言わせようとしているな。それはスカートか?」

「おお、音は似ているよ」

 どうしてその言葉を選んだのだろう。彼女の短いスカートが風に揺れて、ぼくの鼓動を早くさせたからなのか。ドキドキさせたのは、スカートのせいだけではない。今度はスカートから余程離れた言葉を選ばなければならない。でも似たような発音の言葉でなければならないのか。うーん、難しい。

「カスタード」

「おしい」

 おいしい。好物だ。

「死ぬ前に何食べたい?」

「死んでも生まれ変わるという話ではなかったのか?」

「例えばの話」

「パスタかな」

「パスター?」

「ナポリタン」

「ちょっと離れたかな」

 彼女は悲しげに呟いた。答えはなかなか当たらなかった。ぼくは不平を言う。

「当たるまで終わらないの?」

「そんな事ないよ。止めようと思えば、今すぐ止められる。それはあなたが決めること」

 ぼくには、この謎解きのようなお遊びを、諦めて終わらせることが出来なかった。終わらせれば、本当の意味での終わりが来る。

「でも当たらないよ」

「答えを見つけたくないの?」

 彼女は口笛を吹くように囁く。口笛に聞こえたのは風鳴りのせいか。彼女の体が風に揺れる。風に飛ばされそうになるのを必死に堪えているようだ。

「取って自分で見たらいけないの?」

 ぼくはずるしようと思った。このお遊びにずるなんて通用しなかった。

「紙なんて貼られてないよ。でも私にはそれが見えるの」

「ふうーん」

「続けないの?」

「えっ? じゃあね。ねえ。あー、マスタード」

「おお、近づいた」

 奇蹟だ。彼女は嬉しそうに笑った。

「スターだ」

 きらきらと輝く、流星でもない一番星を想像した。手を伸ばせば届くかもしれないと、子供の頃は思っていた。何度も跳び上がって捕まえようとするのに、一度も捕まえられなかった。当たり前だ。

「残念。でも非常に近い」

「キャスター」

「少し離れたかな」

「うーん、難しいよ」

「頑張れ頑張れ」

 ぼくの辞書に頑張れという言葉があるだろうか。今まで何もして来なかった。努力もしない。そんなぼくが、今必死に答えを見つけ出そうとしている。

「トースター」

「おお、ほぼ正解。続けて三回言ってみて」

「えっ? 続けて。トースター、トースタートースター」

 彼女の体が一瞬で花びらになって、奇麗に散った。ぼくは何も出来ずに、あっと叫ぶ口をしてその衝撃的な様子を見詰めていた。風がゴーゴーと吹いて、そこには何も残らなかった。

 ぼくは死ななかった。死ねなかったのだ。ぼくにはここから飛び降りる勇気がない。佐藤瑞には、その勇気があった。だが、賞賛される勇気ではない。賞賛される勇気を求めて生きよう。でも、こんなぼくに誰が賞賛してくれるというのだ。

 ぼくはぼくであってぼくではない。まあ、異世界転生風に言えば、その日ぼくは生まれ変わった。過去のぼくがあって、今のぼくがいる。その今のぼくがぼくを賞賛すればいいだけのことだ。自演だ。

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