スタートラインから見る風景
藤光
風の音が聞こえる
――位置について……ヨーイ!
中学二年、夏の陸上競技大会。100メートル走の予選5組を走ったぼくは、ゴールラインまで辿り着くことなくレースを終えた。ぼくを除いた7人の選手たちはゴール目指して駆けてゆく。ひとり這いつくばった全天候型のトラックが耐えきれないほど熱かった。
☆
小さな頃から走ることが好きだった。走り出すと同時に耳元で鳴る風の音。カーブを駆け抜けるときの重力を操っているような爽快感。全身の筋肉が震え、熱くなって、喜びのなかに爆発する陶酔感。幼い頃のおれは、走ってさえいれば機嫌が良かった。
毎年、運動会で行われる徒競走では、いつも一番だった。だれだって一番がいい。みんなが一所懸命に走るなか、一番にゴールテープを切るととても誇らしい気持ちになった。
徒競走以上にぼくを夢中にさせたのは、各学期末に行われる学級対抗リレー大会だった。ひとりで走る徒競走と違って、リレーはクラス全体で盛り上がることのできる競技だ。いつもリレーメンバーに選ばれていたぼくは、自分の走りでクラスを優勝させるんだと力が入った。
勝負は時の運に左右されることがあるので、リレーは勝ったり負けたりを繰り返したけれど、ひとりで走って勝つ以上にリレーメンバーに選ばれることは誇らしかった。
小学校を卒業し中学に入ると、部活動には迷わず陸上部を選んだ。これからもずっと走り続けられると思っていた。
ぼくが入学した中学の陸上部は、県内でも指折りの強豪だった。なかでもトラック種目は全国レベルといわれていて、陸上競技の元オリンピック代表だったというコーチから指導を受けるため引っ越してきたという子どもたちもいた。6月、新入生を対象に行われた県の記録会で、ぼくは県内3番目の好タイムを叩き出した。もちろん、同じ中学の一年生のなかでは一番良い成績で、記録会には参加しなかった二年生や三年生と比べても遜色ないタイムだった。
「お前やるじゃないか」
普段は一年生の練習など気にもかけない陸上部のコーチがはじめてぼくに声をかけてくれた。
「明日からレギュラーチームで練習しろ」
陸上部のなかでも成績のよい選手は「レギュラーチーム」に集められる。大会のリレーメンバーはレギュラーチームの中から選抜されるのだ。夏の記録会の後、レギュラーチームに入った一年生はぼくだけだった。
――中学でもリレーで走ることができる。
ぼくは単純にそのことが嬉しかった。
しかし、それからのことは単純ではなかった。陸上競技は素人の顧問の先生が、生徒の自由にさせてくれていた一年生だけの合同練習とは違い、実力のある二年生、三年生のためにコーチがトレーニングメニューを組んだレギュラーチームの練習は、きつくて息苦しく、つまらない反復練習ばかりだった。
「最近、楽しくなさそうだけど」
レギュラーチームへ送り出してくれた顧問の先生からそう心配されるほど、辛そうに走っていたのだと思う。楽しいからこそ走り続けてきたぼくにとって、走っていることが苦しいという状態は耐え難かった。
「大丈夫です」
なにが大丈夫なのか、自分でもよく分からなかったけれど、陸上部のリレーメンバーに入るという目標があるぼくは、大丈夫だと思い込むことに努めた。
レギュラーチームに上がったぼくは、途端に調子が上がらなくなり、成績を落としていった。期待に応えられていないコーチや上級生、みんなを差し置いて昇格したはずの同級生の視線が怖くなった。夏になり、三年生が引退して、秋がきた後も、ぼくはリレーメンバーに選ばれることはなかった。
レギュラーチームに上がった当初は、あれやこれやとアドバイスをくれていたコーチも、ぼくが二年生になる頃には、練習をはじめても声をかけてくれなくなった。ぼくのことよりも、この頃になると成績を上げてきた同級生の練習に興味が移っていたのだ。
その頃のぼくはというと、半年以上、タイムを縮めることができず、陸上部の練習にもなかなか身が入らないでいた。さらに良くないことに、この頃から走ると両膝が痛み、熱を持つようになって全力で走ることが億劫になりはじめていた。ただレギュラーチームのリレーメンバーに入るんだという思いだけが、ぼくの足を動かしていた。
二年生の夏の陸上競技大会を控えて、ぼくは念願だったリレーメンバーに選ばれた。メンバーは控えの選手を含めて6人で、実際に走るメンバーや順序は、競技会で出した100メートル走の記録を参考に選出されることになっていた。
ところが、100メートル走の予選5組に出場したぼくは、20メートル余りを走ったところで足をもつれさせて転倒、レースは棄権となった。激しい痛みで両膝に力が入らなくなっていたぼくは、担架に乗せられてトラックを後にした。リレーメンバーに選ばれてたった2日、ぼくはメンバーから外された。
病院での診察の結果、膝の痛みは成長痛だといわれた。成長期の子どもにみられる腫れを伴う関節の痛みで、病気や怪我とは異なり、治療する種類の痛みではないと病院の医師から説明された。
「成長するにつれて、自然と治るよ」
でも、子どもがすぐ大人になれるわけはない。膝の痛みはしつこくぼく苦しめた。
日常生活で痛みを感じることはほとんどなかったが、飛んだり走ったり、激しい運動をはじめると、途端に膝が悲鳴を上げるのだ。膝であって膝でない感覚。ぼくの膝はどこかへいってしまった。短距離走の選手であるぼくにとっては致命的なトラブルだった。
いつもは普通に歩いているのに、陸上部の練習になると足を引きずっているぼくを見て、陸上部員たち、なかでも同じ練習をしてきた短距離走の選手たちから、足が痛いふりをしてサボっていると批判されるようになった。
そして、コーチからも――
「お前走りたくないなら、走らなくていいんだぞ」
違うんだよコーチ。ぼくは走りたいんだ。風や重力を感じながらトラックを駆け抜けたいんだ。いまは膝が痛くてそれができないだけなんだよ。しかし、コーチの冷たい視線は、ぼくの説明を言い訳としか聞いていないことを示していた。中学二年生の夏を前に、短距離走の選手からフィールド走技の選手に転向した。ぼくは大好きだった走ることをやめた。
陸上部をやめようとしたぼくに「気分が変わるから」とフィールド競技を勧めたのは、陸上競技は素人の顧問の先生だった。走らなくて済むならと砲丸投げを選んだぼくだったけど、トレーニングの一つとして走らずに済む陸上競技など存在するはずがない。ぼくの砲丸投選手としての記録はいたって平凡なものだった。当然、練習にも身が入らず、ずっと記録は横ばいのまま。ぼくは投てき練習のあいだじゅう、ぼんやりとトラックを走る選手たちを見ていた。熱をもった膝を抱えながら。
ぼくのいないリレーメンバーは、二年生の秋には県内ベスト4、三年年の夏の競技会では準優勝して全国大会に出場した。全国大会のレースは自宅のテレビで見た。リレーメンバー以外の三年生は、夏の競技を最後に選手を引退していたからだ。
秋が過ぎて、冬になった。
昼休み、高校の受験勉強が予定どおりに進んでいないぼくに、陸上部の顧問の先生が声をかけてきた。
「勉強進んでるか」
「ええまあ」
「……そりゃよかった。じつは今度の記録会、エントリーしておいた」
えっという間抜けな声がぼくの口から漏れた。高校受験を控えたこの時期、ぼくたち三年生は部活動から離れてしまっていた。
「準備しててくれ」
「いや、あの、ぼく引退してるんですけど」
「陸上部に籍はあるから大丈夫。三年生は記録会に出られないってルールはないしな」
「でも、ぜんぜん投げてないから、たいした記録は残せませんよ」
「記録なんて気にするな。 それに――エントリーしたのは100m走だ」
あまりの意外さにぼくは、先生の顔を見つめたまま固まってしまった。100m……記録会で、走るのか、ぼくが?
「その膝、そろそろ走れるんじゃないか? 土曜日待ってるからな。シューズを忘れるなよ、トラック用のスパイクだ」
トラック用のスパイクシューズはどこにしまったっけ……なにいってんだ、二年生の頃のシューズが足に合うわけないじゃないか。あの頃より、ぼくはずっと大人になったはずなんだから――。
☆
トラックに入ると目の前にまっすぐ続くスタートラインからゴールまでのコースは意外と短く感じられた。ずっと外から見てきたトラックは、以前よりも見晴らしがいい。
引退したはずの三年生が姿をみせたことに後輩たちは戸惑っていた。トラック種目のコーチも訝しげな表情だったけど、顧問の先生から聞かされていたのだろう。非難がましいことはなにも言わなかった。
新しいシューズの靴紐を確かめる。OK、緩んでない。スターティングブロックを自分のかがみ込む姿勢に調整していると、ここに戻ってきたんだなと実感した。屈伸運動をしながら両膝を掌で撫でる。
もうどこにも行かないよな。
ぼくの膝はぼくの膝に戻ってきていた。ふくらはぎに太ももに力が漲る感覚。シューズを通して感じるトラックの反発力。
――位置について。
スパイクががっちり地面を掴むと準備OKだ。風の音が聞こえる。
――ヨーイ!
(了)
スタートラインから見る風景 藤光 @gigan_280614
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