からあげ

@schefflera

からあげ

 ここを耐えることができたら、あともう少し頑張ったらきっと。そう自分に言い聞かせながら、ここ数年をずっと過ごしてきた気がする。生まれた時は本当に嬉しかった。本当に。痛みで意識が薄れている中で、ぼんやりと遠くの方で聞こえる泣き声があまりに心地よかった。天使がいるならば、こんな声だろうなと考えていたことを、うっすらと覚えている。


良治を起こさないといけない。これ以上後回しにしたら遅刻してしまう。今から言われるであろう言葉をあれこれ考えながら、良治の部屋へと向かう。

「良ちゃん、そろそろ起きないと遅刻しちゃうよ。」

室内からは何も聞こえない

「良ちゃん!起きないと」

「うるっせんだよババア黙れよ。」

言い終わらないうちに大きく、荒々しい声で遮られた。隣人さんに聞こえていないといいけれど。

「ご飯できてるからね。」

「うるせえっつってんだろ。」

扉を隔ててなされるこの会話は、他の家庭でもごく普通のことなのだろうか。

しばらくリビングで待っていると、ゆっくりと良治が部屋から出てきた。気だるそうに、頭をかいている。

「歯磨きして、早く食べなさい。」

良治は無視してそのままソファに寝転んでスマホを触り始めた。

「ご飯冷めちゃうよ。早くしないとほんとに遅刻する。」

「自分のペースでやってんだから、いちいち口挟むなよ。」

 いったいいつから、私の語り掛けに対して、拒否感を示さずに反応してくれていないだろうか。親子の会話がよくわからなくなってしまう。

小学校の高学年までは、良治から暴言を吐かれるようなことはほとんどなかったように思う。低学年から続けていたバレーの話を聞きながら、もっと知りたい、もっと、と思いながらつい沢山質問してしまうのだが、良治は嫌な顔をせずに一つ一つ答えてくれていた。

 中学受験に、落ちたからだろうか。学校で何かあったんじゃないだろうか。バレーで何かうまくいかないことがあるのではないか。それとも、この家庭に何か問題があるのだろうか。そんなことを色々と自分で考えて、良治に尋ねる。そして、返ってくる言葉は「黙れ」だ。

 きっとこんな状態はずっとは続かないだろう。私が我慢すれば良いのだ。良治は学校でのことで頭がいっぱいなのだから、私がその分受け入れてあげれば良い。

「おいふざけんなよ、もう8時過ぎてんじゃねえかよ。」

良治が通っている中学校までは、自転車でちょうど15分ほどかかる。いつもは7時50分までには家を出ている。

「なんでもっと早く起こさねえんだよクソ。」

 愚痴を言いながら良治は急いで準備を始めた。何回か起こそうとしたが、あなたに黙れババアと言われ、そのまままた寝てしまうからしんどかったのと言うと、彼はもっと怒り出すだろう。なんとか準備を終わらせて、朝ごはんには視線を向けることすらなく、良治は家を出ようとした。

「気をつけて行ってらっしゃいね。」

私の送り出しの言葉は、息子の背中に大きく跳ね返されたように感じた。


 毎朝、6時には起きないといけない。洗濯物が大体は溜まっているので、まずは洗濯機を回す。7時に出勤する夫のために朝食を作り、休む間もなく二人分の弁当を作る。それぐらいで洗濯が終わるので晴れていればベランダに干しに行き、天気が悪くなりそうなら部屋干しをする。そうこうしていると、良治が起きる時間になるので急いで朝ごはんの準備をする。夫の分も良治の分も栄養の配分を考えて作るためにどうしても時間がかかってしまう。今朝の朝食は、昨日思い切って買ったフルオーガニック野菜を使ったサラダとトースト、ウインナーというものだった。

 二人が出かけた後は、自分もパートに向かう準備をする。今日は正午からのシフトだ。大学卒業から続けていた芸術専門の予備校講師は、良治が授かると同時に退職した。とても心地が良く、気に入っていた職場だったが、自分の都合で受験を控えた生徒たちを振り回すわけには行かないと考えた。そして何より、良治を育てることに自分の全てを捧げようと思っての判断だった。その判断が、今では正しかったのか、分からなくなりそうだ。

 自分の分の朝食を作らないといけないことに気づいた。テーブルを見ると、良治のために作ったサラダが、痛いくらいに青々としている。


 その晩良治が寝静まってから、帰宅して一通り後輩の不出来さを吐露し終わった後、夫は今日の夕刊を読み始めた。

 夫は良治に対して、非常に厳しい。夫がいる時に良治が私に対して何かしらの暴言を吐いた時には、良治の倍ぐらいの勢いで息子を叱責する。そのせいか、良治が私に強く当たってくるのは夫が出勤した後や、帰ってくるのが遅くなり、二人だけの時が多い。

 この夫に、今朝の良治の態度を話したら、夫は今は寝ているであろう息子を叩き起こして夜中の説教が始まるだろう。私はそんな場面は絶対に見たくなかった。大声で怒っている夫も、私の前では見せない、とてもとても悲しそうな顔をする良治の顔も、大嫌いだった。

「そういやあいつ、今日は何か言わなかったか。」

言ってはならない。

「特に何も言ってこなかったわ。今朝は朝食が美味しかったらしくて一瞬で食べ終わっちゃったんだから。」

「おお、それはよかった。あいつの反抗期には本当に辟易だからな。」

そうだ。今、息子は思春期の真っ只中なのだ。だからきっとこの時期を我慢できれば、きっと以前のように笑顔で会話することができるはずだ。

「そういう時期なんだから、私たちは見守るのが一番よ。」

「まあな。最近は暴れることも少なくなってきたみたいだしな。」

 あなたの前では見せていないだけよ、と言う言葉は脳の中で響かせた。この家庭の、ある程度の平穏を保つためには、私が良治のことを受け入れて、耐えていればいいのだ。夫が何かの新聞の記事で大笑いし始めた。


 良治はいつも帰ってくると真っ先に部活動で使った練習着を洗濯に出してくれるので、洗濯はスムーズにできた。だが、その日は良治はカバンから練習着をなかなか出さなかった。早く洗濯機を回したかったので、

「良ちゃん、洗濯したいから練習着出してちょうだい。」

「俺の勝手だろそんなの。」

大声が耳に響く。

「いつもはすぐ出してくれてるじゃない。」

「うっせえなあ、部室に置いてきたんだよ。」

「そうだったの、ごめんなさいね。」

 忘れてきたなら仕方がないと思って、そのまま洗濯することにした。

だが、良治は次の日も、その次の日も練習着を洗濯に出すことはなかった。何かおかしい。今までは一回でも忘れたことはなかったはずだ。どうしても気になる。だが、聞いたところで返って来る返事は私への罵りだろう。

でもやっぱりどうしても気になって、いけないとは知りつつ、良治が見てない時に、良治のカバンの中を見てみた。綺麗に折り畳まれた練習着が3組、あった。最近の暑い気温にしてはあまりに綺麗な状態な気がするが、なんだ、あるじゃないと思い、それらをそのまま洗濯機に入れた。

 それからしばらくして、練習着がないことに良治が気づいた。

「部着、カバンから出した?」

何か言われるんだろうな、とは思いながらも、嘘をつく必要もない。

「ええ、とったわよ。ちゃんと持って帰ってきてるならちゃんとだしなさいよ。」

と言った。次に何を言われるだろうか、と考えていると、

「ああ、そう」

とだけ言って、良治は自分の部屋に入って行った。拍子抜けしてしまって、その背中には何も言うことができなかったが、息子の、とても悲しそうな表情が目に焼き付いた。


 次の日、良治は学校を休んだ。特に何も言わずに、今日は休むとだけ言って、また自分の部屋に戻っていった。昨日と同じく、物悲しい空気が感じ取れた。

今日は、唐揚げをつくろうと、決めた。昔から、良治に何かおめでたいことがあった時や、辛いことがあった時などは、唐揚げを作ることに決めていた。良治が受験に落ちた時、その後公立の学校に受かった時はどちらも唐揚げを家族三人で食べたのだった。

 それは、良治が私の作る唐揚げが、大好物だからだった。小学生の時などは前日に唐揚げを作ったと言うのに、次の日には「なんで唐揚げじゃないの〜」と駄々をこねていた。年齢が上がって、あまり食事中に話さなくなった今でも、唐揚げを食べた時には

「美味い。」

と小さいけれどもはっきりとおいしいと言ってくれる。何があったのかは分からないけれど、とにかく良治は落ち込んでいる。ならば、私がしてあげられることは唐揚げを作ることだ。

 早速良治に声をかけて近所のスーパーへ行き、一番鮮度の良いモモ肉を買った。味付けはいつも通り醤油、酒、みりんとニンニクに、一口大に切ったモモ肉を一時間浸す。その後、多めに片栗粉をつけて丁寧に揚げていく。おそらく揚げる段階になると良治の部屋にも唐揚げの匂いが届いているだろう。いつもより少し多めに揚げて、食卓に綺麗に並べる。綺麗な狐色にあげることができた。これで良治の心も回復させてあげたい。

「良ちゃん。お昼ご飯に唐揚げ作ったよ。」

少し待っていると、良治が部屋から出てきた。

「ほら、いつもより多めに揚げたの。おかわりもあるからね。」

良治はしばらくじっと唐揚げをみた後、突然手の甲で唐揚げの山を払った。いくつかの唐揚げが壁にぶつかって、ぐちゃり、と有機物特有の音を立てる。

「いらねえ。」

それだけ言うと、良治はまた部屋に戻っていった。

 しばらく声が出なかった。何が起こったのか、視覚と脳の繋がりが希薄になっているのか、よく分からない。何も聞こえない。

 どんな時でも、受験に落ちた時であっても泣きながら良治は唐揚げだけは美味しそうに食べてくれた。だが、目の前の唐揚げは床や壁に無惨に散り散りになっている。

 ここで、我慢するんだ。耐える。飛び散った唐揚げを一つずつタッパーに詰めながら、自分に言い聞かせる。壁に飛んだ唐揚げ。床に落ちた唐揚げ。皿の上で潰れた唐揚げ。全部集めてタッパーを冷蔵庫に入れた時に、醜くなった唐揚げの集合を見て、何かが切れた。

 良治の部屋へと向かう。扉を強く叩く。

「ねえ、お母さんもう無理。何を言っても大声で黙れ。クソババア。全く会話にならないじゃない。」

抑えてきた気持ちが溢れ出てくる。

「あなたが大切だから、自分の時間なんてほとんど取らずに支えてきたのに、その結果がこれならお母さんもうしんどい。」

もっとちゃんと話がしたい。

「学校で何があったのか、何が悲しいのか、気に食わないのか。全く分からない。話せないから。聞こうと思ってもあなたは私を罵るだけ。何も相談なんてしてくれない。あなたが何を考えているのか知りたいのに、知れない。」

部屋の中からは何も聞こえない。

「もう限界が来ました。」

 それだけ言ってしまうと、私は最低限の持ち物を持って外に出た。当てもなく歩き続ける。涙が次々に出てきて、止まらない。ああ、言ってしまった。耐えると決めていたのに。あと少し耐えれたらよかったのに。

 気がついたら、以前よく水彩画を描きにきていた近所の公園にきていた。いったいいつから筆を握っていないだろう。画材は箪笥の隅の方に放置されている。良治との関係は、色んな色をぐちゃぐちゃに混ぜたような灰色になってしまった。いや、もしかしたらずっと前からそうなのかもしれない。それに気づかないように、目を逸らしてきただけかもしれない。

 思わず外に出てきてしまったけれど、これからどうしようか。考えてみたけれど、とりあえず今は何もしたくない。


 良治は、一人で何をしているだろうか。私が放った言葉に傷ついて、一人で苦しんでいるのではないか。ああ、気づいたら良治のことばかり考えていた。もう夕焼けが濃くなってきている。時計を見ると、公園で五時間以上も座っていた。急いで家に向かった。

 家の中はしんとしていた。だけど、良治が自室にいることが、なんとなく分かる。夕食を作ってあげないといけない。作らないと。冷蔵庫を開ける。置いていたはずの唐揚げが入ったタッパーが無くなっている。どこか別のところに置いてしまったかと思って周りを探すと、食卓の上に、あった。中身が空になっている。よく見ると、タッパーの下に紙が挟まっている。ゆっくりと、開いた。


お母さんへ

からあげを殴ってしまって、本当にごめんなさい。泣かせてしまって本当に、ごめんなさい。そんなことするつもりはなかったのに、母さんが僕のことに気づいてしまったんだと思って、辛くなってやってしまいました。

でも、お母さんが僕に言ってくれた言葉で、僕が思っているよりもお母さんとの距離ができてしまっていたことに気づきました。僕が何も言わないから当たり前だよね。

僕は、もうバレー部を辞めています。もう退部してから半年近くになります。入部してしばらくしてから、自分の背中によく先輩のスパイクが当たることに気がつきました。僕は、いつの間にか先輩のスパイクの的になっていました。それがどんどん加速していって、バレーシューズが無くなり、お母さんに背番号を塗ってもらったユニフォームもどこかへ行きました。それを部室で先輩に向かって言いに行って、当時のキャプテンだった先輩にお腹を膝で強く蹴られた時に、辞めようと決めました。

何度かお母さんに、部活でのことを相談しようと思ったのに、なぜか恥ずかしいような、悔しいような気持ちになって、気づいたら強く当たってしまっていました。お父さんには、部活を辞めたなんて言ったら絶対にがっかりされる。もしかしたら叱られるかもしれない。

だから、今までずっと辞めたことを言えなかった。部活を続けているふりをしていた。学校が終わったら、部活が終わる時間あたりまで学校近くの公園でわざわざ部着を着て運動していた。そうすると、部着に汗が染み込んで部活してきたと思われると思ったから。土日なんかは何もないのに、練習試合があるとか言って部着を持って一日中外にいて、運動したり、本を読んだり、ぼーっとしたりしていた。それでなんとか今までやってきた。

でも、何日か前に、いつものように部着で運動していると、僕にスパイクをぶつけてきた先輩たちが何故か公園の前を通って、僕を見つけた。あいつらは僕を馬鹿にして、なんで辞めたのに部着を着てんだとか、家でじっとしてろとか、言ってきた。持っていたボールをぶつけようとしてきた。悔しくなって、そのまま走って家まで帰ってきた。でも、十分に運動できていなかったから、部着は綺麗な状態のままだった。急いで庭で着替えて、家に入った。これを洗濯に出したら、部活に行っていないことに気づかれる。だから、出せなかった。

そのあと何日かは、先輩たちにみられるかもしれないと思って、公園に行けなかった。そんな綺麗な部着を、お母さんに見られて、からあげを作ってくれたから、てっきり僕は部活を辞めていることも、僕がされていることも、全部バレたんだと思ってしまった。からあげを作ってくれるのは、僕を励まそうとする時だから。恥ずかしくて、悲しくて、あんなことをしてしまいました。本当にごめんなさい。暴言をいっぱい言ってしまって、ごめんなさい。バレーを辞めていること、このような形にはなったけど伝えることができて、よかったです。

からあげ、めちゃくちゃ美味しかったです。お母さんの唐揚げは世界一です。


 泣きながら書いたからなのか、紙は滲んだ跡がいくつかあった。その滲みを、私の涙がさらに大きく滲ませた。

 私が愛を込めて育ててきた良治を守のは、私だと、自分の胸を強く叩いた。




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