新婚生活のスタート
清水らくは
新婚生活のスタート
「ただいま」
「おかえりなさい」
彼女は、笑うとえくぼができる。愛嬌があって、とてもかわいい。ずっと僕の自慢の彼女だったけれど、今は自慢の妻である。
僕は、笑うのが苦手だ。怒っていると勘違いされることも多い。そんな僕のことを、いつも彼女は受け入れてくれた。
僕は彼女を抱きしめようとした。彼女も、抱きしめられるような恰好をした。けれども二人は、すり抜け合ってしまった。
幽霊同士も、触れることはできないらしい。
新婚生活を終わらせたくなくて、僕らは「生きているふり」「生活しているふり」を続けることにした。
追突されて、運転していた車がガードレールを飛び越えたことまでは覚えている。気が付くとそばに彼女がいたので、一瞬僕は安心した。「大丈夫かい」と手を伸ばしたところで、気が付いた。僕らは崖から落ちた。それなのに、あまりにも彼女はきれいなままだ。怪我一つしていない。僕はどうだろうかと思ったが、驚いた。ひどいけがだ。全く動いていない。顔も血まみれになっている。
顔?
なんで僕は自分の顔が見えるのだろう。そして気が付いた。もう一人の彼女も、血まみれだ。「きれいな方の」彼女がまず視界に入ったのだ。
しばらく考えて、理解した。二人とももう死んでいる。きれいなのは、幽霊になった二人だ。
しばらくして、彼女も目を覚ました。幽霊の方の彼女が。
「あれ、二人いる?」
「僕はこっちだよ。あっちの僕は、死んだ僕。幽霊になっちゃったみたいだ」
「え、私も?」
「そうみたい」
「ふふ、一緒だね」
幽霊にも、えくぼがあった。
車から出て周囲を探ろうとしたら、彼女が言った。「薄くなっている」と。そして、意識も遠のいた。
肉体を離れない方がいいらしい。
「せっかくだから始めようよ、幽霊の新婚生活」
死んだというのに、彼女は明るい。
僕らは、死体のそばで幽霊の新婚生活をスタートさせた。
することがない。
車のすぐ近くにいるだけだし、そもそも死んでいるし。仕事に行く必要もない。でも僕は、身をかがめては伸ばして、「ただいま」なんて言う。彼女は「おかえり」と言う。そして、いつも笑っている。
死んだけど、幸せなのかもしれない。
彼女との新婚生活を願っていた。そして、新婚旅行に行く途中だったのだ。
「行きたかったね、旅行」
「いいの。きっと誰も行ったことのない場所で、私たち死ねたんだよ」
触れられない僕の手に、彼女は手を重ねた。
ああなんか、幸せなんだろうなと思った。彼女と死ねたことが。
そう思ったら、意識が遠のいてきた。満足したら、成仏してしまうのか。もう少し、彼女との新婚生活を続けたかった。
彼女の姿も薄くなってきている。
「私たちゴールなんだね。あ、天国でもう一回スタートしよ」
世界が暗くなり、声が聞こえなくなっていった。
幸せだった。
新婚生活のスタート 清水らくは @shimizurakuha
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