19.接客業はやはり苦手
「うーん」
広げた地図を手に、知希は唸った。
朗らかな陽の光の下、子供達が和気藹々とチャンバラ遊びをしながら目の前を通り過ぎていく。その先にはたくさんの出店が並び、その数以上に多くの客で大混雑の様子であった。誰もが下を向いて歩く日本とはまるで正反対の暖かみや活気が、ここにはある。
この日はまだ入社初日で、ウォルとの濃い会話を終えてすぐ後のことだ。研修と呼べるようなものはまるでなく、急に「仕事だ」と言われて渡されたのは簡素な地図と小さな小包ひとつだけ。
ウォルの話を要約すると、”紡ぎ屋”とは運送業のようなものらしい。知希は配達員として、番号の書かれた荷物を目的の家に持っていくのだ。
しかし、事前に入れておくべき知識など、何も教わってはいない。良く考えてみれば、知希はこの土地について、一切のことを知らないのだ。イーアは一体何を見込んで、知希を誘ったのだろうか。
それにしても……と、知希は頭を掻いた。紙媒体の地図を最後に触ったのは、学校の授業が最後。スマホのマップアプリに慣れてしまっていると、道筋を示さない紙の地図では何とも心許無く感じてしまう。しかも、きちんと製図されたものではない手書きのものだから、当然精度も良くはない。
地図には全部で八十七建の建物が描かれている。それぞれの建屋に番号が割り当てられていて、荷物の番号と照らし合わせるための、住所の役割をしているようだ。
なんとかそれらしい目印を頼りに三十分ほど歩き続けていると、目の前には木々が鬱蒼と生い茂る林道があらわれた。かろうじて、人が踏みならしたであろう一本道が森を縦断している。地図を何度か見返してもみたが、どうやらこの森を抜けた先に目的の家があるらしい。街から随分と離れた、孤立した一軒だ。
自然のアーチをくぐって、森に一歩足を踏み入れる。春の陽気は木々に遮られ、急に夜が来たかのような肌寒さを感じた。
しばらく歩くと、肌寒さは吹き抜ける涼風とともに心地よさに変わり、葉の間からこぼれ落ちる陽光と、風に揺れる木の葉の音色は幻想的な風景を知希の目にもたらした。
道の半ばで立ち止まり、ゆっくりと深呼吸をひとつ。
「気持ち良いな」
つい、誰にともなくひとりごちる。
元の世界では何かと時間を意識しすぎていて、一息つくことを忘れていた気がする。それがいま、時の呪縛から解放され、新たな世界へと踏み出したのだ。この一秒一秒を存分に味わいたい気分にもなる。
森を抜けると、再び陽の光が目を眩ます。そして、目的の家はすぐ目の前に現れた。別荘、そう一言で言い表せるような一軒。そのログハウスのような外観には、ところどころ植物や苔などに侵食されているところはあるものの、街中の建物と比べると立派な造りの家だった。
ドアの前に立った知希は、玄関扉に付いているドアノッカーを数回叩いた。コンコンコン、と金属音が森の奥にまで木霊すると、どこからともなく小鳥の囀りが返事を寄越す。
「こんにちは、紡ぎ屋です」
中からは反応が無いので留守かとも思ったが、扉の向こう側には人の気配を感じる。
「すまないね。足が悪いので、勝手に入ってきてくれんかね。鍵は空いておるよ」
しわがれた力の無い老人の声で、ようやく返事があった。
「あ、すみません。お邪魔します」
言われたとおりに押すと、扉は軋む音を立てながらゆっくりと開いた。
「おや、新人さんかね。見かけない顔だね」
出迎えてくれたのは、皺いっぱいの笑顔が暖かい老爺と、その隣に寄り添うように眠る老猫だった。
よくよく考えてみれば、知希には皮肉とも言えるような状況だった。あれだけ仕事というものに対して抵抗があって、あれだけ人間関係が苦手だと知っていたのに、そうして逃げてきた異世界で逆にそれらに深く関わることになった。
「あ、あの……」
そんな逡巡が思考回路を周回し続けているうち、知希は次に出すべき言葉を見失ってしまっていた。
「荷物じゃろう? 悪いがここまで持ってきてくれるかね」
老人はそんな様子の知希を見て、笑顔のまま手招きをした。
「あ、はい」
小さな小包を抱えて、知希は室内へ入る。
足音が妙に響く気がする。家の中は広さの割には荷物が少なく、物も整理整頓されているためか、一人で住むには少しばかり広すぎるように見えた。
老人の部屋は入ってすぐ右にあり、そこで彼は椅子に腰掛けていて、すぐ傍の床の上にはこれまた年老いた猫が眠っていた。
知希は、座っている老人の目線に合わせるように膝を曲げる。
「お待たせいたしました」
接し方には元の世界との違いがあるのだろうか。心の中で誰にともなく問いながら、知希は荷物を手渡した。思えば、この世界のマナーやルールも知らないのでは、どう振る舞うのが良いのかすら分からない。
「おお、ありがとうよ」
老人は荷物を受け取り、微笑む。
どこか、はにかんだようなその笑顔から察するに、小包の中には彼が待ち焦がれていた何かが入っているのだろう。
準備してあったのか、配達料と品代を頂く。それから忘れていることはないかと考えたが、教わったことはまだ多くはないので、特にするべきことも思いつかない。
多分、仕事は終わりだ。
そう思って知希は立ちあがり、退出の挨拶を口にしようとしたが、それを老人が手のひらで制した。
「せっかく来たんだ。良かったらお茶の一杯でもいかがかね」
知希はごくりと生唾を飲んだ。
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