20.茶会に誘うは猫の頬擦り


「あ、えと……」


 ローズにお茶を勧められた知希は、当然困惑した。他人と会話をするのは随分と久しぶりのことで、やはり苦手意識があるからだ。

 

 この日に頼まれた仕事はこの一件だけだし、時間をかけても良いとは言われている。断る理由などないのだが、ここで二人きりで会話をすると考えると、気の小さな知希には少しハードルが高いような気がしてならなかった。


 返答に困っている知希の足元を、何かが穏やかな風のようにして通りすぎる。


「おや」老人は少しばかり驚いた顔を見せた。「ラッキーも、君のことが気になっているようだ」


「あ……」


 寝ていたはずの老猫が知希の脚に自らの体を擦り付けている。そしてそのまま奥の部屋に、よたよたと不安定な足取りで消えていった。


「時間はあるのだろう? そこに座って、少し待っていなさい」


 温かみのある声で老人は椅子のひとつを勧めると、猫と同じような足取りでその後を追って行った。




 まいったな。


 そう心の内で呟いて、知希は何度目かのお茶を啜った。緑茶のような、紅茶のような、多分この世界独特の飲み物なのだろうが、緊張のせいか味がよく分からない。


「私はローズ。君は新顔だね。名前を聞いてもいいかな?」


 ローズと名乗った老人は、お茶を美味しそうな顔つきで飲みほした。


「知希と申します」


「ほう、トモキか。あまり聞き慣れない名前だね。でも、良い響きだ。ご両親も随分と悩んでつけられたのだろうね」


「そう、なんですかね……」


 そういえば、名前の由来は何だったか。確か、小学校の授業で必要だったから、母に一度訪ねたことがあったとは思う。気にしない日々が続いて、もう忘れてしまったが。


 命名には父も関わったのだろうか。


 それから、やはりというか話を膨らませることが出来ずにいると、ローズはおもむろに立ち上がり、先程知希が持ってきた荷物を開封しはじめた。


 その音に反応してか、ラッキーと呼ばれていた猫がどこからともなく寄ってくる。


 良く見てみれば、”彼女”の瞳は真っ白に曇っていた。老いた動物に良く見られる白内障だろうか。ゆっくりと、たまに物にぶつかりながらも、彼女は主人のもとへとたどり着く。


 その光景を見ていると、知希は込み上げてくる苦い記憶に胸が締め付けられた。


「”またたび”だよ」


  ローズは開封した箱から粉のようなものを取り出し、知希に見せた。その粉の入った袋にラッキーが近づき、鼻をひくつかせている。


「またたび……」


 その様子を見て、知希も繰り返した。


 ローズは袋から少量を手に取ると、ラッキーに与えた。


「彼女も、私と同じくらいの年寄りだ。いや、それ以上かもしれん。餌もあまり食べなくなったし、昔みたいに喉を鳴らしたり、酔っ払ったりすることももう無いが、この子はとにかくまたたびにだけは目が無かった」


 ラッキーがまたたびを舐める姿を、ローズは嬉しそうに眺めている。


「この子が私の最後の家族だから。この子が好きなものくらいは、与えてあげようと思ってね。それで紡ぎ屋を良く使わせてもらっているんだ」


「そうなんですか。……ありがとうございます」


  最後の家族、か。この老人には身内というか、子供がいないのだろうか。知希はあたりを見回してみるが、彼の家族に関する情報は皆無であった。


 満足した様子のラッキーを見送ったローズは、自分の二杯目のお茶を注ぎ、それを静かに、ゆっくりと嗜んだ。

 

 なんと声をかければ良いのか、知希には分からない。多分、ローズは久しぶりの来客を喜んでくれているのかもしれないが、笑顔の奥にどこか悲しみを抱えているこの老人に、かけてあげる言葉が見つけられないでいたのだ。


「君の両親は、ご健在かね」


 ふと、ローズがそう尋ねた。


「ええ、まあ。二人とも元気……にはしていると思いますが」


 それを聞いたローズは「そうか」とだけ言って茶をひと啜りすると、こう続けた。


「まだご両親が元気なうちに、たくさん話をしておくと良い。まだ会話ができるうちにね」


 ローズの言葉は、何故だか知希の胸に響いた。残してきた家族や、父のことを思い出させるほどに。それほど彼の言葉には何か重みがあったのだ。


 それもそのはずだった。


「私は事故で息子を失った。ひとり息子だった。妻も、息子の後を追うように病に倒れたよ。ふたりとも、あまりに早く逝ってしまった。それからの生活は、生きた心地がしなかったよ。失って初めて実感するものなんだな、家族の有り難みというものは。もっと話をしておくべきだったとか、色んな思い出を作っておけば良かったとか、ああすれば、こうすれば……。そんな後悔がずっとずっと付き纏い続ける。私は彼らに感謝の言葉すら言えなかった」


 一休み入れて、呼吸を整えるローズ。


「ふたりが居なくなって、私は自暴自棄になっていたよ。生きているのがどうでも良くなるほどにね。置いていかれたと思っていたんだ」


 彼の話に、知希は黙って聴き入っていた。相槌なんて曖昧なもので返事をしていいような話ではない気がしたからだ。


「後でいくら後悔しても、もう遅い。だから、私は皆に言うんだよ。”話をちゃんとしなさい”と」


「話、ですか」


「そうだ。人間と言うのは良くも悪くも感情で動いておるだろ。言いたいことはあっても実際に目の前にすると、気恥ずかしくなって上手く言えんくなる。お前さんも、そういうことがあるだろう?」


「ええ、まあ……」


 確かにそうかも知れない。お節介が過ぎるところもあるが、日頃から母には感謝をしていて、いつか”ありがとう”と一言だけでも本気で伝えたいと思っている。だけど、いざ本人の前に立ってみると、そう上手くは口が動かなかった。


「相手にしてもそうだ。言いたいことや表現したい感情はそこにあるはずなのだが、これが中々出てこん。だから、いざこざが起きたり、たいしたことでも無いのに気分を悪くしてしまう」


「そうかも、しれませんね」


 もしかしたら、父も上手く言い表せない心情が何かあったのかもしれない。


「そうやっていると、いつの間にか人生の終わりに近づいてしまっているんだ。人の一生はとても短いぞ、少年」ローズの温かい笑顔が知希を向く。「ぶつかり合っても良い。恥じることもあるだろうよ。しかし、お互いに心を開かねば何も進まん。まずは一言でも良い。気持ちを伝えることだ。後悔せんようにな」


「心を開く……」


「まあ、年寄りの戯言だと思って聞き流してくれ」


 ローズはそう言うと少し気恥ずかしそうに、照れ笑いした。


「いえ、そんなことは……」


 相当に辛い人生を送ってきたであろう彼の話。受け止めるに重すぎるのは当然であった。その上で彼は、知希の現状に的確なアドバイスを与えてくれたようにも思える。まるで、心のうちを読み透かされているかのような、そんな気持ちであった。


 しんみりとした雰囲気を、ローズの咳払いが振り払う。


「で、最終的に私の支えとなってくれたのがラッキーだった。彼女ももう二十を越えた。限界を感じてはおるのだろうが、私を一人にさせるまいと健気にも頑張ってくれている気がしてな」


「二十ですか」


 知希は驚いた。昔は二十を超えた猫は猫又になるとまで言われていたが、現代の日本においては二十を超える猫達も珍しくはない。だが中世を思わせるようなこの世界の環境で、二十の猫は長寿の域を超えているのではなかろうか。


「家族を亡くしてなお、ここまで来れたのも彼女のおかげだ。彼女が居なければ、私はいまごろ……」ローズはラッキーの頭を優しく撫で、悲しげににこりと微笑む。「だから出来る限り、彼女との思い出を大切にしたくてね」


 ローズが話を終えた時、思い起こされるのはウォルの話だ。大切な誰か。この老人はその意味を、重さを良く理解している。それは、まだ知希の中には無いものである。


 そして、この老人との会話の中で思ったことがひとつある。それは父のことだ。父、信明も離婚を決めたと同時にほとんどのものを失ったに違いない。理由が何であれ、ひとりで何年もの時を過ごす間、何を支えに生きてきたのだろうか。


「おっと、長く引き留めてしまったね。外も暗くなってきた」


「あ、本当だ」


  窓の外では、オレンジ色の空が紺色の海に溶け込んでいくところだった。直に暗くなる。


「いや、君が来てくれて良かった。話を聞いてくれる相手がいるととても気持ちが楽になる。ラッキーも、君には心を許しているようだしね」


 ローズはにこりと微笑んだ。


 その視線の先には、ラッキーが居た。いつの間にか彼女も知希に背中を預けて眠っている。


「こちらこそ、良いお話が聞けました」知希は丁寧に腰を折った。「お茶も美味しかったです」


  子供の頃は大人の話なんて退屈だったはずなのに、いまの知希にとってローズの話は痛んだ心に優しくじんわりと染み込んだ。まるでぽつぽつと空いていた穴を埋められていくような、そんな不思議な感覚だった。


「また、君に頼むよ」部屋を後にしようとする背中に、ローズが投げかける。「次も君に”紡いで”もらいたいな」


「あ……」


 “紡ぐ”とは、不意の一言であった。


 多くは"物語を作る"という意味もある。荷物を運び、話を聞くだけの仕事だったが、ローズにとってはそれ以上の価値があったのかもしれない。知希自身にもそれは言えることであり、”紡ぎ屋”が単なる運送業ではないことを感じ取ることのできた、貴重な時間となった。


「ありがとうございました!」


 挨拶をひとつ交わして玄関の扉を閉めた知希は、確かな達成感を感じる。自分の存在や、成したことが人を少しでも喜ばせたこと。そして何より、ローズとラッキーの暖かさは、冷えた知希に感覚を与え、それらが心の中に何かを芽吹かせた。


 さあ、急いで帰ろう。イーアやウォルさんに迷惑をかけてしまう。


 ふと、目の前に広がる林道の闇が飛び込んできた。生温く、まとわりつくような風が漏れ出ている。来た時の優しい姿とはまるで正反対の、険しい顔を見せた帰り道に、知希はたまらず身震いした。


 屋敷に戻るには、この道を再び通らなければならない。来た道の何倍もの長さがあるかのような、一歩踏み出すことを躊躇させるほどの、この闇の中を。


 一気に駆け抜けるか。慌てず周りに注意しながら抜けるべきか。


 そうもたもたしていると、闇の中から木の枝を踏む音が鳴った。


 目を凝らしてようやく見える。暗がりの中から人影がこちらへと歩み寄ってきているようだ。


 誰だ。


「あ……。なんで」


 知希はその人物の姿を確認して、驚いた。まさかここに現れるとは思っていなかったからだ。


「随分と遅かったな」


  父、信明だ。


 グラスの抜けた眼鏡の奥には、いまひとつ感情の分からぬ瞳が灯っている。しかし、再会した時の怒りは随分と落ち着いているような気がした。


「帰るぞ」


 ぶっきらぼうに、父は言う。


 わざわざ迎えに来てくれたのだろうか。人を殴っておいてそんなことは無いだろうとも知希は考えたが、ここで思い出したのはローズの話だ。


 そういえば、父と会って、まだまともに話のひとつもできていない。再会して最初、父は激昂していて取り付く島も無かったが、時間を置いたいまなら、ゆっくりと話ができるのではないだろうか。


 なら、どう切り出すべきか。


 知希は父の声にどう返事をして良いものか考えながら、ついには無言のままで父のもとへと歩み寄った。


 いざ、こうして見ると、父の姿は大きく見えた。身長は同じくらいの背丈なのに、不思議と知希は父の顔を見上げてしまっているのだ。そんな、父に抱く気持ちが上手く定まらないまま、知希はかける言葉を見失ってしまっていた。


 仕方なく、話すべき話題を逸らすように、気になることを口にした。


「あれ、リリィさんは?」


  父の側にいつも居るゴスロリの少女が見当たらない。


「野暮用だ」


  父は表情も変えず、即答した。


 それからまたしばらくの沈黙。ふたりは向き合ったまま、一言も発せずにいた。やはり、言いたいことをいくら溜め込んでいても、実際に向き合ってみると、不思議と何も出てこないものだ。


「あ、あの……」


 言うことも決まらぬうち、たまらず知希が言葉を発した瞬間、予期していなかったことが眼前で起きた。


 生温く真っ赤な液体が知希に降りかかり、口を閉ざす。


「……え?」


 瞬時には理解出来なかった。それが父の鮮血だと。


 全くの無音の中、一瞬のうちに事態は急変していた。肉を貫き、信明の胸から鋭い剣の先端が突き出ていて、赤く鈍い光を放っている。


「……ごふっ」


 泡立つ不快音が立ち、父の口から溢れ出す大量の血液。虚ろになっていくその目が、知希の呼吸を荒くした。


 父が背後から何者かに刺された。治安の良すぎる日本にいた知希にとって、この異常事態は彼の行動を縛り付けるに容易かった。


 そして、剣がするりと来た道を戻って行くと、次に……。


 父の首が飛んだ。


「……っ!」


 事態を把握した知希は、目の前で起きた惨状に絶句するほか無かった。上下する胸の鼓動をぎゅっと握りしめ、押さえ込む。


 父の身体が物言わず崩れ落ちると、その背後に人相の悪い髭面の男が立っていた。男は剣に着いた血糊を払い落とし、その切っ先を次に知希へと向ける。


「お前、紡ぎ屋だな。持っている有り金、全部置いていきな」


 知希がこの世界の闇の一片に初めて触れた瞬間だった。

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