17.イケメン執事がチャラい
--なんでこんな事も出来ない。何度やり直せば分かる? 馬鹿なのか、お前は。
抉るような罵倒が顔面に叩き付けられる。
--小学校からやり直したほうが良いんじゃないのか? 気持ち悪いんだよ、根暗野郎。
人格を否定される言葉は、耳が詰まるほどに聞かされた。
--仕事、片付くまで帰るんじゃないぞ。出来ないんなら、辞めちまえ。明日から来るな。
周りの嘲笑が、いまだに思考を掻き乱す。助けの手などひとつもない。向けられるのは、憐れみの視線だけ。
振り払っても振り払っても、残酷な記憶はタバコの煙のように手の平をすり抜けていく。ヤニのように不快な臭いがまとわりつき、一旦脳にこびりつくと離れてくれない。
虚無を感じ、ひとり佇んでいると、目を眩ます閃光が走った。
次の瞬間、全身に衝撃が走り、強く遠く吹き飛ばされる。痛みも後悔も何もかもを吹き飛ばして。
転がった先の地面は残酷なほどに冷たい。その上で歩み寄る死をただ見つめ、その時を待つ。
目前に真っ黒な幕が下された。
「出来たぞ。どうだ」
知希の目を覚ましたのは、心地良いハスキーな男の声だった。
「あっ……え?」
気付けばとある部屋の中、大きな鏡の前に座らされている。背後には不思議そうな顔をした執事、ウォルが立っていた。
部屋中のインテリアは金色眩しい煌びやかな飾り付けで、豪奢な雰囲気を醸し出している。洋と和の入り乱れたモダンなデザインの壁紙は、どこか大正時代を彷彿とさせるレトロなものであった。
「大した奴だな、お前。普通寝ないぜ、こんな状況で」
呆れたとばかりに肩を竦めるウォル。力強い眉が凛々しく、黒に統一された装いは清潔感があり、金のオールバックは精悍さを更に際立たせるようであった。鏡の中の彼は、同性の知希が見ても惚れ惚れするほどの男らしさを携えている。男なら誰もが憧れる理想像とも言えよう。この部屋とも良くマッチしている。
はて、知希は屋敷の扉をくぐったところまではしっかりと意識があったのだが、どうやらそれ以降は気絶したかのように眠ってしまっていたらしい。
父に会うがために神経を注ぎ、その結果異世界へと飛ばされ、ようやく再会を果たすものの、頬に痛みを受けるのみに終わった。その後は何故か高貴なお嬢様に半ば強引に連れられるのだが、これだけの大冒険は知希を疲弊させるには十分すぎた。無理もない。
過去の記憶に疼く胸を押さえて、知希は鏡越しにウォルに視線を送る。
「す、すみません。長旅で疲れてたみたいで」
「長旅ねぇ。まぁ良いんだけどな」訝しげに目を細めたウォルは、知希の両肩に手を置く。「で、どうよ? 仕上がりは」
鏡に映る知希はまるで別人だった。寝ている間、ウォルが調髪してくれていたらしい。丁寧に散髪され、整髪剤で固められた頭髪は正当に見えて嫌らしくなく、日本人である知希にも違和感は無かった。
ウォルと同じオールバックである。
「すごっ……」
思わず声が漏れ出た。
「それ、褒めてるんだよな?」
再び眉間に皺を寄せたウォルが、鏡の中で目を細める。
知希は慌てて首を上下に振った。こんな時、うまく動く口があると良いのだろうが、意に反して言葉が出ないのが彼の悩みどころである。
ともかく気持ちは伝わったようで、ウォルは怖い顔から一転、笑みをこぼした。
「ふふ、だろうな。お前イケてるぞ。いまの時代、ギャップは大事だからな。オールバックなら完璧だ」
「ギャップ、ですか?」
「そう。接客業として清潔感は大事だ。人は初めて見る人間を、まずは見た目で判断することが多い。しっかり髪型整えるだけで、お前を見る目も変わってくる」
「なるほど」
知希は元の世界でも、新人研修の時に同じような講義を受けたことを思い出した。
「で、ここからが本題だ」ウォルは不敵に微笑む。「そうやって普段しっかりしてる奴が、雨の日やオフの日なんかに髪を下ろしてみろ。髪を掻き上げる瞬間、はい、ここで印象がガラリと変わる! 女子(おなご)が見た日にゃ、一発でトキめいちまう。お前、モテてしょうがなくなるぜ」
容姿端麗な執事はウインクをひとつ、人差し指を突き出す。大人の男らしい、色気のある仕草は眩しく見えた。
「は、はあ」
勢いの強さに尻込みして声を出せずにいたが、正直なところ知希は喜んでいた。この世界では何もかもが新しい。自分を知る人間がいないこの世界では、何にでも挑戦ができる。生まれ変わろうとする自分にも微かな自信が持てた。
「ありがとうございます。好きです、この髪型」
うんうんと頷いたウォルは、手を差し出した。
これからここで仕事を始めるのかと思うと、不安にならないわけではない。考える間もなくとんとん拍子でことが進んでいき、知希は困惑もしていた。異世界とはいえ、どうしても過去を思い出してしまう。残酷な記憶が、一歩踏み入れようとする足を掴んで離さない。
だが、もし。もしかしたら新しい道が……正しい道が目の前に敷かれているのかもしれないという期待。フェレスのいう自分に見合った世界が、"ここ"であるのだとすれば。
変わりたい。ここに来て、素直にそう思えた。二度目のチャンスがあって欲しいと願った。そのためにはまず初めに自分が変わらなければならない。
だから、知希も握手の手を差し出す。まずば一歩を踏み出すために。
交わる手と手。相手の暖かみを感じる。強く、揺らぎのない大人の手。
この一手が、再スタート地点となるのだ。
しかし、伸ばした握手の手は裏切られた。
一瞬のうち、知希の視点は天井を向く。
「えっ」
身体が宙を泳ぎ、重力を思い出すと、背中から地面に叩き落とされる。
「痛っ!」
床は柔らかいカーペットで、幾分かは衝撃と音を受け止めてくれた。それでも身構える猶予すら無かった突然の転倒には、知希も驚きを隠せない。
「な、何するんですか」
混乱する頭を整理する。ようやく、ウォルに手首を捻られ、足をかけられたことを知った知希は、転がってうつ伏せの状態から起きあがろうとした。
「よいしょっ、と」その上に執事は軽く腰掛け、知希の動きを封じる。「悪いな。お前さんにひとつ忠告だ」
「な、何を?」
「まぁ、聞いてくれ」ウォルは口角をあげると、遠くを見るような目で話を始める。「お嬢は知っての通り、世界屈指の大富豪だ。分かるよな。お父上から引き継がれた”紡ぎ屋”の仕事を切り盛りする裁量もある。故に玉の輿に乗ろうって輩も多いし、自らの欲望のためだけに婚姻を望む貴族もいる。荒くれ者に狙われる危険性だって常に隣り合わせだ」
鏡に映る彼は、先程までとはうって返って真剣な眼差しで知希を見つめてくる。瞳を通り越して、本心を鷲掴みにされるかのような威圧感を感じるほどだ。
ウォルは返事を待たずして続ける。
「お嬢は優しい。誰にでもな。お前さんにもそうだったろ? 人を惹きつける魅力のある子なんだ、あの子は。だから、慕う人間も多い。ジェイだって彼女に助けられて、いまがある。我が身を犠牲にしてでも彼女を守り通すくらいの覚悟はあるだろうよ」
「それはなんとなく分かります……」
知希は抵抗することを止めた。
イーア達とはまだ出会って数時間しか経っていない。彼らのことをまだ何も知らないが、知りたい、仲良くなりたいと思えるような人達だったことは確かだ。
「お前さんには”大切な誰か”、っているか?」
ウォルが穏やかな声でたずねた。
大切な誰か……。
そう言われて、知希が思い浮かべたのは母や瑛二、綾のことだった。だがそれはあくまで家族だからであって、当たり前のことなのだろう。だが、その家族を放って異世界に飛んできたからには、そんなことを言う資格は無いのかもしれない。
「恋人だったり、親友だったり……」ウォルは言葉を並べていく。「家族とか」
「俺は……」
だが、やはり口に出せる答えは見つからなかった。
「そうか、悪いな。まだまだいまからってとこだよな」
内心を察してくれたであろうその言葉に、知希は目を伏せた。
「まぁ、要するに俺が言いたいことはな。あの子に手を出したら承知しねぇぞ、ってことだよ」
ようやくウォルの重い腰が上がり、起きあがろうとする知希に再び手を差し伸べてくれる。自身のことは口にしなかったが、おそらく彼もまたイーアを慕っているひとりなのだろう。だからジェイと同じく、何者かも分からない知希という存在を警戒しているのも、至極当然のことだ。
しかし、これほどまでに信頼を集めているイーアは、一体どれほどの女性なのだろうか。知希の心に芽生えていた好奇心が、より大きく成長する。彼女のもとで働けることが楽しみでならない。
「見たとこ、お前さんからはそんな悪い感じしないからな。人前で寝ちまうくらいだし。何より、お嬢自身が選んだんだ。問題無いとは思ってるよ」
「……?」
知希が手を掴むと、自分の力など不要かと思えるくらいの強い力で引き起こされた。なるほど、背中に乗られてビクともしないわけだ。
起き上がらせてもらって、歪んでしまった衣服を伸ばして正す。
「お嬢の”人を見る目”は確かだってことだよ。まさか、ただ単に人手不足だから連れてこられたとでも思ってたのか?」
「は、はい。違うんですか?」
理由も何も無く、無職と知るや否やここまで真っ直ぐ一直線だった。困り果てていたイーアの表情を思い返すに、よほど人員に困っていたのだと推察していた知希であったが、どうやらそうでは無かったらしい。
「ははは」ウォルが声を大にして笑う。「お嬢のことだ。そう見えてもしょうがないよな。でもな、誰でも彼でも招き入れてるわけじゃないんだぜ。お嬢には不思議な選択眼がある。この"紡ぎ屋"が続いてきた秘訣だ。それで多分、お前の中に何かを見たんだろうよ」
そう言って知希の肩を二度叩くと、ハンガーラックにかかった一着の黒スーツと帽子を手に取った。黒に金のライン。握手の形をしたワンポイントマークの入った、ここの制服のようだ。
「もっと自信持って良いと思うぜ。お前も今日から紡ぎ屋の一員なんだ。仲良くしていこうや」ウォルはそう言うと、知希に向かってスーツを広げる。「俺の名前はウォルバード。ウォルと呼んでくれ」
上着に手を通すと、真新しい匂いが舞った。肌触りが滑らかでひっかかりもなく、着る者を奮い立たせる暖かさが滲んでくる。
フェレスとの契約の時を思い出す。彼が言い当てた、異世界への渇望はとても否定できるものでは無かった。初めは父との再会を願ってやまなかったが、この世界に来た本当の理由はまた別にあるのかもしれない。せっかく手にしたこの機会を、知希は無駄にしたくなかった。
新しい人生のスタートを感じ、これから先に待ち受けるものに胸の鼓動を高鳴らせる。
「トモキです。よろしくお願いいたします!」
人生をやり直したい。
知希の中に初めて生きるための活力が湧いた瞬間だった。
イーアが物凄い勢いで部屋の扉を開けたのは、それからすぐのことだ。
「トモキ! 早速仕事よ!」
小さな荷物を抱えた彼女の笑顔が弾けた。
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