15.四者面談で再就職

 川を流れる一枚の木の葉のように、知希はイーアの提案に揺られていくしかなかった。彼女の強引さなら、抗えなかったとも言い換えられる。ともあれ、行くあての無い身にとってはこれ以上ないほどの救いなのだろうが。


 知希が飛ばされてきたこの場所は、緩やかな傾斜のある丘の頂上だったらしい。五人で降りていく道中に、木製の小さな小屋がひとつあった以外は、自然の暖かさが気持ちの良い場所だった。目を撫でるような優しい緑が、見果てる先にまで広がり、個性豊かな色達は明るく咲き乱れ、小鳥や虫たちが生き生きと飛び回っている。


 春だ。


 父の部屋に居た時は、冬の寒さもまだ厳しく残っていたのに。


 知った道を行く皆の後ろ姿をしばらく追い続け、丘を降りきる。緑を抜けた先に舗装された道路があるはずも無く、かろうじて申し訳程度に整備された砂利道が果てしなく伸びているだけであった。


「さあ、どうぞ。乗っちゃって!」


  膝をついて呼吸を荒くするジェイを横目に、イーアの疲れ知らずな元気が炸裂する。


 そこに、馬車が用意されていた。生まれて初めて目にするものだ。未だ”地球”のどこかでは活躍しているのだろうが、少なくとも知希の周りで見かける機会はまず無かった。


 四人ほどで入っても十分な広さを備える大きな箱は、自らの周りを豪奢に飾っていて、縁(ふち)を彩る金の模様がとても眩しい。お嬢様とも呼ばれているイーアは、よほど立派な家柄の生まれなのかもしれない。


「えっ」


 驚きが走ったのは、馬に視線を動かした時だった。考えもしなかった光景に、知希は我が目を疑ってしまう。


「と、虎?」


 そう、箱を引いていたのは馬ではなく、一匹の大きな虎だったのだ。手綱は繋がれていない。毛並みは白く、分厚く、艶やかな光沢を帯びている。知希よりもひと回り大きな身体は、心無しか背筋がしっかりと伸びていて、気品の良さが垣間見える。獣臭さを全く感じさせない上品な虎だ。


 この世界では虎が車を引いているというのか。


「あら、トモキは”猫”が苦手なのかしら」


 虎を見て動揺する知希を見て、イーアがくすりと笑う。


「いや、苦手とかそういうのじゃ……」


 これは猫じゃなくて、虎だろう。自分の知っている常識が、常識ではない感覚。それをなんと説明して良いものか、頭が痛くなる。


「イーア。まだ虎に引かせているの」


 知希の隣からリリィが顔だけを出して、無表情な口を開いた。


「この子とは長い付き合いですから。少しの時間でも、一緒に居たいとは思いません?」


 そう言いながら、イーアは虎の頭を撫でた。


「にゃあ」


 虎も喉を鳴らす。


 やっぱり虎なのか。


「いま、にゃあって……」


 自分がいま何を見ているのか、いよいよ理解が追いつかなくなると、呆然としてしまう。もうこれ以上、気にしないほうが良いのかもしれない。


「ほら、早く乗って」


 そんな知希の背中を、イーアが優しく押す。


 虎の姿から目が離せなくなった知希が最後に見たのは、彼か彼女か……がジェイの腕に噛み付いているところだった。


「いたた、こら!」


 ジェイは不機嫌な声を上げていた。彼らはあまり仲が良くないのだろうか。


 きらりと輝く鋭い牙であるにも関わらず、”痛い”程度で済むのなら、甘噛みなのかもしれない。


 馬車……もとい”虎車”に乗り込むと、奥に座らされ、隣にイーアが座った。向かい側にはリリィが座り、その横に父が腰を降ろす。


「カロス、お願い!」


  窓から上半身を乗り出したイーアが叫ぶと、虎車はゆっくりと動き始めた。


 いままで車に乗りつけていた知希にとって、旧時代の車が砂利道の上を走るのはいささか窮屈に感じられた。そう感じさせたのは、何も車やカロスと呼ばれた虎のせいだけではない。車内に満ちた奇妙な雰囲気もまた、知希の気持ちをきつく圧迫させていた。


 道中はとにかくイーアからの質問攻めだった。出身はどこか。年はいくつか。好きなもの、嫌いなもの。いままで旅した場所はどんなところだったか。彼女は好奇心の塊だ。何と答えても、瞳の輝きは常に先を促してくる。


 中には答えるに苦労することも聞かれたが、リリィと父からの助け舟は一切無い。


 リリィはじっと知希を見つめているだけで、顔には皺ひとつ出さぬ寡黙ぶりだ。こちらの言動をひとつも見逃さないような目つきが、ここに至るまでの知希の選択を咎めているかのようで息が詰まりそうだった。


 父はまるで会話を拒むかのように、顔を背けている。窓の外を眺めるその先に、一体何を見つめているのだろうか。


 御者席に落ち着いたジェイはというと、客室内を覗ける小窓から、じっと知希のことを見張っているらしく、これはこれで居心地の悪さを味わわされた。


「それで、旅人のトモキはこれからまた旅に出るの? それとも、本業を何かお持ちかしら」


 そう聞かれて、知希は返答に困った。


 旅人かと問われれば、間違いではない。しかし、いまはどうだろう。元の世界とは別れを告げた時点で、仕事とも縁を切った無職である。そう伝えると、イーアはがっかりするだろうか。


「えと……。いまの仕事が落ち着いたので、また違うところを探してみようかなって……」


 苦しいか。どうしても返答は曖昧になる。


「無職ってことかしら?」


 しかし、首を傾けてズバリ言ってくれたイーアは、なぜか詰め寄るように知希に顔を寄せた。


「え、ええ……まあ……はい」


 近い。


 二つの意味を持って恥ずかしくなった知希は頬を紅潮させると、彼女の顔を直視できなくなってしまった。


 これ以上彼女の蒼く煌めく瞳を見つめていると、気絶してしまいかねない。イーアのような美女を、いままでに見たことが無かった。ましてやこれだけの至近距離で異性を見ることなど。ふわりと香る優しい甘さには、初恋の記憶さえ溶け込んでいる。


「ならトモキ、付き合ってくれない?」


 何かの聞き間違いかもしれない。しかしイーアの言葉は知希の心に深く広く突き刺さった。


「へっ?」


 知希の頭は一瞬で真っ白に染まりきる。いまにも白目を剥いて倒れてしまいそうなほどに。


 しかし、イーアの眼差しは真剣そのもので、どこか懇願する勢いすら感じられる。冗談などではなく、そこには何らかの理由がありそうだ。


 それがどんな理由であるにせよ、知希に向かいの二人から救いの手が伸ばされることはなく、判断は知希自身に委ねられている。


 胸の鼓動は熱くなる一方で、返事に戸惑っているうちに、イーアが手を握ってきたところでそれは最高潮に達した。


「お願い、トモキ」


「い、いや、あの……」


 心の奥底まで潜り込んでくるかのような瞳の輝きに、知希は耐えきれず視線を逸らし続けることしか出来なかった。


 逸らした先に、いまにも小窓を破って中に入って来んとする鬼のような形相のジェイがいたので、無視して窓の外を流れる景色に集中する。


 息が詰まるような圧迫感。ふと、一抹の不安が過ぎる。


 このままで、大丈夫なのか。


 流されるがままに流れてしまっている自分に怖れを抱いた。まだこの世界のことを一ミリも理解していない。実際に存在するのかも確信がなく、頭の中だけの世界だという可能性だってある。自らの状況、立ち位置もあやふやだ。フェレスとの契約にしても、うまく飲み込めないままにサインをしてしまった。


 果たして、このままこの世界の住人のひとりとなってしまって良いのだろうか。


「あなたにお願いしたい仕事があるの」イーアが困り顔を作る。「うちの仕事なんだけどね。人手が足りなくて、助けてくれないかしら?」


  まるで時の流れがもとに戻るかのような感覚。我に返った知希は自分の自惚れが落ち着くのをゆっくりと待った。


「仕事、ですか」


「そう。うちの事業のひとつとして、”紡ぎ屋”ってのがあるの。まぁ、簡単な話、荷物運びなんだけどね。やってもらえないかなって」


「彼女は社長でもあるの」


 リリィの開かずの口が開いた。


「え。社長?」


 見るからに知希よりは年下だというのに、そんな大役を担っているのか。豪華な馬車や彼女の煌びやかな服装。専属の護衛が付いていることにも納得が行く。彼女の背にはどうやら大層な負荷が乗っているらしい。しかし、そんな素振りは微塵も見せない。


「社長とは言っても、父から受け継いだものばかり。元から良い材料が揃っていたんだから、私が出来ることは何にも無いわ」


「それを維持することもまた、大変なことよ。お父様の没後、何年も続いているのはイーアが居るおかげ」


 リリィはイーアを立てた。


「ありがとう、リリィ様。そのお言葉だけで十分ですわ」


 イーアがにこりと微笑む。その笑顔は、見惚れてしまうほどに美しい。


 しかし、仕事、か。知希は躊躇していた。この世界においても、やはり働くことの重要性は元の場所と変わりはないのかもしれない。


 思い返すのは、辛い記憶ばかりだ。思い出したくなくとも、過去は消えてはくれない。胸を締め付け、吐き気を促す悪魔が、知希の内側には根を張るように棲みついている。


 この世界では、何が待ち受けているのだろうか。


「分かりました。分からないことが多いですが、よろしくお願いします」


 気付けば、そう返事していた。どうせ行く先もない。それに、父やリリィをあてには出来ないだろう。何も分からず、このまま行き倒れになることだけは避けたかった。


 荷物運びとなれば、色んな土地に足を運び、色んな人とも触れ合えるだろう。人との接触は苦手だが、もしかしたらこの世界のことを良く知るための足がかりにはなるかもしれない。


「ほんと? やった! ありがと、トモキ!」


 喜びに明るさを振り撒いたイーアは、衝動そのままに知希に抱きついた。


 最初は思わせぶりな行動に困惑もしたが、本来これが素の彼女なのだろう。そう考えると、また見る目が変わった。この一辺倒な明るさ、幼い頃の綾に似ている。そうすることで、何かを隠そうとしているところもまた……。


 守ってやりたい、そうジェイが思うのにも納得がいく。


 ふと気付いた時、そのジェイが怒り顔に腕を組んで、イーアの隣にいつの間にか座っていた。


「狭い! 暑苦しい! 汗臭い!」


 そして、イーアに叩かれるジェイを、知希は苦笑いで眺めるのだった。

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